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ハロー、マイヒーロー!  作者: 宝積 佐知
2.因果応報の理
15/106

⑸深淵

「よく君の話をしていたよ」




 大学からの帰り道、二人きりの車内でリュウが言った。何処か遠くを見詰める眼差しは、春の日差しの下に溶けてしまいそうだった。


 自分が見たものが何だったのかは、未だによく解らない。悪い夢を見ていたような気がする。足元がふわふわとして、ゴムの上を歩いているような奇妙な心地だった。


 信号で車が止まる。

 エンジンと空調の低い音が静かに響いていた。

 リュウはハンドルに手を添えたまま言った。



 

「航は、ヒーローだって」




 ヒーローか。

 自分達にとって、それはとても重い言葉だった。

 祈りを捧げる信仰の先ではないし、窮地を救う希望の光でもない。自分達にとっては、ヒーローとは自分が自分でいる為の道標なのだ。


 湊が曲がらずにいるから、航は折れずにいられる。湊が迷わないから、航も立ち止まらない。

 自分達はいつもそうだった。立ち止まれば背を押して、蹲れば手を引いて、互いを支え合いながら生きて行ける。どんな時も裏切らない、裏切れない絶対の味方がいる。だから、自分達に神はいらなかった。


 あの男は、その意味を履き違えた。


 湊に神は必要なかった。

 ただ、それだけのこと。


 帰宅すると、湊は目を覚ましていた。

 顔色はまだ少し悪かったが、病院へ緊急搬送されたあの時よりはずっと良くなっていた。


 ずるずると饂飩を啜る姿を見て、どっと身体から力が抜けて、航はソファへ倒れ込んでしまった。


 ここ数日、まともに眠れていなかった。身体的にも精神的にも限界だ。暖炉の火に照らされながら、航はあの血塗れの亡霊を思い出す。どうして、アーロンが襲われたのか。


 ぼんやり考えていると、ローデスクに一枚の札が置かれていることに気付いた。月見饂飩を啜ることに集中している湊は振り向きもしない。凡そ一週間振りの食事だ。放って置こう。


 食事に区切りが付いたのか、湊が丁寧に挨拶をして箸を置いた。

 長い前髪を丁髷のように結び、頬に血色が戻って来ていたのも相まって、馬鹿殿のように見えた。


 この馬鹿殿は、心霊現象を一切感知していなかった。

 部屋の中の血痕も、原因不明の高熱も、首を絞める血塗れの亡霊も、何も知覚していなかったのだ。自分が熱に魘されていたことから、凡ゆることを幻覚の類と断定している。


 ふざけんな、と言ってやりたい。だが、その時、壁に凭れ掛かっていたリュウが言った。




「あれは呪詛でしたよ。犯人はアーロン助教授でした」

「ああ、あの人か」

「僕が間に合わなかったら、どうするつもりだったんですか」




 リュウは責めるように言った。

 しかし、湊は静かに答えた。




「……もしかしたら、呪詛を止めたかも知れないだろ」

「動き始めた呪詛は、もう止められません。人形では受け切れなかった」




 死を望むというあの呪詛は、対象者である湊が死ぬまで続いたのだろう。


 壁に凭れ掛かったまま、リュウが言う。




「呪詛は受けるか、返すしかない」




 呪詛返し。

 リュウはそう言った。


 人を呪わば穴二つというが、あの男は正しく己の放った呪詛によって命を落としたのだ。自業自得だ。




「アーロン助教授と個人的に話したことがある」




 湊は言った。


 アーロン・ウィリアムは心霊的現象に造詣が深い熱心なキリスト教徒であった。僅かながらに霊視の能力を待ち合わせ、その為に神秘的な現象に強く惹かれるようになった。心霊現象と宗教の繋がりに着目し、研究に没頭して行った。


 しかし、周囲の人間は彼を恐れて拒絶し、家族とも疎遠となっていた。世間から孤立する程に研究へのめり込むようになり、支援者も理解者も得られぬまま、自己承認欲求は膨張し、終には禁忌の呪法にまで手を出した。




