⑹リリー
朝の静けさをバイクのエンジン音が切り裂いて行く。
頬に当たる風が心地良く、このまま何処までも走って行けるような気がした。
風の音の中で微かな口笛が聞こえた。
サイドミラーで後部座席を確認すると、湊が景色を眺めながら口笛を吹いているらしかった。
グリーングリーン。
ニュー・ クリスティ・ミンストレルズのフォークソングだ。ベトナム戦争でヒッピー文化がピークだった時代、自分の理想世界を求めて旅を続ける男を歌ったものだった。
両親の母国では父と子の対話として有名らしい。しかも、歌の最後には父は二度と帰って来ない旅に出て、子は父の教えを思い出すのだ。縁起でもない。
閑散とした病院の前で、リーアムが待っていた。
この近辺で起こる超常現象を解決すると言って待ち合わせた場所がこの病院なのだから、何かしら察することはあったのだろう。
後部座席が急に軽くなったので、航は驚いた。
停車を待たずに湊が飛び降りたのだ。そのままヘルメットを脱ぐとリーアムに向かって軽快に朝の挨拶をした。
眼鏡は掛けていなかった。鬱陶しい前髪は斜めに避けられ、日に焼けない端正な白い面を惜しげも無く晒している。いつものオタクファッションも脱ぎ捨て、黒のスキニージーンズと黒いシャツに、真っ青なスニーカーが映えたシンプルな出で立ちだった。
リーアムは驚いたように目を丸め「いつもそうしていなよ」と尤もなことを言った。
航がバイクを停めに行っている間に、湊はことのあらましを説明し終えていた。リーアムは小難しい顔をしていたが、航が合流すると笑顔を取り繕った。
朝の病院は静かだった。
見舞客らしき姿も見られたが、誰もが皆、自分のことに精一杯で、周囲へ目を向ける余裕も無い。
此処は本来、そういう場所だった。病に侵され苦しむ患者と、それを献身的に支える家族。皆、理性を保つ為に必死だった。
手ぶらで見舞いも格好が付かないので、航は売店でガーベラの切り花を二本買った。同性の友人ならば雑誌や漫画でも買って行ったが、今回はそうもいかない。
「僕には、双子の姉がいるんだ」
リーアムがそう言ったのは、受付を済ませた時だった。
リーアム・クラークは十歳の頃に両親を飛行機事故で亡くし、頼れる親類も無く、施設に預けられた。十八歳で施設を出て、姉と二人暮らし。互いに奨学金の援助を受けて大学へ通い、今年で十九歳。
スポーツ特待生として入学したリーアムはバスケと学業に追われ、バイトをする余裕も無い。代わりに姉が朝から晩までバイトで家計を支えて来た。
リーアムはポケットから定期入れを取り出した。その奥に綺麗に畳み込まれ隠されていたのは、幼い頃の姉弟の写真だった。
写真で見た彼女は春の日差しの下に溶けてしまいそうに儚げな美しい少女だった。すらりと伸びた長い足、清楚なワンピース、ブロンドの髪は腰まで伸びて、青い瞳は宝石のように輝き、整った顔立ちには知的な印象を与える。
名前はリリー・クラーク。
今年で十九歳になる彼女は、年末から入院し、闘病生活を送っているらしい。
病室へ向かう道の途中、リーアムが言った。
「湊はどうして、バスケを辞めたの?」
それは、三度目の問い掛けだった。微かな怒気を帯びたその声は、無人の廊下で沈み込むように響いた。
湊が答えずにいると、リーアムは続けた。
「航には、君が必要だった」
顳顬がぴくりと痙攣した。
どういう意味だ。俺だけじゃ不足だと?
