⑺相似形
透明人間だった頃の夢を見た。
自分が何を言っても誰も振り向かず、怒鳴っても相手にされず、存在を否定され、孤独感に苛まれて消えてしまいたいとさえ思った時があった。
何をしても無駄だと諦めて、航も全てを拒絶した。自分の殻に閉じ籠って、世界を恨んで、腐っていた。
父は家を空けていることが殆どで、誰にも相談出来なかった。叱り付ける母に反発して、宥める湊に苛立って、殴り合った。
自分の心を守る為には、そうするしか無かった。全部自分でやりたいと思っていたし、そういう自分が一番だった。
湊とは激しい喧嘩を繰り返した。
怒鳴り合い、罵声を浴びせ、胸倉を掴み、拳を振り上げる。直情的な行動は全て己の身に返って来た。互いに手加減なんてしなかった。
面倒臭いし、うざったい。けれど、そんな兄の横はとても心地良かった。湊の隣なら、取り繕ったり、押し殺したりせず、等身大の自分でいられた。
それを幸運と呼ばず、何というのか。
人が生まれるには十月十日掛かるという。生命とは生まれ落ちるだけで奇跡なのだ、航にとっての最初の幸運は、湊という兄と一緒に生まれたことだった。
リリーとリーアムを想う。
自分と彼等は、何が違ったのだろう。
3.祈りの欠片
⑺相似形
包丁が俎板を規則正しく叩いている。
その音を聞いていると、深い海の底へ沈み込むように微睡んで行く。体が温い膜に包まれているように怠かった。
ずっとこのままでいたいような気がした。此処なら努力もいらないし、逃避も許される。弱い自分で良い。それは甘美な誘いだった。
もういいか。諦めてもいいか。全部終わりにして、投げ出してもいいか。ーーけれど。
「航」
滲む世界の何処かで、兄の声がした。その瞬間、航は頬を叩かれたかのように意識を取り戻した。
気付くと包丁の音は止まっていた。
「油を使うから、離れた方が良いよ」
澄んだボーイソプラノが穏やかに語り掛ける。
その足元にしゃがみ込んでいた航は、冬眠から目覚めた熊のように立ち上がった。
天変地異のような超常現象に遭遇してから数時間。リーアムとリリーに別れを告げ、航は湊と共に帰宅していた。日はまだ高く、街は明るかった。
湊は昼食の用意をしていた。平皿の上に冗談みたいな量の鶏肉が盛られている。明らかに量がおかしい。最早、視界の暴力だ。
なあ。
航が声を掛けると、湊は手を止めた。
「お前、怒ってただろ」
湊は菜箸を手に取ったまま、短く肯定した。
「解り易かったかな」
所在無さげに言うので、航は小さく笑った。
双子だから解ったんじゃない。湊だから解ったんだ。そんなこと、言う必要も無い。
湊は、自分自身が傷付いたみたいな顔で言った。
「あの人、知ったようなこと言うから」
どきっとした。
自分の思考を見抜かれたみたいだった。
ねっとりとした油の匂いが立ち込める。調理を再開した湊は、それ以上を語るつもりは無いらしかった。
航は逃げるようにダイニングルームへ移動し、昼食の完成を待った。
それから二日程、束の間の休息を過ごした。
寝るか、食べるか、バスケするか。それだけの単調な繰り返しの日々だった。
あの天変地異みたいなポルターガイストは起きていない。湊の地図も棚の端に追い遣られ、開かれる素振りも無かった。
或る日の昼下がり、湊の携帯電話に連絡が入った。
リリーが目を覚ましたという吉報だった。航はいつものように湊を乗せてバイクで病院まで駆け付けた。
荒れ果てていた病院の廊下は封鎖されていた。老朽化により立入禁止の張り紙がされていたが、本当のところは解らない。
見舞いの品は湊が用意した。薄紫色を基調にしたトルコキキョウとデンファレのプリザーブドフラワーだった。感染症予防の為に生花の持ち込みが制限されることがあるらしく、小振りのバスケットに収まった花はケースに入れられていた。
病室の扉が開く。
爽やかな春の風が吹き抜け、まるで草原にいるかのような清々しさを感じた。白に染まる病室の中、ベッドの上に一人の少女がいた。
名は体を表すとは、このことだ。
リリー・クラークは百合の花の如く凛と其処に佇んでいた。室内の凡ゆるものは彼女を引き立たせる装飾品と成り下がり、視線が強烈に吸い寄せられる。
リリーの金糸の髪は肩の辺りで切り揃えられていた。斜めに分けられた前髪の隙間から宝石のように美しい双眸が輝き、傷一つ無い頬は絹のように滑らかだった。
長い睫毛に彩られた瞳が此方を見て、柔らかに細められる。意図せず心臓が跳ね、航は慌てて胸の辺りを押さえた。
リーアムとリリーは双子だ。しかし、大地に深く根を張る大樹のような彼に比べ、彼女は散る花のような儚さを持っていた。
ベッドの隣、リーアムは憑き物が落ちたかのように微笑んでいる。航は一歩を躊躇った。彼等の世界は完成されている。其処には足跡の無い雪原を踏み荒すような罪悪感があった。
だが、湊は迷いもしなければ、躊躇いもしなかった。そうしてベッドの側に跪く兄とリリーの姿は、完成された一枚の絵画のように見えた。
「初めまして」
湊が言った。
リリーは差し出された手を取り、天使のように微笑んだ。航は足を踏み込めなかった。ベッドの横に据え付けられたサイドチェストにガーベラが活けてあった。先日、航が渡せなかった見舞いの花だった。
しかし、航はその黄色の花弁を見て、息を呑んだ。
