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23/106

⑴器

 Having the fewest wants, I am nearest to the gods.

(私は最小限の欲望しか持たない。故に、私は最も神に近い)


 Socrates




 




 霧雨が街を包み込む。

 初春の夜は肌寒かった。


 烏のような黒い傘を担いで、航は帰路を急いでいた。

 バスケクラブの練習が終わったのは午後八時を過ぎた頃だった。閑静な住宅街を早足に進みながら、航は夕食の献立を考えていた。


 今から手の込んだ料理を作る余裕は無い。一品でも様になって、腹に溜まる簡単な料理が良い。冷蔵庫の中には豚肉と卵、キャベツに玉葱にキムチ。

 丼にしようかと考えた時、母からのメールが届いた。夕食は兄が既に用意しているということが記されていた。


 またお好み焼きかよ。

 今週で何度目だ。


 航はその場に立ち止まり、大きく溜息を吐いた。

 肩に掛けていた荷物がずり落ち、水溜りに浸かる寸前で引き上げる。傘の先を伝う雫が頬を撫で、航は乱暴に手首で拭った。


 湊は、料理となると殆どの確率でお好み焼きか焼きそばを用意する。具材や味付けなど本人なりに工夫しているらしいが、流石に続くと飽きる。

 何故、そんなに鉄板料理に拘るのかよく解らないが、提供されたら文句は言わない。それが自分達のルールだった。


 空腹と疲労感がどっと押し寄せ、航は急ぐ気力も失くしていた。白飯が食べたかった。先に言っておけば良かった。そうしたら、母も湊も考慮してくれたのかも知れない。


 言わなかった自分が悪い。

 きっと腹を空かせているのは母も湊も同じだ。

 早く帰ろう。


 航が気を持ち直して顔を上げた時、後ろから視線を感じた。反射的に振り返るが、其処には褪せたブロック塀と三色のポリバケツが並んでいた。幾つかの粗大ゴミが雨晒しになり、退廃的な雰囲気を醸し出している。


 粗大ゴミの上に、人形がちょこんと座っていた。丁度、赤ん坊くらいの大きさだったので航はぎょっとした。


 ビスクドールだ。

 臙脂色の天鵞絨のドレスには繊細なレースがふんだんにあしらわれ、一目で高価なものだと解る。透き通るような青い硝子の目は細やかな睫毛で彩られ、金色の髪は腰より下まで波を打っている。


 人形を愛でる趣味は無いが、綺麗だな、と思った。

 それが先日出会ったリリーに似ていたからかも知れない。白磁の頬には煤のような汚れが着いており、雨に濡れる姿に同情が湧く。


 女姉妹も友達もいないので、人形の価値は解らなかった。ただ、可哀想だな、と思った。

 人形は霧雨の中、途方に暮れたみたいに座り込んでいる。航は時間の経過を忘れ、吸い込まれるように見詰めていた。


 携帯電話が鳴ったのは、その時だった。

 意識を取り戻したかのように航は慌てて携帯電話を取り出した。着信だ。相手は湊だった。


 遅いよ。

 早く帰って来てよ。

 夕飯が冷めちゃう。


 湊の文句を「うるせぇ」と一蹴し、叩き切った。

 航は携帯電話をポケットへ押し込み、顔を上げる。


 其処にあの人形は無かった。

 積み重なった段ボールと整列するポリバケツ。ガラクタの山。航は夢でも見ていたのかと狐に摘ままれたような心地だった。


 湊から追撃の着信があったので、航は舌打ちをした。あの時に感じた奇妙な視線が纏わり付いているような感覚に囚われ、振り払うように航は駆け出していた。







 4.殺人人形

 ⑴器







「おかえり」




 玄関を開けた時、目の前で湊が仁王立ちしていた。

 長い前髪を丁髷に結った馬鹿丸出しの姿だった。急いで帰って来た自分まで馬鹿みたいで、酷く虚しい。

 傘を持っていたのに衣服は湿っており、すぐに風呂場へ行きたかった。


 廊下の向こう、キッチンから胡麻油の芳ばしい匂いが漂っている。やっぱり、お好み焼きか。

 航は鞄を担ぎ直し、風呂場へ向かおうとした。洗い物は早く出さないと臭いが着いて困ったことになるし、母からも文句を言われる。


 今にも責め立てようとしている湊を押し退け、航は靴を脱いだ。指先が冷たかった。湊も流石に足留めをする気は無いらしく、「風呂沸いてるよ」と言った。


 短く礼を言おうと顔を上げた時、航は奇妙なものを見た。玄関先の靴箱の上、花瓶が置かれている。白を基調としたバラやガーベラ、ピンポンマム、カラー等をころんとした形に纏めたブーケだ。清潔感と活力を感じる品の良い色合いだ。ガーデニングを趣味にしている母が飾ったのだろう。だが、それ以上に、航は或るものから目が離せなかった。