問い詰めようとして、航は口を噤んだ。痛い程に、その意味を知っていた。
敗北を喫した大会で、航は確かに思ったのだ。
ディフェンスを振り切った直後や、敗北の二文字が頭を過ぎった時、ーー湊がいれば、と。
きっと、周囲の評価も同じなのだ。自分の価値は湊がいるからこそ生まれるものであり、単品では脅威にならない。
無い物ねだりをしたって意味が無い。自分に何度も言い聞かせて、その思いに蓋をして来た。
リーアムは立ち止まった。苛立ちを押し殺したような硬い表情で、その目は廊下の奥をじっと睨み付けている。
周囲の空気が重い。嫌な緊張が肌を刺すようだ。
風も無いのに大きな窓が揺れ、次第に音を立てる。蛍光灯が点滅を始めた。何処かから乾いた破裂音が降り注ぎ、航は身構えた。
リーアムはアンカーだ。
PK能力者の出力を受信し、拡散させる。その矛先が何処へ向かうのかなんて、解り切っていた。
湊は立ち止まり、深く息を吐き出した。
「リーアムは俺のことを評価してくれているみたいだけど、俺なんて大したこと無いんだよ」
呆れ返ったような、冷静な声だった。
その時になって、湊には周囲の異常事態が知覚出来ていないのではないかという可能性に気付いた。
揺れる窓も、点滅する蛍光灯も、響くラップ音も、湊には認識出来ていないのではないか。
リーアムは皮肉っぽく笑った。
「謙遜するなよ。君は優秀な司令塔だった」
「俺が優秀だったんじゃない。俺のチームが優秀だったんだ」
照れも衒いも無い素直な言葉だった。
謙遜でもなければ、謙虚でもない。湊は過小評価も過大評価もしない。其処にあるのは冷静で正当な評価なのだ。
「俺がいてもいなくても、航は良い選手だ。君の物差しで測るのは、止めて欲しい」
点滅していた蛍光灯がぱっと光り、淀んでいた空気が消えて行く。窓枠もラップ音も止み、辺りは静けさを取り戻していた。
リーアムは虚を突かれたかのように瞠目していた。
湊の言葉がどのように届いたのかは解らない。自嘲するように息を吐くと、何も言わずに歩き出した。
3.祈りの欠片
⑹リリー
本当はずっと、怒っていたのかも知れない。
リリーの病室に着いた時、航はそんなことを思った。
リーアムが「どうしてバスケを辞めたのか」と問い掛ける度に、湊はその真意に気付き、怒っていたのかも知れない。
扉の前で、リーアムは立ち止まった。伏せられた睫毛が頬に影を落とし、まるで深い隈が刻まれているように見えた。
「去年のクリスマス、リリーは余命宣告を受けた」
空気と同化してしまいそうな程に小さな声だった。
コートを縦横無尽に駆け回る普段の姿からは程遠い、頼りなくて寂しい横顔だった。
「血液の癌でね、発見された時には全身に転移していて、手の施しようが無かった。余命四ヶ月。治療は進行を遅らせ、痛みを抑えるだけで、完治はしない。一日の殆どは眠っているんだ」
クリスマスに余命宣告を受けたということは、残り一ヶ月ということだ。航には、他人事とは思えなかった。
航と湊はクリスマスに産まれた。自分達が誕生会やクリスマス会で浮かれていた頃、彼等は深い絶望の中にいたのだ。
現在開催されているNCAAは三月から四月に掛けて行われるトーナメントだ。リーアムが順調に勝ち進んだとしても、姉はその雄姿を最後まで見ることが出来ないかも知れない。
こんな時、どんな言葉を掛ければ良いのだろう。
航は手の中の切り花を握り締めた。
リーアムは扉に手を掛け、躊躇った。
どんな気持ちなのだろう。生まれる前から一緒に育った己の半身が、唯一の肉親が、もうすぐこの世から去ろうとしている。自分ならばどうしただろう。何が出来ただろう。
その時だった。
まるで稲妻のような激しい音が鳴り響き、廊下中の窓硝子が吹っ飛んだ。甲高い悲鳴が耳を劈き、割れた蛍光灯が頭上から降り注ぐ。
「な、何だ?!」
壁に亀裂が走った。廊下に並べられていたベンチが軽々と宙へ浮き上がり、凄まじい勢いでスーパーボールみたいに廊下に跳ね回る。
身を丸めた湊が言った。
「ポルターガイストだ」
風が轟々と唸りを上げ、まるでハリケーンの中にいるみたいだった。建物そのものが崩壊してしまいそうなそれは、この世の終わりを思わせた。
「リリーなのか……?」
どうして。
リーアムが愕然と呟いた。
信じられる筈も無い。航とて、目の前の天変地異は悪い夢を見ているようだった。
これが、PKだと言うのか?
今まで体験したことの無い天災級の暴虐に、航はただ身を守ることしか出来なかった。
「リーアム!」
湊が叫んだ。
崩落した瓦礫がその頬を掠め、真っ赤な血が迸る。それでも、湊は怯まなかった。立ち止まらないし、迷わない。湊は、いつもそうだった。
研ぎ澄まされたような完璧主義と怜悧な瞳が、逃げることを許さない。
「リリーに呼び掛けろ!」
「でも、リリーは……」
リリーは昏睡状態なのだ。
PKを制御しているとは思えない。声が届く保証なんて無い。この超常現象はリリーの拒絶なのではないか。それなら、幾ら呼び掛けたって無意味だ。
湊は這うようにしてリーアムの元へ行くと、乱暴にその胸倉を掴んだ。
「ポルターガイストを起こしているのは、リリーだ。でも、彼女は誰かを傷付けるつもりなんて無かったんだ」
「じゃあ……」
「お前、双子なんだろ! 何で解んないんだよ!」
何で?
