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⑶強襲

 口の中が血の味で一杯だった。

 殴られた拍子に頬の内側が切れたらしい。湊が舌で傷口を確認していると、ソフィアが濡れたタオルを差し出してくれた。


 生傷には慣れていた。幼い頃は航と流血沙汰の殴り合いをして来たし、このくらいどうって事無い。例え、その弟が夜中に起き出して自分の首を絞めて来たとしても「まあ、俺も悪かったんだろうな」と受け流せる。


 割れたティーカップを片付けながら、湊は話せる限りの情報を開示した。夜中に首を絞められたことを話すとリュウとソフィアが揃って眉を顰めたので、苦い思いになる。


 航は眠っていた。リュウが行ったのは陰陽道による術式で、所謂相手の意識を飛ばす当身みたいなものらしい。


 リュウが咎めないのが意外だった。

 湊の話を聞き終えてからは人形をじっと睨み、黙り込んでしまった。沈黙が居た堪れず、湊はちらちらと二人の様子を伺った。リュウは小さく息を吐き出した。




「航は、この人形を何処で拾って来たんですか?」

「解らない。帰り道で見掛けたとしか聞いてない」

「見掛けた時に何かしたんですかね」

「航はそういうことはしないよ。危ない橋は渡らない」

「見習った方が良いわよ」




 ソフィアが皮肉を言う。

 湊は何故かその言葉にほっとした。非常時に普段と変わりなく冷静を保ってくれる存在は貴重だ。


 リュウは検分を終えたのか顔を上げた。




「航の行動範囲から遭遇地点を探せませんか」

「ルートは絞ってある」




 湊は地図を広げた。

 この地区の拡大図だ。航の帰宅経路は解るのだが、人形が何処から来たのか全く手掛かりが無い。


 起こして訊くのが一番早いのだろうが、錯乱している可能性がある。


 参ったな。

 湊は腕を組んだ。


 怪奇現象には噂や怪談が付き物だが、今回に関しては全く解らない。この人形は何処から突然、航の前に現れた。そう考えると、偶々帰り道で遭遇したという根拠が薄くなる。


 もっと別の理由があるのではないか。ーー自分が呪詛を掛けられた時のように。


 狙いは航なのか?

 それとも?


 思考を巡らせていると、リュウが呼んだ。

 湊は考えを放逐するように首を振った。自分の悪い癖だ。一人で考え過ぎる余りに可能性を見落とす。




「兎に角、この人形は此処に置くべきではないでしょう」

「ああ」




 湊は頷いた。

 航が眠っている今がチャンスだ。

 リュウは人形を抱えると、立ち上がった。




「取り敢えずは僕が預かります。その間、湊は航を見ていて下さい」

「ああ。ーー助かる」




 リュウは軽く肩を竦めると、部屋を出て行った。

 湊は心霊現象の類を一切感知出来ないので、現状がどうなっているのか正直解らない。


 寝ている航を見遣り、湊は肩を落とした。







 4.殺人人形

 ⑶強襲







 航が目を覚ましたのは、日の落ちた夕暮れだった。

 目の下に酷い隈があり、頬は削げ落ちていた。

 憔悴し切った弟の姿というのは、精神的に来るものがある。直視に堪えない姿ではあるが、目を逸らす訳にもいかない。

 湊が平静を装って「おはよう」と告げると、航は辺りをきょろりと見渡した。その視線が何を探しているのか悟り、湊は机の下でぎゅっと拳を握る。




「あの人形は?」

「汚れていたから、洗濯してる」




 航は追求しなかった。

 そうなのか、とやけに物分かり良く頷いて、それ以上は何も言わなかった。


 湊は航の側に膝を着いた。




「お前、あの人形を何処で見付けたの?」

「ゴミ捨て場に座っていたんだ」




 可哀想だろ。

 航が言った。湊も同感だったが、それは可哀想というよりも、勿体無いという感情が近いかも知れない。




「綺麗にしたら返すよ」

「いつ?」

「三日くらい掛かるかな。服も修繕するから」

「解った」




 適当な嘘を並べていると、ソフィアが白い目を向けて来る。湊は気にせず航へ向き直った。




「あの人形は誰が作ったのかな」

「知らない」

「昨日は嫌な感じがするって言ってなかったっけ?」

「気が変わったんだ」




 航は苛立っていた。床に下ろした足が忙しなく揺れる。威圧するように両腕を組み、虚ろな両目が彼方此方を睨む。


 気が変わったとは、航らしくない言葉だ。

 違和感だらけの弟の姿に、湊の神経もささくれ立つ。ぶん殴ってやれば、正気に戻るかも知れない。

 いや、体格差で負けるかな。やってみても良いが、今はその時じゃない。湊は自分に言い聞かせた。


 夜になると母が帰宅し、入れ違いにソフィアが帰った。

 夕食は湊が作った。面倒だったのでホットプレートを引っ張り出して、もんじゃ焼きにした。吐瀉物みたいな液体を三人で突いた。航は食欲が無いと言って殆ど手を付けず、結局湊が殆ど一人で食べた。


