⑷神様
「貴方達、宗教は?」
夜半過ぎ、ソフィアが唐突に問い掛けた。
航は質問の意図が解らず、咄嗟に何も答えられなかった。
湊の体調が落ち着いたので、無理矢理退院させ、自宅に連れ帰った。脈拍も正常値に戻り、今はベッドで安らかに眠っている。
体力の消耗が激しい為、流石に起こして情報を聞き出すことは憚られた。
リュウの作った人形は時間が経つ毎に黒ずんでいる。今も呪詛が送り込まれていると解る。仕方が無いと解っていても、焦ってしまう。このまま人形が壊れてしまったら、湊はどうなるんだ?
弱り切った湊の姿が瞼の裏に焼き付いている。幽霊よりも、湊を失うことが怖かった。
答えられずにいた航を庇うように、リュウが問い返した。
「何故?」
リュウは慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。だが、二人の間に妙な沈黙が流れたような気がして、航は軽く手を上げて答えた。
「俺は無宗教だよ。湊はまあ、どちらかと言うと無神論寄りかもな」
「ふうん」
ソフィアは納得していないようだった。
寝息を立てる湊を背中に、航はソフィアとリュウの間に胡座を掻いていた。来訪時に入れたハーブティは既に冷め切っていた。
湊のベッドは注連縄とよく解らない札で囲まれていた。リュウが言うには、陰陽道の結界らしい。そして、結界とは霊的な磁場のことで、侵入を防ぐ砦の意味があるそうだ。
航は宗教のことは解らないので、何と無く御利益がありそうだなと適当な感想を抱いていた。
母は取り敢えず適当に言いくるめて、外出させた。何かを言いたげだったが、湊が「大丈夫」と言うとそれ以上は追求しなかった。
ソフィアは冷めたハーブティを一口啜ると、不機嫌そうに言った。
「宗教を持たない貴方達は、何に祈るの?」
航は困った。
宗教を否定するつもりは無いのだが、航は特定の神の存在を信じていない。それは両親が宗教に対して寛容な日本人であることに由来する。
母国では初詣もするし、盂蘭盆会もあり、クリスマスも祝う。八百万の神が住まう母国は、宗教について好い加減なのだ。
「俺は神には祈らない。でも、本当にどうしようもなくて、辛くてしんどい時、頼りにする先はある」
航はこんこんと眠る湊を見た。
崇拝されるような人格者でも無いし、いざという時に頼りにならないトラブルメーカーだけど、大切な兄弟だ。ーーなんて、絶対に湊には言ってやらないけど。
リュウは人好きのする笑みを浮かべながら、柔らかな声で言った。
「湊もよく、君の話をしてるよ。航はヒーローだって」
その言葉も何処まで本心なのか解らない。
航は擽ったいような気恥ずかしいような気になって、そっぽを向いた。
湊はね。
リュウが言った。
「湊はね、すごいんだ。年下とは思えないくらい落ち着いているし、論理的だ。今はこんなナードみたいな格好をしているけど、とても綺麗な顔をしているから、入学した時には人集りが出来るくらい強烈な存在感があったよ」
そうだろうな、と航は思った。
湊はいつも人の中心にいる。いつの間にか先頭に立って導き、それを苦にしない生まれながらのリーダーだ。身内の贔屓目とは思わない。
ただ、上辺だけを見て欲しくは無かった。
「研究室でも、いつの間にか頼りにされてて、大学じゃ有名人なんだ。ーーまあ、こんな格好をする前までの話なんだけどね」
リュウは苦笑した。
そういえば、湊がこんな格好をするようになったのは、何故なんだろう。何時からなんだろう。離れていた一年の間、湊はどんな風に過ごしていたのだろう。
こんな機会が無ければ訊けない。
航が問い掛けようとした時、稲妻のような警報が身体中を駆け巡った。
来たわ。
ソフィアが言った。
部屋の温度が下がって行く。三人は立ち上がり、嫌な気配のする方向ーー扉を睨んでいた。
鼻を突くような異臭が漂い、頭がくらくらする。空気が淀み、室内灯が点滅する。薄暗い部屋の中に、あの水の音が聞こえた。
扉の前に誰かが立っていた。
人の形をしているが、顔は無い。頭から血を被ったように真っ赤なヘドロの塊みたいだった。
航は背後の湊を見遣ったが、リュウは大丈夫だと言った。結界の効果で、湊の姿は見えないらしい。
ならば、何故此処に現れたんだ?
