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ハロー、マイヒーロー!  作者: 宝積 佐知
3.祈りの欠片
16/106

⑴面影

 All truths are easy to understand once they are discovered; the point is to discover them.

(凡ゆる真実は一度発見されれば理解するのは容易だ。肝心なのは真実を発見することだ)


 Galileo Galilei


 





 ゴールポストは遥かに天空にあった。


 最善の位置、タイミング。凡ゆる不確定要素を一切排除し、糸が張り詰めるような緊張感の最中、航はボールを押し出した。


 視界の端から微かな影が飛び出したのは、その時だった。


 美しい放物線を描いた筈のボールは僅かに軌道を逸れていた。リングの上をぐるりと回って、そのまま外へ落ちた。


 ゴール下の凄まじい攻防の最中、航は宇宙遊泳中に背中を押されたかのような虚脱感に襲われた。


 速攻。

 誰かが叫ぶ。


 攻防の切り替わりに追い付けない。自身の集中が途切れていることを痛感した。


 コートを真っ直ぐに切り裂いて行く背番号一番。

 期待と羨望を一身に浴び、室内灯の白い光の中で輝いて見える。航は其処に、在りし日の兄の背中を思い出さずにはいられなかった。


 ゴール手前で駆け付けたブロックを躱し、流れるように後ろへステップする。

 指先からボールが離れた瞬間、試合終了を告げるホイッスルが鳴り響いた。宙を舞うボールがリングに落ちたのは、その時だった。


 ブサービーターだ。

 あの時弾かれたボールは、見えない糸で導かれたのようにして、今度はいとも容易くゴールポストに吸い込まれた。

 沸き立つ観客の狂気染みた悲鳴が、ハウリングのように鼓膜を揺らす。


 得点板を見遣り、航は頬を伝う汗もそのままに膝へ手を突いた。

 残り0.9秒からの逆転負け。心臓が冷たく、足元は雲の上を歩いているかのように不安定だった。何かが込み上げて来る感覚がして、吐きそうだ。


 整列し、顔を見合わせる。しかし、仲間の顔、観客の声、審判の言葉すら透明な風となって通り抜けて行く。


 何が足りない?

 航の頭の中にあるのは、それだけだった。


 早朝のロードワーク、厳しい練習。

 体格で劣るのなら速さを、力で劣るのなら技術を。一分一秒でも早く、ゴールポストを目指し、己に残された武器を磨き続けても、まだ足りない。


 乾いた拍手の音がした。

 ふと見上げると、野暮ったい眼鏡を掛けた湊が観客席から拍手を送っていた。歓喜も落胆も無い冷めた無表情に何故だかほっとして、航は頭を下げた。


 NCAAの地区予選だった。

 本戦出場の権利を賭けた試合は、劇的な逆転負けだった。航が会場を出た時、湊が待っていた。


 抑揚の無い声で「お疲れ様」と母国の言葉を告げる。航は鼻を鳴らして、肩に掛けていた鞄を押し付けた。


 敗北の苦渋を噛み締め、試合内容を振り返る。

 チームでの反省会で出た言葉は記憶している。けれど、それを糧にして前を向ける程、まだ時間が経っていなかった。


 何も言わずに鞄を背負った兄は夕陽に照らされ、まるで幼少期の帰り道を彷彿とさせる。コートを横断して行ったあの背番号一番が湊と重なって見えた。

 弱さの証明だ。過去にしがみ付いて何になる。誰かに無責任な期待をするくらいなら、全部自分でやれば良い。

 帰ったらロードワークをして、筋トレと、基礎練と、それから。

 航が思考を巡らせていた時、湊が足を止めた。




「今日の夕飯は、野菜中心がいいな」

「は?」




 思わず間の抜けた声が出て、航は自分の口元を押さえた。湊は夕焼けをぼんやり見詰めている。


 野菜中心か、と頭の中で冷蔵庫の中身と幾つかのレシピを思い浮かべる。その横で湊が取り留めも無いことを延々と話し始めるので、航は眉を寄せた。


 菜食主義について科学的解釈から専門用語がぽんぽん飛び出して来て、何がどう繋がったのか中世ヨーロッパの開拓史を語り始めた。航は脈絡の無い話題転換について行けず、相槌すら打てない。


 こいつ、何の話をしているんだ?

