⑵侵食
湊のテーブルマナーはカジュアルだ。
一口が大きく、飲み込む前に次の食材を構えている。下を向きながら頬を膨らませて、一生懸命に咀嚼する様は齧歯類に似ている。
だが、手品のように大量の食材を平らげる姿は見ていて気持ちが良いし、美味しそうに見える。だから、航も母も特に咎めたことは無い。
朝食は航が用意した。
納豆と冷奴、焼き鮭と海苔、葱と麩の味噌汁。後は炊き立ての白米を装った。
昨夜の一件から食欲は無かったが、湊が豪快に食べるので箸を持つ気が出て来た。手を合わせると、湊が笑って促した。
湊は黒いタートルネックのセーターを着ていた。その首の下に自分の手の跡が残っていることを知っているので、航は罪悪感で胸が一杯になる。
結局、朝食には手を付けず、湊が食べた。
母は外出していた。
粧し込んでいたので、帰りは遅くなるのかも知れない。昨夜のことは伝えていなかった。伝えようも無かった。
「ソフィアを呼んだよ」
食器を洗いながら、湊が言った。
航は自分がどんな返事をしたのか覚えていなかった。気付くと太陽が中天に差し掛かり、リビングにソフィアがいた。
ローテーブルにハーブティーと焼き菓子を並べ、湊が何かを話している。航は水中にいるみたいな心地で、彼等の遣り取りをぼんやりと見ていた。
「人形を見せて」
ソフィアが言った。
その一言がやけに頭に響いた。
頷いた湊が席を立つ。航は酷い恐怖を覚えた。人形を抱えた湊が戻って来るまで、時間の流れが遅く感じられた。
ビスクドールは湊の腕に収まっていた。
昨夜と変わりない姿であることに安心しながら、それが兄の腕の中にあることに焦りを感じた。
処分されるのではないか。引き離されるのではないか。そうなったら、どうしよう。今すぐに湊から奪い取って、遠くまで逃げようか。そうだ、それが良い。
「航?」
湊に呼ばれて、はっとする。
自分の手が湊の首元へ伸びていた。昨夜の防御創が蚯蚓腫れのように残り、ぞっとする。
ソフィアが怪訝そうに問い掛ける。
「その傷、どうしたの?」
咄嗟に言葉を失くした航に代わり、湊が答えた。
「俺がやった」
「兄弟喧嘩?」
「そんなとこ」
「ガキねぇ」
ソフィアが呆れたように溜息を吐いた。
湊に庇われるという普段なら我慢ならない状況である筈なのに、航はその腕の中にある人形に意識を奪われていた。
ソフィアは人形を見て眉を寄せた。何かを言ったようだったが、聞き取れなかった。航は自分の手を押さえ付け、人形を取り戻す為の方便を探していた。
「貴方、よく抱えられるわね」
ソフィアは値踏みするように眺めていた。
「この頭髪、本物じゃない?」
「多分ね。一応、研究室で解析しようと思うんだけど」
湊がそう言った時、航は焦った。
このままでは引き離されてしまう。
「こいつ、悪いものじゃないだろ?」
湊とソフィアが、目を丸めた。
何を言っているんだとその目が咎めている。
「何が憑いているのかは解らない。でも、貴方達にとって悪いものであることは確かよ」
「そんな訳無い。何も知らない癖に勝手なことを言うな。お前は詐欺師だ」
「航」
湊の腕が割り込む。
人形を落としてしまったらどうするんだ。
雑に扱うな、可哀想だろ。
航が手を伸ばすと、湊は闘牛士のように身を躱した。
「ソフィアは詐欺師じゃない。そんなこと、航だって解ってるだろ?」
「五月蝿い。その人形を返せ」
「返せ?」
湊が顔を顰める。
今すぐにでも人形を取り戻したかった。この腕に抱いて、髪を梳いて、一緒に。
「俺が先に見付けたんだ」
航が睨むと、湊が目を細めた。