航は疑問に思った。ソフィアが庇うように躍り出て、酷く静かな声で問い掛けた。
「此処には貴方の救いは無いわ」
顔の無い霊は、怯えたように一歩後退った。そして、口らしき場所に小さな穴を開けて、濁った声で何かを言った。
航には聞こえなかった。多分、リュウにも。ソフィアだけが対話の術を持っている。
「この人は貴方を救えないわ。解っているでしょう。この人は貴方の声も聞こえないし、姿も見えない」
血の塊がずるりと溶ける。
ソフィアは天井を指差した。
「貴方が向かうべき場所は此処では無い。行きなさい。神の御許へーー」
その血の塊は、ずるずると溶けて行き、やがて消えてしまった。電灯がぱっと灯り、航は止まっていた心臓が動き出すような激しい動悸に襲われた。
部屋の中は息が白くなる程に寒いのに、全身に汗を掻いていた。
「消えた……のか?」
「ええ」
ソフィアは淡白な声で答えた。
空調が効いて来て、部屋の温度が暖かくなる。緊張感が解けて、航は腹の底から溜息を吐いた。
「安心するのは早いわよ」
釘を刺すようにソフィアが言う。
「あの霊が此処に来ることは無いでしょう。でも、呪詛は続いてる」
ソフィアはリュウの作った人形を指した。
右足が折れていた。これが湊だったらと思うと、ぞっとする。
やはり、呪詛をどうにかしなければならないのだ。
航が歯痒く思っていると、リュウが苦い顔で言った。
「心当たりがある」
「何?」
「余り、信じたくないんだけどね……」
その言葉の意味は解らない。
だが、リュウの表情から、不吉な予感だけが耳鳴りのようにいつまでも航には響き続けていた。
2.因果応報の理
⑷神様
自宅のあるウェストチェスターから車で三時間、湊の通う大学は広大な丘の上にあった。
ノーベル賞受賞者を多数輩出する全米きってのエリート校だ。五つの学部を設置し、湊は理学部に籍を置いているらしい。
その中でも専攻しているのは自然科学の分野であり、リュウとはその講義で出会ったのだと言う。
入学初期は飛び級の上にトップの成績で入学した湊は、常に人に囲まれ、尊敬の眼差しを受けていたらしい。
図太いようで根を詰め易い兄の性格を考えると、凄まじいストレスが掛かったことだろう。人集りを退ける為にオタクに変態した気持ちも解るような気がする。
春休みの為か大学構内は閑散としていた。
湊が普段引き篭もっているという研究室も案内されたが、航には全く意味の解らない専門書と統計データが山積みになっていて、圧迫感があった。自分ならば堪えられない。
航が顔を顰めると、リュウは可笑しそうに言った。
「湊もよくそういう顔をしていたよ。煩くされるのが嫌いみたいだったから」
そりゃそうだ。
そうでなきゃ、こんな密室に篭っていないだろう。
「知っていると思うけど、湊はとても優秀なんだ。人当たりも良いし、性格も穏やかだ。ちょっと頑固だけど」
流石に友達を名乗るだけあって、湊のことをよく解っている。航は、偏屈なところのある湊に心を許せる友人がいることが嬉しかった。
そう。湊は基本的に友達を作らないのだ。他人への期待は皆無と言って良い。人間関係に明確な線引きを行い、干渉されることを好まない。
そんな湊が呪詛を送られる程に恨まれるというのが、そもそも想像付かなかった。航から見るとマッドサイエンティストだが、一般的には好青年なのだ。
リュウの話を聞いていて、一つの可能性が浮かんだ。それは不安となって胸の中に芽を出す。
湊は人に恨まれるようなタイプではない。
ならば、きっとそれは。