 航は苛々して、ロボットみたいに話し続ける湊の後頭部を叩いた。其処で漸く我に返ったみたいに湊が目を瞬かせる。




「痛いよ」

「うるせぇ」




 湊はばつが悪そうに後頭部を撫でる。

 それでもまだ話し足りなそうにする兄の顔を見ていると、頭の中に掛かっていた霧が晴れて行くような気がした。


 湊が擽ったそうに笑う。

 強張った心を解すような笑顔だった。

 航が早足になると、湊が子犬のように追い掛けて来る。待ってよ、という声には応えず、航は帰路を辿る。


 これじゃあ、どちらが兄か解らないな。

 そんなことを思いながら、航は歩調を緩めた。







 3.祈りの欠片

 ⑴面影







 夜の帳が下りるバスケットコートは喧騒に包まれていた。本来ならばスポーツを楽しむ神聖な場所である筈なのに、社会から落第した破落戸が我が物顔で闊歩している。


 裏社会を否定する気は無い。発展する社会から追放された若者が独自の世界を構築し、自分の居場所を確保しようとする気持ちも解る。それが例え違法薬物の売買だろうと、低俗なストリートファイトの賭博であろうと構わない。ただそれが、この場所でさえなければ。


 腐臭を撒き散らす浮浪者が恐々と道を開け、熱帯魚のように鮮やかな衣服に身を包んだ若者が大口を開けて下品に笑う。


 純粋にバスケットボールを楽しもうとやって来た者が遠去かり、目の前は正に無法地帯と化している。警官に通報して一斉検挙してやっても良いが、報復が面倒だ。非行少年グループの背後には大抵犯罪組織がいる。彼等は時に目を覆いたくなるような残虐な報復を行い、善良な市民を恐怖のどん底へ突き落とす。


 彼等はクズだ。

 貧困による欲求不満を解消出来ず、群れの中に居場所を見付け、小さなきっかけで暴走する。


 先日の幽霊屋敷の一件を思い出し、航は陰鬱な気持ちになる。あの人を人とも思わない残酷な事件を起こしたのは、未成年の少年達だった。更生施設に入れられた彼等が今頃どのような生活を送っているのは知らないが、犯した罪に対して余りにも罰が軽過ぎる。


 腹の底から怒りが沸々と込み上げて来て、自然と眉間に皺が寄った。航の険しい目付きと仏頂面は、薬物とアルコールに高揚する若者すら距離を置かれる程に物騒なものだった。


 航はふと顔を上げた。

 若者達の中、水面に揉まれる木片のように栗色の頭が見える。今にも飲み込まれそうなそれはあっちへ行き、こっちへ行き、方向感覚を失くしてしまったのか彷徨っている。ーーその身長では、向かうべき方向なんて見えないのだろう。


 航は額を押さえて、溜息を吐いた。

 人混みの中に腕を突っ込み、その腕を捕まえると思い切り引っ張ってやった。少年達の群れから抜け出た湊は、へらりと軽薄に笑った。


 調査したいことがある、と言って湊が玄関先に立ったのは今から一時間程前の午後七時のことだった。夕食で膨れた腹を撫でて微睡んでいた航は、突拍子の無い行動に眉を顰めた。

 母が心配そうにしているので、航は仕方無く湊の調査に付き合うことにした。


 その調査がどう言ったものなのか全く解らないまま、連れ回されて二時間。目的地と呼べるものがあるのかも解らない。

 本人は一応地図を広げていたが、街の中を二時間彷徨っていただけだった。その最後の到着地点がこのバスケットコートだった。

 湊は航に待てを言い置いて人混みに潜り、波に流されて帰って来たのだった。


 人混みに揉まれてぐちゃぐちゃになった髪を整えもせず、湊は傾いた眼鏡を掛け直し、瞳を爛々と輝かせて地図を見ていた。航は崩れたシャツの襟を正してやり、問い掛けた。




「それで結局、何の調査をしてんの?」

「生態調査?」




 航は不機嫌に目を眇めた。

 生態調査って、この非行少年達のことか?


