⑶ポルターガイスト
かち、かち、かち、かち。
深夜にふと目が覚めた。
濃密な闇に包まれた自室では、秒針の音がやけに大きく聞こえた。枕元の時計を一瞥し、普段の睡眠時間の半分程しか経過していないことに落胆する。
二段ベッドの下から聞こえる兄の寝息に安心して、もう一度眠ろうと布団を被った。
かち、かち、かち、かち。
時計の音に耳を澄ませていると、意識がぼんやりと微睡んで来る。明日は朝からクラブチームの練習がある。敗戦の記憶はまだ新しいが、いつまでも囚われていられない。
かち、かち、かち、かち。
朝食の下拵えは済んでいる。バーニャカウダのソースは多めに用意したから、余ったら冷凍して、今度パスタに使おう。
かち、かち、かち、かち。
湊の昼食も用意してやるか。
出掛けんのかな、こいつ。あのよく解らない生態調査でもするのかな。そういえば、あの夜に起きた超常現象は何だったんだろう。湊はどう考えてんのかな。
かち、かち、かち、かち。
湊は大学で超心理学を研究していると聞いたが、何故なんだろう。本人は理由は無いとはぐらかしていたけど、意味の無いことはしない奴だ。
俺達って、いつも言葉が足りないよな。もっと追求しても良かったのかな。
かち、かち、かち、かち、かたん。
航は目を開けた。
秒針とは違う微かな物音が聞こえたからだ。
かた、かたかた、かたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかた。
航は飛び起きた。
部屋の中から小刻みに震える物音が鳴り響く。闇に包まれた部屋の中には当然、誰もいない。
かたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたかたか。
「航」
下から湊の声がした。
嫌な予感が早鐘のように心臓を鳴らす。航は身を乗り出して下を覗き込んだ。体を起こした湊が、夜行性の肉食獣のように目を光らせていた。
鳴り止まない物音は次第に大きくなり、耳を塞ぎたくなるような騒音へ変わっていった。
「地震じゃない」
携帯電話のブルーライトに照らされ、湊はやけに神妙な顔付きをしていた。
部屋の中からは、まるで何かが暴れているかのような音が聞こえる。
がたん、ばたん、がたがたがた。
「ゆっくり降りて来て」
航は指示通り、湊のベッドへ潜り込んだ。
何処で何が鳴っているのか解らない。
その時、破裂するような凄まじい音を立てて扉が開いた。咄嗟に二人で目を向けたが、扉の向こうは闇に包まれていた。
廊下の照明は人感センサーだ。作動していないということは、其処には誰もいないということだ。
じゃあ、何で扉は開いたんだ?
湊が手を握った。
掌は氷のように冷たいのに、しっとりと汗ばんでいる。湊にとっても不測の事態であることを悟る。
「動かないで」
息を殺して、湊が囁いた。
二人で肩を寄せ合って、騒音が止むのを待った。何が起きているのか全く解らなかった。風で煽られたように扉が音を立てて開閉し続けている。背筋がぞくりと冷えて、逃げ出したくなる。
額から滲み出る汗を拭い、航は湊の手を握り返した。
その時だった。
ひゅうっと風を切る音がして、次の瞬間、何かが壁に激突した。何かの壊れる悲鳴のような音がした。
それが合図だったみたいに、何かが次々と壁に打ち付ける。
嵐のようだった。
目に見えない何かが部屋の中で狂ったように暴れている。航はただ、それが収まるのを待つしか無かった。
湊は布団を引っ掴み、押さえ付けるように頭から被せて来た。地震のような揺れの中、耳元で鋭い風切り音がした。
すぐ側の壁に何かが衝突する恐ろしい音がした。
布団の隙間から覗くと、鋏が壁に突き刺さっていた。
自分に突き刺さっていたかも知れないと思うと心臓が凍る。二段ベッドが小刻みに揺れ始め、航は湊の手を握り締めた。
