⑷発露
リーアムの大学は、航の自宅から公共機関を利用して三十分程の距離にあった。態々見知らぬ人間と同じ車両に鮨詰めになる必要も無いので、バイクを出した。
当然のように後部座席には湊が座った。
湊はこれから大冒険が始まるみたいに嬉しそうにしていたが、航は嫌な予感しかしなかった。
何しろ、湊には幽霊の類が見えないし、聞こえないし、感じないのだ。それを補うように航はこれまでこの世のものとは思えぬ恐ろしいものと対峙して来た。
航は幽霊というものを信じていなかった。
けれど、これまで体験して来たことを振り返ると、最早それが夢幻とは思えない。
閑散とした大学の昇降口で手続きを済ませ、リーアムの待つ体育館へ向かう。
リーアムは入り口で待っていた。
強豪校の練習にも興味があったのだが、今日は休息日らしかった。残念だ。航は体育館を眺め、先を行く二人を追い掛けた。
向かった先はバスケ部の部室だった。
二階にある体育館の下、薄暗いピロティに複数の部室が並んでいる。春休みにも練習を行う部は多く、ヘルメットを脇に抱えた大勢のアメフト部と通り過がった。
リーアムは部室の前に立つと、振り向いた。
「一ヶ月くらい前から、バスケ部の部室で不可解な現象が起きているんだ。大事には至っていないけど、部員は気味悪がってる」
リーアムはそう言って、扉を開けた。
航は扉の向こうにある光景に目を疑った。
それは何処にでもある普通のものだった。ただ一点、理解出来ないのは、ーーその全てが引っ繰り返っているということだった。
誰かの悪戯にしては、手が混み過ぎている。
ベンチは兎も角、ロッカーなんて一人の力で引っ繰り返せるとは思えない。極め付けは、床に敷かれた撥水シートさえも裏返っているということだった。
「これで七回目だ」
リーアムの声は砂漠のように乾き切っていた。
航は足を踏み入れるのを躊躇した。だが、湊が遠慮も無くずかずかと入って行くので、溜息を漏らした。
「悪戯とは思えないね。鍵は?」
「使わない時は施錠して、鍵は教員室に預けている。夜間に用務員の見回りはあるけど、部室の中までは覗かないよ」
航は室内を見渡した。
男子の運動部らしく雑多で色気の無い部屋だった。歴史を刻んだ内装は彼方此方が煤けている。南側の壁を見た時、一部が安っぽいベニヤ板で補修されていることに気付いた。
察したようにリーアムが言った。
「練習の後、皆で着替えをしていた時、突然火が着いたんだ。すぐ消火器で消し止めたんだけど、ライターなんて持ってる人はいなかったし、原因は未だに解らない」
物騒だな。
航は吐き捨てた。リーアムは大事に至っていないと言っていたが、突然発火なんて余程だ。
「物が動くなんてしょっちゅうだし、誰もいないのに話し声が聞こえたり、異臭が漂っていたりする時もある」
リーアムは慣れてしまったのか淡々としている。
原因は解らないが、気味が悪いことは確かだった。超常現象の専門家らしい湊は、どんな結論を出すのだろう。航が目を向けると、湊は部屋の中を見渡しながら問い掛けた。
「異変が起き始めたのは、何時頃から?」
「NCAAの地区予選が始まる前だから、一ヶ月くらい前かな」
「何か思い当たることは無い? 例えば、そのタイミングでクラブを辞めた人がいるとか、事故があったとか」
「うーん」
リーアムは腕を組んで天井を見上げた。
明け透けな質問に気を悪くした風も無い。自分だったら文句の一つも言っていたかも知れない。
「思い当たることは無いな」
「そうか」
湊もあっさりと頷いた。
そのままぐるりと室内を見渡して、窓辺で目を止めた。窓枠にはFoam fingerや旗、手作りらしい選手のマスコット、棚にはトロフィーの数々が散らばっていた。比較的、被害が少ない。それは何故なのだろう。
湊は穏やかに言った。
「応援されているんだね」
「ああ。有難いことさ」
湊は棚を一通り眺めてから、窓枠のFoam fingerを手に取った。蛍光塗料の塗布されたそれ等は、蛍光灯の光の下でも鮮やかに見えた。
「まだ結論は出せない。もっと調査を進めるよ」
「ああ。頼んだよ」
リーアムは爽やかに微笑んだ。