ガーベラの花は垂直に伸長し、茎は有り得ない方向へ捻れていた。細胞分裂を起こしたかのように歪む花は、明らかな奇形であった。数日前までは何の変哲も無い切り花だったものが、どうしてこのような悍ましい変化を起こしたというのだろうか。
彼等には、それが見えているのか。
航には、彼等がまるで硝子板の向こうにいる別の生き物のように思えた。帯化を起こしたガーベラが異様な存在感を放っている。
湊はリリーの横に膝を着くと、覗き込むようにして自己紹介をした。
「俺の名前は湊。大学で超心理学を研究してるんだ」
「超心理学?」
「うん」
湊は頷くと、リーアムを一瞥した。
その時、静電気のような緊張が走った。湊は覚悟を決めるように顎を引く。
何を言う気だ。また、研究の為とでも言うのではないかと思った。
航の懸念は、湊の柔らかな声によって静かに霧散した。
「君の力になりたい」
その意味が、思いが、伝わっただろうか。
憐憫ではない。ただ、目の前の困難を抱える少女に対し、湊なりに真摯に向き合った言葉なのだ。
航は言葉を躊躇った。
弁解や補足をしたかったのだが、余計な誤解を生んでしまうように思った。
「貴方に何が出来るの?」
リリーの声は突き放すように冷たかった。
深い絶望と覚悟の上に生きていることを痛感させるには充分な程だった。
だが、湊は戸惑わなかった。
その返事を想定していたのかも知れない。
「それを一緒に考えて行きたいんだ」
君の為に出来ることを。
湊の声は、波一つ立たない水面のように穏やかだった。
「俺に出来ることを、君と考えたい」
「無計画ね」
「うん。でも、君達の力になりたいんだ」
「何故?」
湊は困ったように微笑んだ。
「君と俺はよく似ているから」
その真意は解らない。
リリーは呆れたように溜息を吐いて、湊の手を取った。
「そうね。もしかしたら、そうなのかもね」
そう言って、リリーは花が綻ぶように笑った。
「頼りにしているわ、ヒーロー」
湊がどんな顔をしていたのかは見えなかった。
航は適当に会話を切り上げて、湊を引き摺るようにして病室を出た。
帰り道、湊が言った。
「きっと、俺に出来ることは少ない。俺はあの子を治せないし、リーアムを救えない」
そんなの当たり前だろ、とは笑えなかった。
どんなに足掻いても、抗っても、結果は変えられない。それなら、それは意味が無かったのか?
航はそうは思わない。結果の出ない努力にも、敗北した試合にも、届かなかった言葉にもきっと意味はある。
湊は睨むような強い眼差しで言った。
「でも、諦めたくない」
まるで、自分に言い聞かせるみたいな声だった。
バイクの後部座席に湊を乗せ、航は走り出す。
病室の窓が開け放たれていた。リーアムだろうか。自分達の立ち去った其処で、彼等はどんな思いを抱えているのだろう。
「リリーは潜在的な超能力者だ」
リーアムに会いたい。ただ、その願いの為に数々の超常現象を起こした。彼女の能力値がどの程度かは解らないが、自分なんかよりも遥かに高いのだろう。
ふと思い出して、航は問い掛けた。
「超能力者とアンカーの関係って、科学的な根拠があるの?」
「統計データでは、そういう傾向が見られる」
「お前はどういう風に解釈してんの?」
小難しい薀蓄や専門用語が飛び出して来ることを覚悟したが、意に反して、湊は端的に答えた。
「互いを守る為じゃないかな」
「……」
「リリーとリーアムの間に起きた超常現象については、俺はそれ以上の解釈は必要無いと思ってる」
血筋や環境も要因の一つだと思う。けれど、湊は守る為だと言う。
あの超常現象は彼等の祈りの欠片だった。ただ、それだけで良い。
「超心理学は未発展の学問だ。全てが科学的に解明出来ている訳じゃない。俺には予測も付かない法則もあるんだろう。でも、それは絶望じゃないんだ」
「じゃあ、何だって言うんだよ」
航が問うと、湊は悪戯っぽく笑った。
「浪漫さ」
にしし、と湊が白い歯を見せる。途端に毒気が抜かれてしまって、航は苦笑した。
「帰りに1on1しようぜ」
「いいよ」
負けたら風呂掃除一ヶ月ね。
湊が言った。随分と強気な発言だ。嘗められたもんだな、と思うと不思議と可笑しかった。
ストリートバスケのコートはナイター照明も修理が終わり、変わりない退屈な日常を作り出している。弾むボールとバッシュのスキール音、湊のディフェンスを軽々張り切ってシュートを決める。だが、それはリングに弾かれてコートの外へ落ちて行った。
湊が子犬のように追い駆けている。
航は見慣れた筈のゴールポストを見ながら舌を打った。感覚的に捉えていたゴールまでの距離が掴めなくなっていた。
指先に込めたほんの僅かな力がボールのコントロールを乱し、ゴールリングを外す。
コートに落ちたボールを拾い上げ、湊が垂直に跳ぶ。
3Pラインから放たれた綺麗な放物線は、リングに触れることも無く落ちて行った。
「集中切れてるよ」
湊が厳しく指摘する。
その通りだ。スランプでも、超常現象でもない。
「100%決まるシュートなんて無いんだぞ」
「うるせぇな」
「常に次を意識しろ。プレーは繋がってるんだから」
ああ、そうだな。
それが自分の敗因で、課題だ。
日はまだ高く、夜には遠い。
初春の暖かな風が頬を撫でて行く。