航が結論を出し掛けた時、リュウが悟ったように言った。
「君も解っただろう?」
航は頷いた。
二人は研究室を出た。その足で隣の研究室へ向かう。
静かな構内は春の日差しに包まれているというのに、何処か薄ら寒く、不気味に思えた。
扉を開ける前、リュウが言った。
「僕等の研究テーマを知ってる?」
「湊は超常現象を科学的に解明するって言ってたよ」
「うん、その通りだ。ただ、詳細に言うと、僕等が研究しているのは超心理学なんだ」
航は首を傾げた。どう違うのがよく解らない。
リュウは穏やかに微笑んだ。
「超常現象にも幾つか分類があるんだよ。今回みたいな心霊現象や地球外生命、それから、超能力。僕等は超心理学の観点から超常現象と呼ばれるものを研究している」
聞いてもよく解らない。
湊もリュウも訳の解らない超常現象を解明しようとしているということだろう。それが今回の件とどんな関係があるんだろうか。
リュウは続けた。
「研究を進めて行くとね、避けられない衝突があるんだ。僕等は飽くまで科学者だから、答えを求める。でも、まだ研究の進んでいない分野だから、その答えが誰かの研究を否定することになることもある」
あの時も、そうだった。
リュウは言って、扉を開けた。其処は薄暗い部屋だった。壁中に本棚があって、床には何かデータの記されたコピー用紙が散乱している。
遮光カーテンの締められた部屋は何処か空気が淀み、息苦しく感じた。
机に置かれた本へ目を向ける。
超常現象の研究。中を開くと、心霊現象についての科学的な解釈が細かい文字で記されていた。
「心霊現象については、解らないことが殆どだろ? 目に見えないし、触れることも出来ない。だから、前提条件を付ける。ーー湊は、心霊現象は人の心に起因する超能力の一種だと考えたんだ」
そういえば、湊は魘されながらも、呪いの存在に否定的だった。思い込みによる自己暗示。兄の言葉が蘇る。
リュウは言った。
「でも、それに真っ向から反対する人がいた。心霊現象とは死者の残留思念であり、延いては人知を超えた超自然的な力の作用だと言ってね」
「解んねぇ。要するに、湊は人の力によるものだって考えていて、そいつは超自然的な力ーー神様の行いだって言ってるってことか?」
聞いていると、湊の主張の方が理に適っていると思う。だが、それは航に神がいないからだ。そして、湊にも。
「入学してすぐの頃、学部でディスカッションしたことがあったんだ。その時に、あの人は僕等を激しく糾弾した。神への冒涜だと」
その情景が目に浮かぶようだ。
それぞれの主張は正誤は兎も角、平等に聞き入れられるべきだ。冷静さを欠いたその人の発言は野次と変わらない。
その後の湊の行動が想像出来る。
「湊が言ったんだ。ーー自分に神はいない、と」
そうだろう。湊なら、そう言うだろう。
彼は根っからの科学者なのだ。真理を解き明かしたいと願う湊には、それは思考放棄の野次にか聞こえなかっただろう。
「その人は、誰なんだ?」
リュウは眉を顰めた。そして、錆び付いた歯車を動かすように、そっと答えた。
「アーロン・ウィリアム助教授」
その時、扉が開いた。
咄嗟に二人が振り返ると、其処には髭を蓄えた壮年の男が立っていた。
薄いグレーのスーツにターコイズのネクタイ。一見すると品の良さそうな男性である。だが、そのダークグレーの瞳は濁っていた。まるで、腐ったヘドロのように。
「李君、こんなところで何をしているんだい?」
にこやかに語り掛ける姿は穏やかなのに、その双眸の奥には狂気的な光が宿っている。航は自然と身構えていた。
其方は?