湊はそのまま踵を返し、部室を出て行ってしまった。航は慌てて後を追い掛けた。
調査らしい調査もせず、追求もせずに退散するというのは湊らしくない。いつもの機材を持ち込まなかったことも不可解だ。
湊は無言で大学を出てしまった。あっという間に駐車場へ到着し、酷い肩透かしを食らったような心地だった。
「もういいのか?」
ヘルメットを投げ渡し、航は問い掛けた。
湊は周りへ目配せをして人気が無いことを確認し、囁くような小さな声を出した。
「リーアムは嘘を吐いている」
無表情の湊に、ぞくりとする。
まるで、鏡の向こうに有り得ないものを見てしまったようだ。
湊はヘルメットを掌で弄びながら、苦々しげに言った。
「おかしなことが起きているのは事実なんだろう」
「じゃあ、何の嘘を吐いてるって言うんだ」
「確証は無い」
でも。
湊が言った。
「でも、保身の為に嘘を吐くタイプじゃない」
「じゃあ、何の為に?」
「さあね」
湊はヘルメットを被ると、それ以上は何も言わなかった。
追求する言葉を見付けられず、航はバイクへ跨った。サイドミラーが春の白い日差しを反射する。人気の無い駐車場は不気味に静まり返っていた。異質な空気を粉砕するつもりで、航はエンジンを掛けた。
3.祈りの欠片
⑷発露
夜半、航は物音で目を覚ました。
ポルターガイストを恐れたが、その音は二段ベッドの下から聞こえていた。
そっと覗き込むと、湊がパソコンを起動しているらしかった。野暮ったい眼鏡に馬鹿殿みたいな丁髷、小綺麗な横顔は真剣そのもので、声を掛けることすら躊躇われた。
ディスプレイには無数の文字が羅列されていた。何かの研究資料なのかも知れない。英語じゃない。寝惚け眼を擦りながら目を凝らす。
いつか見たアルファベットが三つ並んでいる。何かの専門用語なのだろう。それが何なのか、湊の研究とどのような関わりがあるのか、検討も付かない。ただ、糸が張り詰めるような緊張感が全ての行為を抑圧させた。
リーアムの周囲で起こる超常現象も謎だが、航にとっては湊も同じようなものだ。
兄の考えなんて一度だって理解出来た試しは無い。
もう一度眠るか、と布団を被ったところで、航はその単語に覚えがある気がした。
それが一体いつの記憶だったのか考えている内に意識は微睡み、やがて、深い眠りの底へ落ちてしまった。
目を覚ました時、湊はまだ眠っていた。
航はスリープモードに切り替わったディスプレイを眺め、邪な考えが浮かんだが、結局、何もしなかったた。
いつも通り、朝食の用意を済ませ、身支度を整える。敗北を喫したとは言え、やるべきことは沢山ある。昨夜のリーアムのように、基礎を作り直し、チームプレーを見直す。一朝一夕では解決しないことも解ってはいたが、やらなければならない。
湊がいれば、なんて考えはもう辞める。
湊がいれば自分とチームメイトの緩衝材となり、チームプレーを意識した作戦を立てられる。だが、此処に湊はいない。
無い物ねだりをしたって仕方が無い。俺は俺の出来ることをやるしかない。
何度でも自分に言い聞かせる。
大根と玉葱の味噌汁をお椀に装う。味噌の香りがリビングに漂い、食欲が唆られる。柔らかな湯気の向こうで、湊が起き出して来るのが見えた。
欠伸を噛み殺しながら、湊が「おはよう」と目を擦る。薄っすらと充血していた。
夜中までパソコンなんて弄っているからだ。航が味噌汁を突き出すと、湊は黙ってテーブルまで運んで行った。
洗濯物を干し終えた母が来るのを待って、三人で手を合わせる。テレビは点けない。無音の室内で、小鳥の囀りがやけに鮮やかに聞こえた。
鯵の開きを突いていると、湊が言った。
「春休み中にバイトをしようと思うんだ」
「何の?」
問い掛けたのは航だった。母が詮索出来ないことを知っていたからだ。
母は逞しい女性だった。厳しくも優しく、留守にしがちな父に代わって自分達を育ててくれている。そんな母が自分達の意思を最大限に尊重し、見守ってくれていることも知っていた。
多分、自分達は育て難い子供なのだろう。周囲の大人達の反応から、航はそんなことを感じていた。母が口や態度に出したことは無いけれど、いつも心配を掛けていることは解る。