 確かに彼等は社会の底辺ではあるが、珍獣のように調査するというのは失礼だろう。彼等にも背景はある。それを上っ面だけで判断して、調査などと見下す物言いは看過出来ない。


 自分がそれまで考えていたことは棚に上げて、航は咎めようと口を開き、止めた。

 湊にとっては人間も動物も幽霊も等しく調査対象なのである。


 追求する気も失せてしまい、航は溜息を飲み込んだ。

 帰ろうぜ、と掛けた声は、後方から掛けられた声によって掻き消された。




「おい、其処のオタク野郎! 俺の肩にぶつかったぞ!」




 人混みの向こうから一人の少年が勇み足で迫った。

 十代後半くらいだろうか。波を打つ赤毛が照明に照らされ、やけに印象的に見えた。ヘーゼルの瞳は好戦的にギラ付き、今にも殴り掛かって来そうだった。


 三下の常套句だな。

 航は冷めた思いで湊と少年の間に体を滑り込ませた。


 何だ、お前がやんのか?

 少年は易い挑発と共にシャドーボクシングをして見せる。周囲の人々が過敏に反応し、揶揄と罵声を交えて勝手に盛り上がって行く。


 ファイトコールが木霊する。

 数分前まで傍観者に徹して来た自分が馬鹿みたいだ。

 何処からか賭け屋が現れて、観客と化した野次馬を整理し始める。坂道を転がり落ちるように悪化して行く状況に、頭が鈍く痛む。


 早く帰ろう。帰って風呂に入って、寝よう。

 航が踵を返そうとした時、湊が賭け屋の男に話し掛けていた。碌なことにならないことは経験上知っていたので、航は慌ててその肩を掴んだ。


 しかし、全て手遅れだった。

 湊は眼鏡を外し、航の胸元へ押し付ける。久しぶりに見る兄の素顔は幼く、そして頼りなく見えた。




「俺に賭けなよ」

「ふざけんな。お前、これから何するのか解ってんのか?」

「ストリートファイトだろ? 大丈夫」




 若者達が周囲を固め、最早、逃げ場は無い。

 湊はジョギングでも始めるように軽く屈伸運動をしていた。こんなモヤシみたいな体格で如何してそんなに自信満々余裕綽々でいられるのか全く解らないが、航の行動は決まっていた。