「逃げるか?」
「いや、動かない方が良い。それに俺の予想だと、もうじき止まる」
布を引き裂くような甲高い悲鳴が聞こえた。
断末魔のようだった。部屋の中がびりびりと震え、身体の末端の感覚が無かった。
湊の予言通り、部屋の中は潮が引くように静まって行った。後に残された闇の中、二人は石になったように固まっていた。
廊下から暖かな照明が差し込んだ。
物音を聞いた母が転がり込むように駆け込んで来た。
酷い顔色だった。湊はベッドから飛び降りて、宥めるように母の肩を抱いた。
航は部屋の明かりを灯した。
蛍光灯の白い光に照らされた部屋の中は、家探しの後と呼ぶよりも、嵐に巻き込まれたかのような凄まじい惨状だった。
机の上に置いていた硝子の写真立ては粉々に砕け、文房具は信じられない力で壁に突き刺さっている。ボールペンの殆どは壁にめり込み、人の力では抜けそうも無い。
「これがポルターガイストだよ」
湊はしゃがみ込んだ。
床には目覚まし時計の残骸が落ちていた。プラスチックは割れて電子回路が散乱している。まるで、高層ビルから落ちた人の成れの果てだ。
自分には太刀打ちの出来ない超自然的な力が働いていると解る。航は先日の呪詛騒動のことを思い出して、問い掛けた。
「リュウを呼んだ方が良いんじゃないか?」
少なくとも、自分達よりは頼りになる。
しかし、湊は温度計を手にして首を振った。
「これは俺の専門分野だよ」
湊は鞄の中から地図を取り出した。
壁に突き刺さった赤ペンを引き抜いて、印を付ける。こんな時にも研究を忘れない図太さに呆れて、航はその場にしゃがみ込んでしまった。
身体が酷く疲れていた。だが、眠くはなかった。
あの断末魔の悲鳴が耳に焼き付いていた。
あれは、誰の悲鳴だったのかーー。
3.祈りの欠片
⑶ポルターガイスト
自室は荒れ果ててしまっていたので、二人で父の部屋を借りて寝袋で寝た。幼い頃にしていた秘密基地ごっこを思い出し、心が温かくなる。
父の匂いに包まれ、二人は幼い頃に戻ったような心地で眠った。
航は携帯電話のアラームで目覚めた。
昨夜のことが嘘に思えるような爽快な朝だった。
同時刻に起きた湊は部屋の片付けに追われていた。宙を舞った雑品の数々は破損し、殆どが修復不可能だった。
普段は寮生活をしている湊は兎も角、航は自室が廃屋のようになってしまったのだ。今朝だけで何度かも解らない溜息を零し、部屋の扉をノックした。
返事は待たず、押し開ける。中央では湊が亀のように蹲っていた。
腹でも痛いのかと焦ったが、その目は床に広げた地図を見ていた。
この地区では超常現象が多発している。マスコミが聞けば特ダネを求めて押し寄せるだろうが、街中はいつも通りの穏やかな朝だった。
葵君が情報操作してくれているのだろうか。
「なあ、航。今日は暇?」
「暇な筈ねーだろ。朝から練習だよ」
敗戦後の練習は基礎練から始まって基礎練で終わる地獄のようなトレーニングメニューだ。初心忘れるべからずということなのだろうが、監督やコーチにとっては鬱憤晴らしみたいなものなのだろう。
弱音も泣き言も絶対に言わないし、途中で投げ出したりしない。最後までやり遂げて、監督やコーチの吠え面を見てやる。
決意を新たにしつつ、湊の後頭部を小突いた。
朝食の時間だ。料理人や食材に感謝しない奴は嫌いだ。湊は後頭部を撫でつつも、地図をじっと見詰めていた。
名残惜しそうな湊が憐れで、航は仕方無く隣へしゃがみ込んだ。
「何が気になるの?」
「ああ」
湊は地図を指差した。
赤い丸が幾つも記されている。これだけの数の超常現象が起きているのなら、警察でもFBIでも動き出しても良いように思う。
湊は地図をコルクボードに貼り、印の付いた位置をピンで押さえた。其処から赤い糸を引っ張って時系列を追って繋いで行く。