「悪い人じゃなかったよ。そうだな、ーー子供みたいに純粋な人だった」




 湊はそんなことを言った。


 航は湊の話を聞きながら、或る可能性に思い至っていた。ずっと不思議だった。何故、その矛先が湊に向いたのか。


 超常現象に対する解釈の違いと言えばそれまでだ。己の全てを研究に捧げた科学者の心理なんて解らない。だが、アーロンの湊への異常な執着、それはきっと。




「羨ましかったのでしょうね」




 航の思考を読み取ったかのように、ソフィアが言った。


 そうだ。恨みも憎しみもあったかも知れない。

 けれど、その根底は湊に対する嫉妬なのだろう。


 米国最高峰の大学へ飛び級し、神を必要としない程に強い精神を持ち、自然と人を惹き付ける。自分に無かったものを全て持って現れた青年が、自分の研究を真っ向から否定する。


 いつか、湊が恐怖という感情について語っていたことを思い出す。

 人は存在を脅かすものに対して恐怖を抱く。湊の存在は正に、恐怖そのものだっただろう。




「もっと、話せば良かったな」




 寂しそうに湊が言った。

 死にそうな目に遭って、この後に及んで何を言っているのだろう。航は腹が立ったが、黙っていた。兄の思いが痛い程に解る。


 湊もアーロンも救う方法があったのかも知れない。

 もしかしたら、もっと平和的な方法で。


 湿っぽい空気に包まれ、航は逃げ出すように席を立った。怠くて堪らなかった。


 自室へ戻ろうとした時、湊が言った。




「航、ありがとな」




 白い歯を見せて笑う湊に、中指を立てる。




「前髪切れや」




 舌を出して挑発的に笑って、航は部屋へ戻った。








 2.因果応報の理

 ⑸深淵









 秒針の音が響いている。

 暖炉の火も弱まり、リビングは痛い程の静寂に包まれていた。


 湊は、食器を水盤へ運び、電気ケトルの電源を入れた。数分と待たずミネラルウオーターが沸騰する。棚からハーブティを取り出し、客用のティーカップを用意する。


 ローズピンク、ラベンダー、アップル、ハイビスカス、レモンバーム、ステビアリーフにストロベリーを加え、ティーパックに詰める。調合は好きだ。湯を注ぎ、柔らかなストロベリーの香りにほっとして、湊は三人分のティーカップをリビングへ運んだ。


 リュウは壁に凭れ掛かり、ソフィアはダイニングチェアに腰を下ろしていた。湊自身はソファへ座り、口先だけはハーブティを勧める。




「座れば?」




 湊が声を掛けても、リュウは真顔のままだった。

 彼が怒っていることは解っているが、過ぎたことは今更どうしようもない。自分の信念を貫く為には、ああするしか無かった。


 湊は天井を見上げて少し考え、リュウへ目を戻した。

 一息吸い込んで、頭を下げる。




「悪かった」




 近頃、自分は謝ってばかりだな。

 湊は自嘲する。リュウはこれ見よがしに溜息を吐いた。




「次はもっと早く相談出来るように努力する」

「曖昧な言い方ですね」

「はは。ーーでも、助けてくれてありがとう」




 湊が言うと、リュウは力無く笑った。


 呪詛が本当に存在するのかどうかは、正直なところ、湊にはまだよく解らないのだ。自分は呪われていると自覚させることが重要だという考えもある。


 今回は呪詛が実在するという前提でリュウを呼んだ。目には目を、歯には歯を、呪術には呪術を。


 しかし、不確定な要素を多分に含んだ今回の事件では、どうしても後手に回らざるを得なかった。犯人像も解らなかったし、狙いも不明だった。


 リュウが呪詛返しを行った時、そのマイナスのエネルギーが何処へ向かうのか予測が付かなかった。呪詛は倍になって術者に返される。もし、それを返されたら?