「……解った。この人形は航に返す。でも、その前にリュウに見せても良いかい?」
リュウ、か。
湊の唯一とも言える友人だ。呪詛の件では助けてくれたし、敵じゃない。
もしも、この人形に悪いものが憑いていたとしても、リュウなら祓えるのだろう。そうしたら、湊から取り戻すことが出来る。
「良いぜ。終わったら返せよ」
「うん」
航は席を立った。
これ以上此処にいたら、形振り構わず奪い取りそうだった。
4.殺人人形
⑵侵食
「航はどうしちゃったの」
ソフィアは困り果てたように嘆いた。
湊も頭を抱えたかった。
航が退室するまで、部屋の中は息が詰まりそうだった。淹れたばかりのハーブティーはすっかり冷め切っているし、酷い温度差で自律神経がおかしくなりそうだ。
双子の弟の異変は昨晩からだ。
急に起き出したと思ったら馬乗りになって首を締めて来るし、ソフィアが来てからは異様に人形へ執着していた。
ソフィアと話している間もずっと人形を見ていた。話を聞いていたのかも疑わしい。言動は支離滅裂だし、挙句にソフィアを詐欺師呼ばわりして、とても冷静とは思えない。
薬物に手を出すような性格じゃない。どう考えても、人形が原因だ。
湊は舌を打った。
思えば、航は昨夜の時点で人形を警戒していた。もっと早く手を打つべきだった。
「航の手首の傷は本当に貴方がやったの?」
「そうだよ。俺がやった」
「何の喧嘩だったの?」
「喧嘩じゃないんだけど……」
どう答えるべきか迷った。
嘘は自分の首を絞める。だからと言って、正直に告げれば航の尊厳を傷付ける。結局、湊は答えずに濁した。口は禍の元だ。
ソフィアは到底納得した様子ではなかったが、湊は携帯電話を取り出してそれ以上の追求を強引に終わらせた。
暗記しているリュウの番号をタップし、約束を取り付ける。幸い、昼過ぎには来てくれることになった。
それにしても、心霊現象の遭遇頻度が高過ぎるな。自分がアンカーで、航が潜在的なESPの持ち主であるとしても、この頻度は異常だ。
湊は溜息を呑み込んだ。悲観しても事態は好転しない。後退するくらいなら前進するべきだ。
湊が思考を巡らせていると、ソフィアが言った。
「貴方は何も感じないの?」
彼女の目は人形を見ていた。
今はローテーブルの上に鎮座している。
綺麗な人形だとは思うが、それだけだ。
人形を愛でる趣味は無い。汚れていたら可哀想だと感じるが、自分はそれが文房具でも同じ感想を抱いたと思う。
ただ、気味が悪い。
何せ、人形の頭髪は本物なのだ。何処の誰のものか解らないが、頭部に直接縫い付けられている。服は手作りのようだし、並々ならぬ執念を感じた。
「ただの人形には見えないかな。俺なら間違っても拾わないね」
まあ、航も拾って来た訳ではなかったようだけど。
この人形は、航の帰り道を先回りして、付いて来たらしい。
昨晩、航が警戒するのでリビングから自室へ移動させた。寝る時にはリビングへ置いた筈なのに自室へ来ていたし、瞬間移動が出来るらしい。困ったものだ。
予想はしていたが、母もこの人形については何も知らなかった。見せに行ったら性癖を疑われたくらいなので、無関係なのだろう。つまり、この人形は航に憑いた悪いものだ。早急に対策する必要がある。
「ソフィアの見解を聞きたい」
「……霊はいないわ。でも、何か嫌な感じがする。執念というか、妄念というか……」
大凡、自分と同じ見解だ。
湊は人形を眺めた。
硝子玉の瞳は、まるで此方を見ているようだ。そういう細工がされているのだ。
何か手掛かりでも無いかと人形を手に取って逆さまにする。期待はしていなかったが、製造番号の類は無く、完全なハンドメイドだと解る。