試合会場だった体育館、ストリートバスケのコート、そして、自宅。それ等は、まるで輪を描くようにして広がって見えた。中央にあるのは、リーアムと出会ったあの病院だ。
「リーアムの周りで超常現象が起こってる……?」
「断言は出来ない。頻度で考えるなら、俺達だって怪しい」
確かに。
湊は生まれ付いてのトラブルメーカーだ。リーアムが原因と思うのは早計だった。
「俺は、リーアムに会いに行くよ」
そう言うだろうとは、思っていた。
航は頭を掻き、不承不承言った。
「俺も行く」
「お前は練習だろ」
「終わってから一緒に行く。だから、待ってろ」
我儘だなあ、と湊が笑った。
監督とコーチの憂さ晴らしみたいにハードな練習を終えて、航は帰路を辿った。最寄りの体育館では今もあの公式戦の熱戦が繰り広げられているのだろう。
なるべく視線を逸らし、意識から外す。届かなかった夢の残骸を抱えるなんて自分らしくない。
帰宅すると、ナップザックを背負った湊が待っていた。航は自室に荷物を放り投げ、適当な私服に着替えて合流した。
湊の服装を見詰めて、溜息が出る。
どうして陰気なオタクはチェックシャツを着るのだろう。眼鏡を外して前髪を切れば、英国少年のような出で立ちになるのに、湊は敢えてそれを隠してしまう。
昨夜と同じく、生態調査と称して湊が向かったのはあのバスケットコートだった。今はナイター照明の修理の為に立ち入り禁止になっている。
湊は地図を広げた。
「航、疲れてる?」
「疲れてねぇよ」
正直、身体は休息を求めている。空腹だし、早く切り上げて帰りたい。
湊は僅かに目尻を下げた。
「この先にもう一つ、ストリートのバスケコートがあるんだ。一緒に行かないか」
それが、否定を想定していない問い掛けであることは解った。湊は何かの確信を得ている。そんな予感があった。
二人で夜道を歩く。人通りは無かった。
風が音を立てて吹き付け、荒廃した世界を二人きりで何処までも何処までも歩いているようだった。アスファルトが濡れたように街灯を反射し、湿気を帯びた空気が纏わり付く。嵐が来る。
湊の話を聞いてから、航は或る最低の可能性を考えた。
この街で起こる超常現象が幽霊の仕業でも、人知を超えた神の御業でも構わない。最悪なのは、自分の結果にケチを付けられることだ。
あの試合で逆転負けをした時、航は自分の力不足を恨んだ。ーーけれど、もしも、もしもそうじゃなかったら?
その時、自分はどんな顔をして、どんな言葉を吐いて、どうやって結論を自分の中へ落とし込めば良いのだろう。それだけが、怖い。
静まり返った公園の奥、ナイター照明の下から小気味良いドリブルの音がする。乾いたスキール音と木々のざわめき、風の音。聞き慣れたその音が何故か酷く虚しかった。
白い光の下、褪せたバスケコートがある。
たった一人ーー応援も励ましも労わりも、叱咤も罵声も嘲笑も無い孤独の世界。
リーアム。
独り言みたいに、湊が呟いた。
恵まれた体躯や才能に胡座を掻かず、一心不乱にバスケへ打ち込むその姿が鮮明に見えた。飛び散る汗の雫がきらきらと輝いている。
それは秘匿性の高い特殊な練習法では無かった。心が折れそうになる程の初歩的な反復練習だった。途方も無い旅路の途中、途轍も無く高い山の中腹。彼は努力の意味を知っている。
終わりの無い努力、振り向かない仲間。誰にも知覚されない透明人間。まるで、いつかの自分を見ているようだ。
リーアムの手から放たれたバスケットボールは美しい放物線を描いた。ナイター照明を浴びたボールがゴールリングを潜り抜ける。
其処で漸く、リーアムは此方に気が付いたようだった。
転がり落ちたボールを拾い上げ、航は指先で回転させた。
「1on1しようぜ」
航が言うと、リーアムは嬉しそうに笑った。
ちらりと目配せすれば、湊も快く頷いた。航はボールを片手にコートの中央まで歩いて行った。