 靴箱の上に、ビスクドールが座っている。あの時と同じ臙脂色のドレスと、青い硝子玉の瞳で、白い四肢を投げ出している。


 人形は濡れていた。

 白磁の頬は煤で汚れている。あの時と寸分違わぬ位置だった。


 背筋に冷たいものが走る。

 顳顬の辺りに拍動を感じ、航は戦慄した。




「何で、此処に……」




 視線に気付いた湊が、フラットな声で言った。




「お母さんじゃない? 娘が欲しかったなって良く言ってるし」




 湊は呑気な顔をしていた。

 自分と兄の間に凄まじい温度差があるようだった。




「濡れちゃってるね。可哀想に。洗濯出来るのかな」




 湊は指先で頬の汚れを拭い去ると、母を呼ぶ為にリビングへ駆けて行った。


 玄関に取り残された航は、無感情のビスクドールを睨むように見つめていた。その目は透き通り、何も映しはしない。だが、航にはそれが、何故だか途轍も無く恐ろしいものに見えた。


 母が許すのなら、せめて玄関先からは撤去してもらおう。

 触れるのも嫌だった。視線を逸らすのも怖い。雨粒が頬を伝って顎先から落下する。湊が戻って来るまで、航はビスクドールと睨み合っていた。




「まだ風呂入ってないの?」




 呆れたように湊が言う。

 其処で漸く緊張が解け、呼吸を思い出す。航は兄の後ろへ隠れるようにして人形を視界から追い出した。




「それ、何処かにやってくれ」




 航が言うと、湊は不思議そうに目を丸めた。

 湊は人形の脇に両手を差し込んで、赤子のように腕に抱いた。




「怖い?」

「別に」




 湊が笑った。

 それ以上は何も言わず、湊は人形をリビングへ連れて行ってしまった。航はその場に座り込み、額を押さえた。


 風呂から上がると、湊が夕食を用意していた。

 驚くことに、食卓に並んでいたのはお好み焼きではなかった。豚肉と玉葱とキムチを胡麻油で炒め、炊き立ての白米に乗せた丼だ。ワカメの中華スープが湯気を立て、腹が切なく鳴いた。


 三人で手を合わせ、遅い夕食を食べた。

 相変わらず大雑把な味付けと調理だった。玉葱は繋がっていたし、豚肉は塊になっていた。しかし、空腹という最高の調味料の前では些細な問題である。

 中華鍋一杯の具材も五合の米も空にして、航は膨れた腹を撫でながらリビングで微睡んでいた。


 テレビでは古い映画が放映されていた。

 邪悪な殺人鬼の霊が取り憑いた人形が、刃物を持って人を襲うというホラー映画だった。

 追い立てられる子供の悲鳴と激しい物音が恐怖を煽る。航は席を立とうとしたが、母がハーブティーを淹れてくれたので、航は浮かせた腰をソファへ戻し、ティーカップを受け取った。


 人形の高笑いが不気味だった。

 物置に逃げ込んだ子供ががたがたと震えている。フィクションだと解っているのに、逃げ出したくなる。


 緊張感に凍り付いていると、湊が隣に座った。風呂上がりらしく肩にタオルを掛けていた。




「随分と懐かしい映画だね」




 達観したように湊が言う。

 頬はほんのりと紅く、両目は微睡んでいた。




「ちゃんと拭けよな」




 ぽたぽたと水滴を垂らす湊に苦言を呈するが、本人には欠片も響かない。見ていて煩わしかったが、拭いてやる義理も無いので放って置いた。




「人形は人の文化活動に深く関わって来た」




 訊いてもいないのに、湊が蘊蓄を語り始める。




「子供の遊び道具として与えられることもあるけど、宗教的な祭礼行事でも使用される。古代では人形は呪術道具の一つだった。丑の刻参りで有名な藁人形もそうだね」




 先日の呪詛騒ぎの件を揶揄しても良かったが、止めた。藪を突いて蛇を出す必要も無いからだ。




「人形には魂が宿り易い。元々、人を真似て作られた器そのものだからね」




 殺人鬼の霊が宿るというフィクションにも、それなりの理解を示しているらしい。

 航は科学と超科学の境目がよく解らないので、科学者が心霊現象を肯定的に語るという状況に抵抗がある。双方は相容れぬものだと思っていたが、湊に言わせれば、自然現象という大きな括りの前では同じ現象なのだろう。


