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⑵邂逅

 葵が面会室で対峙したのは、何処にでもいるような女子学生だった。


 波打つブルネットの髪を肩に流し、潔癖を思わせる白いブラウスには繊細なレースが彩られている。褐色の瞳は警戒するように眇められ、まるで自分が痴漢冤罪の被害者になっているかのような虚しさすら感じさせた。


 少女の名はソフィア・ハリス。十五歳。

 普段はジュニアスクールへ通っているらしいが、今は春季休暇らしい。世間を賑わす自称霊能者だ。彼等が言うには、このソフィアという少女は、死者の霊と交信出来るらしい。


 超常現象もオカルトも信じてはいない。

 葵は難癖付けて叩き出すつもりだった。思春期にありがちな自己顕示欲の暴走か、精神疾患。そう算段を立てて向き合ってから早二時間。捜査は一歩も進展していない。


 ソフィアは葵を睨むばかりで、一言も話そうとしなかった。馬鹿にした態度が出てしまったのだろうかと思ったが、心を殺して下手に出てもソフィアは何も言わなかった。


 信頼を築くことは難しい。

 特に、葵にとっては苦手分野だ。

 早くサポートが来てくれないかと他人事のように考えていると、ソフィアが蚊の鳴くような声で言った。




「お兄さん、殺されたの?」

「ああ」




 葵は即答した。

 秘匿している情報でもない。一度はマスコミによって暴露されたこともある。学生にだって調べようと思えば調べられる。


 驚くようなことではないーーと思ったが、葵が彼女の面会をすることが決まったのはついさっきのことだ。調べている時間は無かっただろうし、興味本位で他人の過去を物色するような下衆な人間なら、願い下げだ。


 しかし、ソフィアはどちらでも無かった。




「貴方のお兄さんが言ってる。ワーカーホリック気味だから、休んだ方が良いって」

「はあ?」




 訳の解らない話をされて、葵は苛立った。

 大嫌いなオカルトの話をされて、大嫌いな子供の相手をさせられて、仕事のし過ぎだと責められる。

 例え彼女が本物の霊能者であったとしても、余計なお世話だった。


 葵が苛立って怒鳴り散らす寸前、面会室の扉が叩かれた。希望の使者は、相変わらずの仏頂面をした男だった。


 上下揃った黒いスーツは品良く纏まっているが、葵には如何にも喪服のように見えた。

 黒薙が同席すると、ソフィアは漸く証言内容を告白した。


 ルーカス氏が死んだ夜、ソフィアは塾の帰りだった。

 片田舎の道というものは無意味に広くて暗い。道端にはゴミ置場から溢れたビール瓶の類が転がっており、野良猫か烏が荒らしたらしかった。


 その時、ぽつぽつと灯る街灯の下に男が一人立っていることに気付いた。ソフィアには、それが霊であると解ったらしい。


 害意は無いようだと判断して話し掛けると、男はトーマス・ルーカスだと名乗ったという。巨大銀行の頭取が自殺したことはニュースで知っていたので、心残りでもあるのだろうと思った。


 ルーカス氏は酷く窶れた顔で言った。

 俺は、殺されたんだーー。


 証言のあらましを聞き、葵は唾を吐き捨てたいとさえ思った。聞く価値も無い創作話だ。しかし、隣の黒薙は何を考えているのかよく解らない顔をして、俯いていた。




「……それで、ルーカス氏は犯人は誰だって言ってたんだ?」

「それは答えなかったわ。でも、自分は確かに殺されたんだと言っていた」




 下らない。ーーだが、正直、不審な点はある。

 ルーカス氏のスケジュールは来年まで埋まっていた。人は自殺する前に程度の差こそあれど、身辺整理をするものだ。だが、ルーカス氏にはその形跡が無い。少なくとも、その時点で死ぬ気は無かったのだろう。


 それなら、事故か?