リリーはPSIの能力者だった。ポルターガイストの大半は過度なストレスを抱えた子供が問題を解決する為に無意識に発動する超能力だ。
余命宣告を受けたリリーには過度なストレスが掛かっていた。そして、問題を解決する為に、無意識にその力を使っていたのだ。
彼女が解決したかった問題とは?
湊の眼鏡が無くなったこと、喧嘩に横槍を入れたこと、バスケ部にポルターガイストを起こしながらも直接的な被害が出ていないこと。全てはリーアムの周囲で起きている。それは、何故か。
NCAAの大会が行われた体育館では、入退場者の人数が合わなかった。もしかすると、彼女が見に来ていたのかも知れない。
「リリーは、お前に会いたかったんだよ!!」
湊の声は、夜明けを告げる鐘の音のように響き渡った。
その言葉の意味が、リーアムには解る筈だ。
昏睡状態の続くリリー。余命は残り一ヶ月。双子の弟を残して逝かなければならないという恐怖。顔を合わせ、直接別れを告げることも出来ないかも知れない。
リーアムは頭を抱え、身を屈めた。まるで、何もかもを拒絶し、己を守るように。
「でも、僕は、リリーに合わせる顔が無いんだ……!」
リーアムの青い瞳から、一粒の涙が落ちた。
「僕が、気付けば良かったんだ……! 一番近くにいたのに!」
絞り出すような掠れた声で、リーアムが子供のように顔を歪めて泣き噦る。
余命宣告を受けた時の彼等を想う。
気付いた時には手遅れだった。歯痒くて、悲しくて、情けなくて、虚しくて、遣る瀬無かっただろう。どんなに祈っても、誰に縋っても運命は変えられない。
誰を恨む? 誰を憎む? 誰を責めれば救われる?
そんなこと、誰にも解らない。
もしも、それが自分だったなら。
リリーの気持ちも、リーアムの思いも、航には痛い程に解る。
リーアムは俯いていた。
何をどうしたって、リリーは死ぬのだ。どんなに足掻いたって無意味だ。それでも、此処で向き合わなかったら、リーアムは一生後悔する。
「逃げてんじゃねぇ!」
航は叫んでいた。
いつも、そうだった。足掻いても抗っても結果は変わらず、手を伸ばしても届かない。だからといって、立ち止まっても何も変わらなかった。
無い物ねだりは、もうしない。
「ちゃんと向き合え! お前のたった一人の家族だろ!」
幼い頃のように双子のテレパシーも、独自の共通言語も解らない。でも、航には湊の考えが手に取るように解る。
研究の為だけだったなら、リーアムを連れて来る意味は無かった。敢えて危険を冒し、嗾けるような真似をするのは何の為だ。
「お前を待ってるんだ!!」
リーアムは目を伏せた。
睫毛に留まった雫が落ちる。サファイアに似た青い瞳には確かな光が宿っていた。
「リリー」
暴風が唸る。
リーアムは閉ざされた扉へ手を添え、語り聞かせるように言った。
「会いに来たよ」
その瞬間だった。
空気の割れるような音が響き渡った。そして、辺りは水を打ったようかのような静寂に包まれていた。
張り詰めた緊張感は氷解し、嵐を終えた朝のようだった。
夢を見ていたのだろうか。
だが、周囲に残る傷痕が現実だと訴え掛けている。超常現象は存在する。それを証明している。
リーアムは扉を開けた。
廊下の惨状からは想像も出来ないくらい、病室内は平穏だった。心電図に刻まれる脈拍は正常値で、微かに開かれた窓からは爽やかな風が吹き込んでいる。
真っ白なベッドでリリーは静かに眠っていた。硝子細工のように華奢な手が力無く投げ出されている。
聖域のような清浄な空気の中をリーアムが進んで行く。航は其処に、あの日コートを切り裂いた背番号一番を見た気がした。
ベッドの横へ歩み寄り、リーアムは姉の手を取った。
「リリー、遅くなってごめん」
リーアムの頬を雫が滑る。顎先を伝った涙はリリーの手に落ち、シーツへ染み込んで行った。
きっとーー、奇跡は起こらない。
リリーの病は完治しないし、リーアムは救われない。それでも、奇跡を祈ることは止められない。不条理な現実に抗おうとするその行為を、一体誰が責められる?
リーアムの声が病室に響く。
姉の手を握る弟の姿は、まるで神に祈りを捧げる聖者のように、厳かに悲しく、美しく見えた。