母が言えないことは航が言う。
航が出来ないことは湊がやる。
湊は困ったように笑った。
「よくある事務職だよ。簡単なデータの打ち込みと計算。何の危険も無い」
「信用出来ない」
叩っ斬るように言って、航は味噌汁を啜った。
湊は理路整然と業務内容と勤務先のプレゼンを始めた。
ニューヨーク郊外にある繊維工場だった。それまで勤めていた社員が産休に入った為、臨時の事務員を募集しているらしい。
書類作成や管理、データ収集や入力。湊の言うように簡単な事務処理が主な業務なのだろう。
業務内容に不審な点は無かった。だが、湊が敢えて事務職のバイトを選ぶということが既に不自然だった。
問い詰めると、湊はあっさりと口を割った。
所謂、落ち目な街の工場だった。不景気の影響によって負債を抱え、銀行からの融資を打ち切られ、新規社員を雇う余裕も無い。しかも、その融資を打ち切った銀行というのがあのロイヤル・バンクだった。ルーカス氏の変死ーー表向きは自殺とされているがーーによって業績が悪化し、経営は傾いている。そうなって来ると、湊がこのバイト先を選んだ理由が見えて来る。
どう考えても安全じゃない。
「絶対駄目だ」
「何で航が決めるんだよ。ねえ、お母さん」
「駄目ね」
多数決により、否決。
航は手を合わせた。
この家のルールは基本的に相談と多数決だ。自分達にそれを覆す権力は無い。つまり、母が駄目だと言ったらそれで終わりなのだ。
湊は子供のように口を尖らせていた。
航は食器を片付けながら、考えていた。自分が見張っていられない時間、湊はフィールドワークと称して彼方此方を一人で歩き回るのだろう。街の工場の狭い事務所に籠っているのと、どちらが安全なのだろう。
結局、答えが出ないまま、航は玄関へ立った。
湊が玄関まで見送りに来た。先程の結論が不服らしい。
「必要なことなんだよ。ルーカス氏の事件も、ポルターガイスト現象も、判断する為の情報が足りないんだ」
航は苛立った。
不貞腐れた兄の眼前に指を突き付け、恫喝する。
「決まったことをネチネチとうるせぇんだよ。女かよ」
「差別発言だぞ」
「あー、うぜぇうぜぇ。ババアが駄目だって言っただろ。もう決定事項だ。今更、幾ら喚いたって無駄だ」
「それなら、別の方法を探すよ」
湊の呆れたような顔に、苛立ちがピークに達した。
自分達の言葉の意味が何も伝わっていない。湊はいつもそうだ。賢い癖に共感能力が低く、他人の感情を理解しない。
どうして駄目だと言うのか、まるで解っていない。
呪詛の一件はまだ記憶に新しい。湊が心配だから、止めているのだ。それさえ蔑ろにする湊の態度は、航の怒りの導火線に火を着けた。
「いい加減にしろよ!」
爆発するように航が怒鳴った、その時だった。
施錠されていた筈の玄関扉が、凄まじい勢いで吹き飛んだ。同時に靴箱の上の花瓶が転げ落ち、粉々に砕け散る。
壁に掛けられた額縁はかたかたと揺れ、其処等中から家鳴りが聞こえる。
航は何処にも触れていない。
破裂音が何処かから降り注ぎ、ぎしぎしと廊下が軋む。何が起こったのかさっぱり解らなかった。それまでの怒りも忘れ、航の頭は真っ白になってしまった。
数瞬の亡失後、航は湊を見た。
湊は防御の姿勢を取ったまま、凍り付いていた。航の見たことの無い顔で固まっている湊へ手を伸ばす。
指先が届く刹那、湊の肩が跳ねた。
まるで、何かに怯えるように。
その瞬間、身体中から血の気が引いた。鈍器で頭を殴られたようだった。
「……湊」
呼び掛けると、湊は笑った。しかし、航にはそれが仮面であることがすぐに解った。
何が起きたのかは、解らない。足元に散乱する花瓶の破片と切り花が色褪せて見えた。
「俺が片付けて置くよ。お母さんにも言っておく。だから、ーー気にするな」
いってらっしゃい、と湊が微笑んだ。
溶けて消えてしまいそうな儚い笑みだった。
廊下の向こうから母の駆けて来る足音が聞こえた。
湊は笑顔を浮かべたまま背中を押して、早く行けと急かす。違和感だらけの言動だったのに、航は追求することも出来ず、逃げ出すように走った。