 だが、普段から睡眠薬を服用している彼が量を誤るとも思えない。現場には荒らされた痕跡は無い。初めから事故と自殺の両面で捜査していたこの国の警察組織は優秀だ。見落とし等、ある筈も無い。


 黒薙は深く考え込んだ後、前触れも無く立ち上がった。




「俺はもう一度捜査資料を見直す。この子の証言が正しいのかそうでないのかは置いといて、不審な点があることは確かだ」

「それなら、俺がやる」

「いや、結構だ。一人で十分」




 黒薙を気遣った訳ではない。単純に、ソフィアと関わりたくなかったのだ。

 空気の読めない男は早々に部屋を出て行き、結局、面談室には葵とソフィアが残された。既に白旗を振りたい心地だった。このくらいの少女の好むものが何も解らないし、この沈黙に堪え切る自信も無かった。


 結局、葵が頼ったのは二人のヒーローの動画だった。

 葵がポケットから携帯電話を取り出すと警戒した様子だったが、其処に映し出される二人のヒーローの姿にソフィアは息を呑んだ。


 二人のヒーローはバスケットボールをしていた。

 一回りも大きな黒人選手を交わしてシュートを決めたり、鮮やかなフェイントからのフェイダウェイ。どちらもお手本にでもなりそうな精錬されたプレーだった。


 動画に夢中になっていたソフィアは、ゆるゆると顔を上げた。




「息子さん?」

「いや、知人の息子」




 すげーだろ。

 才能の暴力だ。囃し立てる観客の声まで鮮明で、まるで大作映画を鑑賞し終えた後のような謎の満足感すらある。


 動画に見入っているソフィアを前に、葵は一つの妙案を思い付く。餅は餅屋だ。子供の相手は子供に任せるべきじゃないか。


 希望を見出したかのような明るい気持ちになって、葵は或る電話番号をタップした。

 短い呼び出し音の後、寝起きのような低い声が聞こえた。不機嫌を全面に押し出した声にさえ嬉しくなってしまうのだから、自分も親馬鹿だと笑えない。


 これから行っても良いか、と問い掛けると、短く了解の返事があった。

 葵は立ち上がる。ソフィアは幾らか驚いたような顔をしたが、葵はスキップでもしたい心地だった。




「おい、行くぞ」

「何処に」




 気持ちが上向きだと、ソフィアの刺々しい言葉も受け流せるから不思議だ。

 葵は携帯電話をポケットへ押し込み、答えた。




「ヒーローに会いに行くぞ」







 序章

 ⑵邂逅








 ニューヨークの空は目が眩むような高層ビルに埋め尽くされ、隙間から覗く薄水色の空が鮮やかだった。


 商業地区から三十分程タクシーで走ると、周囲には長閑な田園風景が広がる。春の到来を待ち望んでいた木々は新芽を伸ばし、名も知らぬ白い花が僅かに咲き始めている。

 滑らかな芝生に囲まれた砂利道を走って行くと、見慣れた地域住民が親しげに片手を上げて挨拶をした。


 用水路には透き通った雪解け水がこんこんと流れ落ち、畑には作物が植えられている。農業機械が唸りを上げて耕して行く様を横目に見ながら、退屈になるくらい平和な世界に溜息が止まらない。


 タクシーの中は、息苦しい程の沈黙に包まれていた。葵は助手席から後部座のソフィアの様子を見た。至って冷静というものを絵で描いたように行儀良く座っている。状況がよく解らないのはお互い様だ。


 ヒーローの家は真っ白い壁と赤い屋根の童話から抜け出して来たかのような可愛らしい一軒家だった。確実に主人の趣味ではない。


 黒い柵に囲まれた芝生の庭はキャッチボールが出来そうなくらい広く、端には手作りのバスケットボールゴールが立っていた。ゴールポストは年月の経過を感じさせるのに、ネットは新品に張り替えられている。物を大切にする彼等の性格が随所に感じられ、懐かしく、変わらないことが嬉しかった。


 しかし、葵が呼び鈴を鳴らすことは無かった。

 玄関先に妙な人集りが出来ていた。とても友人とは思えない強面の男達が押し掛けて、揶揄や罵声を喚き散らしている。彼等が詰る先には華奢な女性が威圧的に腕を組んでいた。一触即発の不穏な空気を察して、近隣住民が恐々と様子を見守っている。


 女性は男達の汚いスラングに眉根を寄せ、それでも一歩も怯まない。何が起きているのかよく解らないが、穏やかでない状況に葵は割って入った。


 先頭に立つ男が何かを叫んだ時、玄関の扉が開いた。

 その瞬間、人々は揃って息を呑み、言葉を失ったのである。


 立っていたのは一人の青年だった。


 野生動物のような警戒と威嚇を込めて寄せられた眉と、肉食獣に似た強い眼差し、通った鼻梁。への字に曲げられた口元は如何にも不機嫌だと言っているようだ。


 止まっていた時間が動き出す。先頭にいた破落戸の一人が、挑発するように青年の肩を押した。しかし、青年は地に深く根を下ろした大木のように微動だにしない。体幹が鍛えられているのだろう。破落戸が揶揄混じりに突っかかるが、青年はゴミでも見るような冷たい眼差しで無抵抗だった。