自分よりも一回りも大きなリーアムを見上げる。
ケチを付ける余地も無い。只管にバスケットボールに向き合うあの背中が、全ての答えだと思った。ーー本当は、思いたかっただけなのかも知れない。
心地良い倦怠感に包まれながら、航はコートを眺めていた。ナイター照明の白い光の下、湊がバスケットボールリングを睨んでいる。
流れるようなステップを踏み、お手本みたいに綺麗なフォームでシュートが放たれる。機械のような正確さでボールはリングを擦りもせずに落ちて行った。
リーアムは嫌味の無い賞賛の拍手を送り、ぽつりと問い掛けた。
「湊はどうしてバスケを辞めたの?」
それを、俺に訊くのか。
航は迷った。湊が何を考えているのかなんて解らないし、答えない以上は追求もしなかった。
「俺が知る筈無いだろ」
辞めた訳ではないのだろう。大学同士の交流試合で対戦したことがある。
監督やコーチが双子であることを面白がってマークに付かせたこともあったが、結果はいつも拮抗していた。純粋な技術や力では航が一枚も二枚も上なのに、湊は周囲を活かすプレーをする。
多分、そういうところが自分に足りないのだろう。視野の広さ、協調性。自分が逃げ続けて来たチームプレーというものの復讐なのだろう。
自分は一人で全部出来れば良いと思っていたし、そういう自分が一番だった。それだけでは勝てないと解っても、どうしたら良いのか解らない。
他人の信じ方も、頼り方も、助けを求める方法も知らなかった。反省と自戒の毎日で、磨り減って行く心が辛くて、もう駄目だと投げ出したくなるのに、プライドが許さない。
卑屈な考えに囚われ掛けた時、ボールが飛んで来た。
湊が悪戯っぽく笑っている。反撃してやっても良かったが、リーアムと夜風に吹かれているこの時を失うことがとても勿体無く感じられ、止めた。
湊は頬を伝う汗を拭い、隣に座った。
「リーアムはいつからバスケをしてるの?」
湊が問い掛けると、リーアムは空を見上げた。
「いつだったかな。物心付いた頃には、バスケに夢中だったよ」
リーアムの言葉を聞きながら、航は自分達を思い返す。
五歳頃の自分達の兄弟喧嘩は流血沙汰になる程に苛烈になっていた。自分達の内側から噴出する葛藤や怒りを言葉に出来ず、気付くと拳を振り上げていたのだ。その矛先にいたのは湊であり、航だった。
リーアムの言葉はそれ以上、続かなかった。
その代わり、さて、と言い置いて姿勢を正した。
「君達が此処に来た理由を教えてくれないか? バスケが目的じゃないんだろ?」
湊は苦笑した。
「この地区でポルターガイストが頻発してるんだ。その調査をしてる」
「何で?」
「大学で超常現象を研究しているんだよ」
「君達、大学生なの?」
湊が質問責めに合っている。珍しいものを見たような気がして、航は会話から外れて他人事のように眺めていた。
湊は困ったように笑って、手を振った。
「俺のことは良いだろ。それより、もしも何か気になることがあれば教えて欲しい」
リーアムは納得したようではなかったが、首を捻って唸った。律儀な人間だ。生き難いだろうな、とぼんやり考えていると、リーアムはぽつりと言った。
「超常現象を研究していると言っていたね。それなら、俺の相談に乗ってくれないかい?」
リーアムはほとほと困り果てたという様子で言った。
演技には見えなかった。湊は黙って先を促した。
「僕のバスケチームで、不可解なことが起きてるんだ。君が専門家なら、意見を聞きたい」
「勿論」
湊が二つ返事で了承すると、リーアムはほっとしたように胸を撫で下ろした。
「直接、見てもらった方が良いと思う。明日、俺の大学へ来てくれるかい?」
「いいよ」
湊はリーアムと連絡先を交換し、にこにこと微笑んでいた。航はこれから巻き込まれる騒動の予感に身構え、日頃の行いを振り返り、現実逃避を始めていた。