 母は体調不良を心配していた。

 風邪かも知れないから、明日病院へ連れて行くと適当なことを言っておいた。何かに取り憑かれているだなんて言えない。


 就寝の為に自室へ向かうと、室内は真っ暗だった。

 午後十時、航は既に寝ているらしかった。念の為にサーモグラフィー装置と集音マイクを設置して、湊もベッドへ潜り込んだ。


 夢を見た。


 雲の中みたいな真っ白い空間で、大勢の人が一列に並んでいる。湊は最後尾だった。目の前には航が並んでいて、振り返らない弟に、話し掛けるという選択肢は許されていなかった。


 突然、空が白く光った。後光を背負った白い髭の老人が現れ、人々は一言も喋らず、当然のように恭しく傅いていた。

 最後尾にいた湊だけが、立ち尽くしてそれを見ていた。


 老人は腕を広げ、厳かに口を開いた。




「この中の一人が死ぬのなら、他の人は助けてやろう」




 老人は先頭の者から順に「お前は死ぬか?」と尋ねた。嫌だと首を振ると、彼は「宜しい。ならば、次の者」と慈悲深く微笑んだ。


 皆が嫌だと首を振る。湊は酷く自虐的な気持ちでそれを見ていた。全員がそう答えると解っていたからだ。

 航はどうするだろう。もしも死んでも良いなんて言ったら、ぶん殴ってやる。

 航が首を振った時、湊は安心したような、裏切られたような複雑な気持ちになった。

 とうとう湊の順番が来る。




「お前は死ぬか?」




 老人ーー神様は同じ質問をした。皆の視線が冷たく刺さる。湊は顔を上げた。




「嫌だ」




 その瞬間、嵐のような罵詈雑言が包み込み、神様の顔がぐにゃりと歪んだ。其処に老人の顔は無かった。凹凸の無いつるりとした顔は、のっぺらぼうみたいだった。


 人殺し。鬼。悪魔。

 お前なんて死んでしまえ。消えろ。

 他人の下らない野次はどうでも良かった。だって、それなら彼等が頷けば良かったじゃないか。


 残酷な気持ちで聞き流していると、のっぺらぼうの神様が問い掛けた。




「弟が死んでも良いのか?」




 湊は迷った。

 それは困る。でも、航なら怒るんじゃないかな。

 他人と一緒になって罵声を浴びせる弟の姿は中々にシュールだった。湊には、それが夢だと解っていた。


 その時、床が抜けたみたいに湊は転落した。

 胃の中が引っ繰り返りそうな浮遊感を味わいながら、湊はただ空を見上げていた。航が冷たく見下ろしていた。その光景がやけにリアルに感じられた。


 目覚めた時、辺りはまだ暗かった。

 枕元の携帯電話に触れると、覚醒するには程遠い真夜中だと解る。着衣水泳でもしているような倦怠感を覚えながら、湊は身を起こした。


 湊は夢の内容を鮮明に覚えていた。

 幼い頃に繰り返し見た神様の夢だ。当時は悪夢の類だったのだが、今では余りにチープで虚しくなる。

 当時はまるで自分が世界中から死を望まれているみたいで恐ろしかったのだ。神様から問い掛けられるのが怖かった。黙って爪先を見詰めていることしか出来なかった。


 喉が渇いたので、リビングへ向かった。

 浄水器からコップ一杯の水を注ぎ、暗いリビングで飲み干した。携帯電話のブルーライトだけが眩しく足元を照らしている。


 久々に見たな。

 湊は独り言を零した。


 夢のメカニズムは解明されていない。

 脳が記憶を整理する為に見させる無意識の断片だとされているが、本当のところは解らない。未来を暗示する予知夢というものもあるし、ストレスによるものという考えもある。


 湊が神様の夢を見る時は、決まって精神的に追い詰められている時だった。もしかすると、今の自分は自覚するより参っているのかも知れない。


 コップを洗って乾燥機に置き、自室へ戻る。

 薄暗い廊下を一人で歩きながら、頭に浮かぶ色々な考えを押し殺した。物事はなるようにしかならないし、焦っても仕方無いし、自分は最善を尽くすしかない。


 そうして廊下を抜けた時、玄関から小さなノックの音がした。インターホンを鳴らす訳でも無い。扉の低い位置を叩く頼り無い音だった。