お手上げかな。
湊が肩を落とした時、扉が開いた。
航が立っていた。
目の下は落ち窪んだかのような深い隈があり、死人のような顔色をしている。まるで何年も暗い地下室に監禁されて来たかのような酷い顔付きだった。
起きた時から顔色が悪いとは思っていたが、此処までじゃなかった。
平静を装って「どうした」と問い掛けると、航は人形を凝視していた。
「返せ!」
怒鳴り声が破裂した。
航は飢えた肉食獣のように飛び掛かった。湊は間一髪のところで躱したが、ローテーブルに躓いて尻餅を着いた。
痛みに呻く暇は無かった。
航は人形を見ている。人形、だけを。
「航!」
ソフィアが悲鳴のような声を上げた。
航が馬乗りになって、人形を取り戻そうと手を伸ばしている。
「駄目だ、止めろ!」
これを渡してはならないという危機感が焦燥となって押し寄せ、湊は咄嗟に鳩尾を爪先で蹴り上げた。
普通なら、立ち上がれない。
だが、航はびくともしなかった。単純な体格差ではない。通常では考えられない異常な力が働いている。
何なんだ、この力は。
航は取り戻せないと悟ったのか、昨晩のように首を絞めて来た。湊もまた、昨晩と同じように手首へ爪を立てた。
航の目に、湊は映っていなかった。
狂気に染まった伽藍堂の目。遠去けて来た嫌な感覚を思い出し、湊は死に物狂いで抵抗した。
ソフィアが航を後ろから羽交い締めにするが、何の意味も無かった。航の指先が気道を圧迫し、息が出来ない。
頭の中が白く霞み、思考が纏まらない。
航じゃない。
これは、航じゃない。
喉の奥から掠れた声が漏れる。
息が出来ない。声が出ない。
此処で死ぬのなら、それまでの男だったというだけだ。自分の命の責任は自分で取る。せめて、航だけは。
「あんたりをん、そくめつそく、びらりやびらりーー」
その声は、幻聴だったのかも知れない。
湊は薄れ行く意識の中で、聞き覚えのある友人の声に耳を澄ませた。
「そくめつめい、ざんざんきめい、ざんきせい、ざんだりひをん、しかんしきじん、あたらうん、をんぜそ、ざんざんびらり」
摺り足のような独特の足音が聞こえる。
陰陽道の禹歩だ。
窮地に駆け付けるなんて、まるでヒーローみたいじゃないか。
「あうん、ぜつめい、そくぜつ、うん、ざんざんだり、ざんだりはん」
ぱん、と手を打つ音がした。
航は貧血を起こしたみたいに意識を失くし、そのまま崩れ落ちた。湊は身体を起こしながら、必死に酸素を取り込んだ。
リビングに、電信柱かと見違えるような青年が立っていた。ストイックな彼らしい真っ黒な服装だった。
喪服かよ、と憎まれ口を叩こうとして、声が出ないことに気付く。湊は呼吸を整え、彗星のように訪れた青年に笑い掛けた。
「早かったね、リュウ」
リュウーー李瀏亮は怒ったように眦を釣り上げていた。
「説明は、してくれるんですよね?」
念を押すように言われて、苦笑する。
こうなったら、全部話すのが筋だ。このままでは自分の命も、航の矜持も守れない。
「勿論」
この後に及んで嘘や偽りを話すメリットは無い。
協力を頼む以上、ソフィアにもリュウにも納得の行く説明をする必要がある。
穏やかな寝息を立てる航を見下ろし、湊は大きく息を吐き出した。呑気なものだ。俺がどれだけ気を回したか知らないでーー。
だけど、無事ならそれで良い。
湊は航をソファへ寝かせようとしたが、体格の違いのせいか持ち上がらなかった。見兼ねたリュウの手を借りてソファへ寝かせ、不甲斐無さに胸が苦しくなる。
弟なのにな。
苦笑いをしていると、リュウの鋭い視線を感じた。
湊は前髪を指で払いながら、謝罪の言葉を探していた。