 黒いタンクトップから覗く二の腕は薄く筋肉に覆われ、両足は地面をしっかりと踏み締めている。破落戸が挑発するように玄関先のゴミ箱を蹴り飛ばすと、眉間の皺は一層深くなった。


 破落戸が足を狙って蹴り上げるーーと、その途端。青年の瞳の炎が音を立てて燃え上がるのが見えた。次の瞬間、破落戸は仰向けに倒されていた。


 動揺する男達に構わず、青年は鬼神のような顔付きでぐいぐいと突進して行く。既に逃げ腰の男達を一人ずつ捕まえて強烈な蹴りを食らわせると、まるで木製バットで殴ったかのような鈍い音がした。


 後はもう一瞬だった。


 押し掛けていた破落戸は負け犬の常套句を吐き捨てて、患部を押さえながらひょこひょこと間抜けに逃げて行く。青年は深追いはせず、中指を立てて口汚く罵っていた。


 近隣住民から拍手が起こった。

 青年は不機嫌そうな顔で踵を返し、自宅へ引っ込んで行く。愛想笑いを振り撒く女性は幾らか緊張を解いていた。そして、葵の姿を見付けると声を上げた。




「葵くん?」




 女性ーー蜂谷奈々(はちや なな)は、年齢を感じさせない瑞々しい笑顔で手を振った。ヒーローの妻だった。

 葵は人垣の間を如何にか摺り抜け、社交辞令の挨拶を告げた。彼女はその容姿に見合わない程大胆に笑う。




「旦那は留守なんだよね。次に帰って来るのは三ヶ月後かな」




 旦那ーーこの家の主人である蜂谷和輝(はちや かずき)はMSFの活動の為に家を空けがちである。それを許容出来るこの器の大きさがヒーローの妻たる所以なのかも知れない。


 奈々は葵の後ろにいるソフィアに気付くと、嫌味の無い動作で家へ招いた。一切の素性を聞くことも無く、葵の知り合いということだけで信用している。それがそのまま葵に対する信頼なのだから、賢く逞しいと思う。


 玄関の扉は塗り直したばかりなのかペンキの匂いがする。空と同じ水色がムラ無く塗り広げられており、一目でセンスの良さが解る。玄関までのアプローチには左右対称に月桂樹とペチュニアの植木鉢が並べられ、丸く整えられたツゲのトピアリーは品を感じさせる。


 奈々に促されるまま足を踏み入れる。

 木目調の床は鏡のように磨き込まれ、大きな天窓から暖かな日差しが零れ落ちている。リビングの天井は吹き抜けで、シーリングファンライトの優しい光が室内を照らしていた。


 季節柄、暖炉に火は灯っていなかった。

 開け放たれた窓から春の新緑の匂いが吹き込み、朝日を浴びたかのように身体中に活力が漲って行く。

 蜂谷家は、いつも生命の匂いがする。此処に来ると自分が生きていることを実感出来るのだ。それはこの品の良いインテリアのせいかも知れないし、住人の人柄のせいかも知れない。


 奈々はソフィアについては特に追求せず、リビングテーブルへ促すと茶を並べた。透明なグラスの中にはレモンバームのハーブティーが淹れられている。

 奈々は茶を出したきり客には構わず、キッチンへ入ってしまった。葵がぼんやりしていると、二階からドタバタと階段を駆け下りる音がした。




「後一時間くらいだって」

「もう。何でもっと早く言わないの」

「俺に言うんじゃねぇよ、クソババア」




 口汚く反論する青年は、葵の姿を見るとほんの僅かに表情を和らげた。




「葵くん、いらっしゃい」




 そう言って彼は、キッチンへ入って行った。

 彼の名前は蜂谷航(はちや わたる)。ヒーローの息子であり、蜂谷家の次男である。


 口は悪く喧嘩っ早いが、今も積極的に母親の手伝いをしている姿を見ると、根は優しく真面目なのだと思う。葵が微笑ましく眺めていると、所在無さげにしていたソフィアが囁くように問い掛けた。




「こんなところに連れて来て、どうするつもりなの」

「良いから、待ってろよ」




 葵が適当にあしらうと、ソフィアは解り易く顔を曇らせた。カウンターキッチンの向こうから航が言った。




(みなと)なら、もうすぐ帰って来るぜ」




 何かを察したような冷静な声だった。


 湊というのは彼の双子の兄で、今は米国最高峰と名高い名門大学の寮で暮らしている。ぶっきら棒な航に比べて物腰の穏やかな柔和な青年だ。最後に会ったのは一年以上前だ。普段は研究室に篭り切りらしく、長期休暇以外は家にも帰らない。