 細い肩を掴み、眼鏡を突き返す。

 湊が驚いたように目を丸めるのも気に食わない。




「俺がやる」




 どうせ、むしゃくしゃしてたんだ。

 試合で溜まったフラストレーションを発散する好機だ。湊が何を考えているのかは全然解らないが、気遣う理由なんて無かった。


 当然、湊も黙っていなかった。

 俺がやる、いや俺が。二人でコントのような掛け合いを本気でやっていると、苛々したような少年の恫喝が響いた。




「俺を無視してんじゃねえ!」

「うるせえ!」




 弾かれたように航が噛み付く。

 外野がやいやいと五月蝿い。二人で眼鏡を押し付け合っていると、凛とした声が通り抜けた。




「俺がやるよ」




 人混みを掻き分けて、一人の青年が歩み出た。

 雑然とした風景の中で一際目立つ存在感のある青年だった。賢そうなきりっとした顔付きで、肩幅があり、力仕事でもして生きて来たかのような体格だ。

 航は彼を見て、午前中に噛み締めた苦渋を思い出した。




「お前……」




 航が零すと、青年は人懐こく笑った。


 コートを切り裂いて行った背番号一番。

 直感すると同時に、航は彼に奇妙な因果を感じた。

 ナイター照明に照らされた彼の瞳には不可思議な透明感があり、己の内側を看破されているかのような居心地の悪さを抱かせる。


 航はつい、隣の兄を見下ろした。

 湊に似ているのだ。顔付きも体格も全然違うのに、磁石のように人を惹き付ける。無条件に信じてしまいたくなるような存在感が、似ている。


 航は文句を言う湊の頭を押し込んだ。

 青年が着ていた上着を脱ぎ捨てる。文句を言っていた湊が渋々と拾い上げるので、お前は従者か、と内心で突っ込みを入れた。


 ぐるぐると腕を回して肩を慣らす青年は、一人だけスポットライトでも当たっているかのような貫禄を持っていた。物語ならば、彼は文句無しに主人公だ。


 彼に口出し出来る人間がいるとするなら、それは余程優秀なストーリーテラーか、空気の読めない馬鹿だ。

 そして、航の兄は、残念ながら後者だった。


 湊は眉間にこれでもかと言う程に皺を寄せて、拾い上げた上着を押し付けた。




「君も駄目だ。問題を起こすと、沢山の人に迷惑が掛かる」

「それは、君も同じだろ?」




 食い下がる湊を宥め、青年は白い歯を見せて笑った。

 女の黄色い歓声が上がって、耳が痛かった。




「大丈夫だよ」




 ナイター照明を背負った彼は、まるで光源のように眩く見えた。

 面倒になって、航は湊の首根っこを捕まえた。随分な自信だ。それだけ言うのなら任せてみよう。


 賭け屋が間に立って取り仕切る。

 一触即発の緊張がじわじわと空気を支配する。何かを言いたげな湊を押さえ付けたまま、航は傍観の構えを取った。


 ぽっかりと拓けた空間で、二人の男が対峙する。闘争本能に火が点いたようなぎらぎらした目で互いを睨み、今にも飛び掛かりそうだった。

 これから始まる凄まじい喧嘩を予期し、航は高揚感を抑え切れなかった。




「Ready,steadyーー……」




 賭け屋がボクシングの審判のように牽制する。コート内の緊張と興奮が最高潮に達した時、高らかに声が響き渡った。




「ーーFight!!」




 その時だった。

 乾いた破裂音が空から降って来て、コートは闇の中に包まれた。硝子の割れる音と悲鳴が迸り、航は身を固くした。


 咄嗟に銃撃を疑った。

 夜目は利く方だが、激しい明暗の変化に追い付かなかった。周囲は災害の最中にあるような混乱に包まれ、凄まじい人の波が押し寄せる。


 流されまいと両足に力を込め、湊の腕を強く握った。

 抗い難い波の中、航は必死に目を凝らした。しかし、人の動きが凄まじく、携帯電話のブルーライトが思考を邪魔し、ぐらぐらと視界が揺れる。


 続け様に破裂音が響いた。

 銃声じゃない。何かが割れたのだ。

 それがナイター照明だと気付き、航は空を仰いだ。


 木々が騒めき、悲鳴が上がる。

 何が起きているのか全く把握出来ない。


 突然、目の前に火柱が上がった。


 見上げる程に大きな炎によって闇が照らされる。火元の特定出来ない発火現象に、人々は恐慌状態に陥って嵐のように入り乱れた。逃げようにも泥沼で藻搔いているように手応えが無く、ただただ流されるしか無かった。


 逃げ惑う人々の中、航は視界の端であの青年を捉えた。

 整った横顔には皮肉っぽい笑みが浮かんでいた。ーーまるで、ただ一人、この事態を予期していたみたいに。


 追求の言葉は出て来なかった。

 指先から血の抜けて行く感覚を噛み締めながら、航は離脱するしか無かった。

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