 普段なら子供の悪戯だと思った。だが、時刻を考えると不自然だった。湊は闇に沈む玄関をじっと見据えた。


 違和感を覚えたのは、その時だった。

 廊下の人感センサーが作動していない。明かりが点かないのだ。


 こんこん。

 ノックの音は止まない。

 湊は玄関を睨みながら、携帯電話を取り出した。履歴からリュウへ電話を掛ける。非常識な時間だが、非常事態だ。


 通話はすぐに繋がった。

 寝起きらしい掠れた声でリュウが応答する。




「遅くにごめん。あの人形、何処にいる?」




 湊が問い掛けると、スピーカーの向こうから物音が聞こえた。身動ぎするような衣擦れの後、リュウが絶望的な声で言った。


 いない。

 湊は舌打ちを漏らした。玄関から目を離した一瞬、ノックの音が止んだ。人形が其処に座っていた。

 闇の中で青い硝子玉が此方を見ている。湊は苦く言った。




「来たぞ」

『すぐに向かいます』




 通話は切らないで。

 リュウが言うと同時に、人形はばたりと倒れた。湊は後退り、自室の扉を背中にした。


 航のところへは行かせない。行かせたら駄目だ。


 早く来てくれ。

 通話をハンズフリーに切り替え縋るように湊は言った。リュウは「急ぎます」と焦ったように答えた。


 俯せに倒れた人形が、蛞蝓のように床を這って来る。

 頭を床に擦り付けながら、四肢を引き摺りながら、着実に迫って来る。


 恐怖は無かった。だが、打てる手が何も無かった。

 人形を壊すと、事態が悪化するような嫌な予感があった。胸を炙られるような焦燥に苛まれ、湊はただ目の前の超常現象に身構えた。


 獅子の檻に丸腰で投げ込まれた心地だった。


 リュウ、早く来てくれ。

 湊は只管それだけを願った。携帯電話を握る掌が汗で湿っていた。スピーカーの向こうからエンジンの音が聞こえる。

 リュウ、頼む。


 その時、人形は動きを止めた。発条仕掛けのように、ゆっくりと顔が持ち上がる。薄ら笑いを浮かべた白磁の面が此方を見ていた。

 そして、次の瞬間、正体不明の凄まじい力が迸った。視界が真っ白に染まり、鈍器で殴られたような激しい衝撃が背中に走った。




「……!」




 PKだ。湊は壁に磔にされながら、床を這う人形を睨んだ。見えない掌が身体を押し潰している。指一本動かない。

 身体中の至る所の骨が軋み、歯の隙間から呻き声が漏れる。人形は足元へ迫っていた。


 人感センサーも作動しなければ、母も起きて来ない。異常事態が起きていることを嫌でも悟る。

 気道が圧迫されて、息が出来ない。床に落ちた携帯電話からリュウの声がする。


 駄目だ。

 リュウは間に合わない。

 どうする。どうする。どうする。


 俺に出来ることは何だ。何が出来る。

 指一本動かせないこの状況で、何が出来るんだ。


 脳が酸欠を起こしている。思考が纏まらない。

 俺に出来ること。




「お前は独りぼっちだ」




 喘ぐように、湊は吐き捨てた。

 人形はぴたりと動きを止めた。




「誰もお前を認めない。誰もお前を許さない。誰もお前を必要としない」




 呪詛のように湊は言った。




「お前は弱虫だ」




 ほんの僅か、押さえ付ける力が弱まった。

 湊は重力のような力を受けながら、落ちていた携帯電話をどうにか拾うことに成功する。


 もういい。

 後のことは後で考える。

 今は自分に出来ることをやるしかない。


 腕に力を込める。

 諦めにも似た決意と共に、湊は携帯電話を投げ付けた。




「消えろ!」




 携帯電話は人形の胸元へ衝突した。

 人形はぐらりと傾いた。積み木の城が崩れるように、人形は足元へ倒れた。その弾みで首が外れ、足元まで転がって来た。


 伽藍堂の青い目が天井を見上げている。

 途端に息が楽になる。湊はその場で噎せ返りながら、壁へ背を預けた。

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