 キャッチボールのように膨張していくマイナスのエネルギーが、湊ではなく航に向かう可能性もあった。自分達は血を分けた双子だ。凡ゆる危険は想定しなければならない。


 ソフィアはやり取りを静観していたが、怪訝に眉を顰めた。追求の言葉が出る前に、湊はノートパソコンを取り出して先手を打つ。




「ルーカス氏のことを調べたよ。私生活なんて皆無みたいな仕事人間だ。もしも怨恨による他殺なら、犯人は仕事の関係者かもね。妻も他界しているし、娘は九歳だ」




 リュウは何かを言いたげにしていたが、湊は遮った。




「自殺のタイミングとしては不自然だ。他殺の可能性が残っている以上、捜査は打ち切るべきじゃない。葵君にも伝えてある」

「ルーカス氏は殺されたと言っていたわ。でも、あれ以来、交信を試してみても反応無いの……」

「女性の霊媒は好不調があるのが普通さ。気にしないで」




 とはいえ、参ったな。

 銀行内の人間関係なんて警察が調べ尽くしているだろう。見落としなんて考え難い。


 捜査資料を確認する。ーーこれは葵君には秘密だが、地元警察署のデータベースにハッキングを掛けている。大目玉を食らうどころか逮捕されてしまう。


 死亡現場は自宅の二階、自室である。

 午後十時半にメイドが水を持って行ったのが最後で、朝七時に執事が訪れた時には亡くなっていた。

 司法解剖によると死亡推定時刻は午前零時から三時。死因は薬物の過剰摂取による中毒である。ルーカス氏は慢性的な不眠の為、就寝時は部屋に誰も近付けなかった。


 従業員のアリバイは殆ど確認が取れている。既に寝ていた為にアリバイ証明の難しい者もいるが、動機が無かった。金庫の中から見つかった遺言状によると、遺産は国庫へ寄付することになっていた。

 湊が独自に調査し、まだ世間には出回っていない情報ではあるが、ロイヤル・バンクは国営化することになっているらしい。世継ぎが九歳の一人娘ということを考えると、妥当な判断だ。


 葵君が気にしていた睡眠薬の瓶についての所在はまだ解っていない。事件当日から時間が経ってしまったので、処分された可能性が高い。


 そもそも、何故持ち出したんだ?

 犯人のミスか? それとも、何か意味が?


 ルーカス氏が死ぬことで得をした人は?

 何故、ルーカス氏は犯人の名前を告げなかったんだ?


 思考は深く沈み込んでいた。

 リュウに両肩を掴まれて揺さぶられてはっとする。酷く心配そうに覗き込むリュウを宥め、湊は苦笑した。

 ハーブティはまだ湯気を昇らせている。


 嫌な予感がする。

 まるで、足元から暗く冷たい靄が滲み出て、空気に充満して行くような悍ましい感覚だ。

 指先が微かに震えていることに気付く。


 何だ、俺は怖いのか。

 湊は皮肉っぽく思った。




「アーロン助教授のことなんですが」




 リュウが言った。

 湊は話題の転換に付いて行けず、動揺を誤魔化すようにしてハーブティを啜った。




「僕には、アーロン助教授が呪詛を送って来たという実感が湧きません。湊も言っていましたが、悪い人では無かった」

「……」




 それは湊も気に掛かっていた。

 呪詛を送るなんて相当だ。アーロン助教授ならそのリスクも解っていた筈。やはり、タイミングが不自然なのだ。

 あのディスカッションが原因だとしても、一年ものタイムラグがある。どうして今更、という感覚が拭えない。




「裏がありそうだな」




 ルーカス氏の事件も、アーロン助教授の行為も。

 湊はじっと押し黙った。真理を探究したいと思うのは研究者の性だ。だが、深入りしたくないとも思う。

 懸念するのは、ーー航の存在だった。


 こんなことを言えば烈火の如く怒るだろうが、巻き込みたくない。

 もう巻き込まれているだろうと怒鳴る弟の姿が思い浮かび、湊は苦笑した。


 なあ、ヒーロー。

 俺が間違った時には、止めてくれよ。


 今頃、自室で安らかに眠っていることだろう。

 湊はノートパソコンを閉じて、そっと息を逃した。

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