 ハーブティーを飲み終え、歯を磨いて就寝の準備を整える。そして、航は欠伸を噛み殺して自室の扉を開け、心臓が飛び出したような悲鳴を上げたのだった。


 自室の窓辺に、あの人形が鎮座していた。


 航は廊下に尻餅を着き、部屋の中を愕然と見詰めていた。悲鳴を聞き付けた湊が、背伸びをしながらやって来る。




「うるさいな。何時だと思ってんの」

「あ、あれ……!」




 震える指で窓辺を指し示す。

 湊は「ああ」と合点したような呑気な声を出した。




「俺が置いた」

「このクソ湊!」

「だって、仕方無いだろ。リビングに置けないし」




 何で!

 航が頭を抱えて叫ぶと、湊は宥めるように笑った。




「そんなに怖いなら、夜はリビングに持って行くよ。それで良いだろ」

「怖くねぇ! ちょっと気味悪いだけだ!」

「はいはい」




 湊は人形を大事そうに抱えて、リビングへ持って行った。航は一日分の気力を使い果たしたような疲労感を背負い、殆ど四つ這いでベッドへ潜った。


 夜、夢を見た。

 停電でも起こしたように暗転する家屋の中を彷徨っていた。夜目は利く方だ。ましてや、それが自宅ならば目を瞑っていても歩ける。


 家鳴りが酷い。地震だろうか。


 玄関、廊下、リビング。何かに導かれるようにして歩き回り、自分達の部屋の前で足を止める。扉は開いていた。二段ベッドの下、湊が静かに寝息を立てている。


 上下する喉仏を見詰め、手を伸ばす。

 両手で包み込む。乾いた肌の質感がやけに現実的だった。


 湊の顔が苦悶に歪む。空気の抜ける奇妙な音と喘ぎ声。自重を掛け、少しずつ、少しずつ押し潰して行く。

 睫毛に囲まれた二重瞼が、ぱっと開いた。

 猜疑と驚愕に満ちた瞳だった。透明感のある濃褐色の瞳に自分の姿が鏡のように映っていた。


 無抵抗の鶏を縊り殺すように、作業的に力を込めて行く。湊の手が腕を掴んだ。そんな力では太刀打ち出来ないことは、解っていた。


 殺せる。

 このまま力を込め続ければ、殺せる。




「ーーわたる」




 絞り出すような掠れた声だった。

 その瞬間、思い切り頬を叩かれたように航は目を覚ました。




「……湊?」




 ぱっと手を離すと、途端に意識が明瞭になる。

 湊が激しく噎せ返っていた。

 金縛りに遭ったみたいに身体中が硬直した。指先が冷たく震えている。


 航は、自分が兄の首を絞めていたことに気付いた。


 鈍器で殴られたような衝撃に、全身から血の気が引いた。湊は肩で息をしながら、目に生理的な涙を滲ませていた。




「大丈夫か」




 血の気の無い顔で、湊が問い掛けた。

 返事も出来ない程のショックだった。掌に嫌な感触が残っている。自分が、兄を殺そうとした?


 カーテンの隙間から月明かりが差し込んでいる。

 淡い金色の光に照らされた湊の首筋には、自分の両手の跡がしっかりと残っていた。

 ふと気付くと、自分の手首には幾つもの赤い傷が走っていた。湊の指先が赤く染まっている。それが自分の血であると理解するまでに、時間が掛かった。


 防御創だ。

 湊が必死の思いで抵抗していたことを、その時になって知った。




「俺、何を、」

「俺は平気」




 湊は首を隠しながら、航の言葉を遮った。

 平気な筈無い。

 自分の手首に残る傷跡が、まるで手錠のように見えた。




「平気だから、そんな顔するな」




 へらりと湊が笑う。


 俺が湊を殺そうとした?

 有り得ない。そんな筈無い。俺が湊を殺すなんてーー。


 何処からか風が吹いた。窓は閉め切っていたのに、部屋の中は凍える程に寒い。カーテンが揺れる。月明かりが窓辺を照らした。


 何かが、いる。

 それを見た瞬間、航は悲鳴を上げることも出来なかった。


 青い硝子玉の瞳が、此方を見ている。

 ビスクドールだ。まるで、可笑しくて堪らないみたいに、人形は微笑んでいたーー。

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