 特に会話も無くリビングで暇を持て余していると、見兼ねた航がテレビを点けた。騒がしいワイドショーが映る。何の因果なのかソフィアの特集が組まれており、葵は思わず見入ってしまった。


 薄暗い密室で、円卓を囲むテレビスタッフ。周囲はドライアイスでも置かれているのか白い霧が掛かり、不気味な雰囲気を作り出していた。


 円卓中央の蝋燭の火が風も無いのに揺れる。俯いたソフィアが囁くような声で死者の名を呼んだ。しかし、返事は無い。少なくとも、葵には何も聞こえなかった。


 死者との交信が始まったらしい。慄くスタッフの声はそのままに、ソフィアが一方的に話している。


 その時、円卓が音を立てて揺れ始め、何処かから破裂音が聞こえた。


 死者の霊が質問に答えようとしている。

 ソフィアは言った。葵は余りの下らなさに溜息すら出なかった。




「観念性運動効果だよ」




 コックリさんと同じだ。人体は静止しているつもりでも無意識に動いている。それが大勢ーーましてや幽霊を信じるような意思の弱い人間が集まっていれば、無意識の内に円卓だって動かしてしまう。


 葵が吐き捨てると、ソフィアは気を悪くしたように睨んで来た。小娘に睨まれたところで痛くも痒くも無いが、これ以上、心証を悪くする必要も無い。


 テレビの中で、ソフィアは死者の霊と交信し、家族への言葉を代弁していた。それは家族しか知らないような些細な事柄であったり、感謝や謝罪の言葉であった。

 涙を流す遺族と湿っぽい雰囲気に沈黙するスタッフ達。よくある話だ。興味も無い。


 キッチンから香ばしい匂いが漂って来たと同時に、チャイムの音が鳴り響いた。

 料理をテーブルに並べる奈々に代わり、航が怠そうに玄関へ向かう。やがて二人分の足音が帰って来る。


 リビングの扉が開け放たれた時、何処かで風鈴の音が聞こえたような気がした。


 航の隣、小柄な青年が立っている。その姿を見た時、葵は驚いた。

 目元が隠れる程に伸びた前髪、野暮ったい眼鏡。染み一つ無い白いセーターを纏った彼は一見するとよくいるオタクである。しかし、其処から放たれる惑星のような強烈な存在感に視線が引き寄せられ、目が離せない。顔の半分が隠れていても尚、顔立ちの美しさが解る。


 湊と航、二人並ぶと壮観である。

 美少年と言ってしまえばそれまでなのだが、彼等には強烈に人を惹き付ける何かがある。


 キャリーバッグを運ぶ為に二階へ移動し、航は椅子の上で胡座を掻いた。やがて戻って来た湊がその隣に座り、行儀が悪いと咎める。

 やいやいと口喧嘩を始める二人は、奈々の鶴の一声で静かになった。コミカルのようなやり取りが懐かしく、葵は心が温かくなる。


 食欲唆る中華料理がテーブルの上に所狭しと並べられ、五人は慣習に従って手を合わせた。

 話を切り出すタイミングを見計らっていると、察したように湊が手を挙げた。忙しなく咀嚼し、口の中を空にすると柔らかな笑みを浮かべる。




「初めまして。俺は蜂谷湊。こっちは双子の弟の航」




 宜しく、と言って湊は目尻を下げた。

 如何にも人好きのする可愛らしい微笑みだった。ーー尤も、今はそのうざったい前髪のせいでよく見えないのだが。


 苛立った航が文房具の目玉クリップで無理矢理前髪を纏めてやる。日に焼けない白い滑らかな額と、長い睫毛に彩られた透明感のある濃褐色の瞳が現れ、葵は此処にいない彼の父を重ね見る。湊は父の生き写しだった。


 航は取り敢えず満足したのか食事を再開し、リビングは沈黙が訪れた。湊は何事も無かったかのようにソフィアへ目を向けた。


 目玉クリップと眼鏡のせいで美少年が台無しである。しかも、出来立てのスープの湯気でレンズは曇っている。

 流石のソフィアも呆れたように肩を落としていた。葵も写真で見せたスーパーヒーローがこんな間抜けな姿をしているだなんて予想もしていなかったので、内心、申し訳無く思った。

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