ダークグレーの瞳が航を映す。背筋が凍るような冷たい視線だった。
「俺は蜂谷航。ーーあんたが憎んでいる湊の双子の弟だよ」
アーロンは微笑んでいた。
身体中の神経が警報を鳴らしている。この男は危険だと解る。物理的な危険ではない。狂っているのだ。
リュウは身構えたまま、恫喝的な低い声で言った。
「アーロンさん……。僕等が此処に来た理由、解っていますよね」
「何の事かな?」
アーロンは態とらしく惚けていた。
航は、彼が犯人だと確信していた。だが、証拠が無いのだ。だから、余裕の態度を崩さない。
「今すぐに、湊に送った呪詛を止めて下さい。このままじゃ取り返しの付かないことになる」
「はは。僕が呪詛を送っただなんて、酷い言い掛かりだ!」
そんなことをして何の意味がある?
アーロンはそう言って笑った。
航は奥歯を噛み締めた。苛立ちが腹の底から湧き上がって、今すぐにでもぶん殴ってやりたい。確証は無いが、確信はある。そして、こういう時の航の勘は外れたことが無かった。
「君は彼の双子の弟だと言っていたね」
アーロンの濁った目が航を映した。
ぞわりと肌一面に鳥肌が立った。
「君は神を信じるかい?」
航は答えなかった。
話す意味が無いと解っていた。この男は自分の答えが全てだと思い込んでいる。航がどんな答えをしても、自分の思う答え以外は受け入れない。
「湊君はね、神はいないと言っていたよ」
航も、リュウも答えなかった。
そうだ。自分達に神はいない。窮地に救いを求め、幸福に感謝する相手がいない。だけど、それは、この男の思っているような意味じゃない。
「彼は神がいないと言った。それなら、誰が彼を救ってくれるんだい?」
天罰だよ。
アーロンはうっとりと微笑んでいた。
航は衝動的に拳を振り上げそうになり、寸前で押さえた。
「それが、呪詛を送った理由ですか……?」
アーロンは答えなかった。
湊の元に現れた亡霊は、救いを求めていた。しかし、湊には霊が見えないし、声も聞こえない。いつまでも救ってくれない湊に怒り、終には祟るようになってしまった。
「人が人を救えるだなんて烏滸がましい考え方だ。ああいう悪い芽は早い内に摘んで置かなければならない」
「……ふざけんなよ」
航は絞り出すような声で言った。
怒りで血管が切れそうだ。馬鹿じゃないのか、こいつは。そんな事の為に、湊は。
「俺達に神はいねぇよ。ーーそれは、全部自分の力で乗り越えて来たからだ」
誰のせいにもせず、誰にも背負わせず、困難も窮地も己の力で乗り越えて来たからだ。
「何も知らねぇお前が湊を語るんじゃねぇよ!!」
航が叫んだ、その瞬間だった。
アーロンの背中にあった扉が凄まじい音を立てて開いた。誰も何も出来なかった。
其処にいたのは、あの血塗れの亡霊だった。
アーロンが引き攣るような短い悲鳴を上げる。
助けを求め、指先が虚空を掻く。航もリュウも動けない。全身が金縛りに遭ったかのように。
アーロンが扉の向こうへ引き摺り込まれる。
狂ったような悲鳴が響き渡る。航はその悍ましい姿を声も無く愕然と見ていた。
突然、悲鳴は途切れた。途端に金縛りが解け、航は扉の向こうへ飛び出した。
リノリウムの廊下に何かを引き摺ったような血の跡があった。それは廊下の中間辺りまで続き、不自然に途切れていた。アーロンの姿は、何処にも無かった。
廊下を確認したリュウは、魂が抜けたような虚しい声で言った。
「湊が言ってたよ。ーー人を呪わば穴二つ。行いは必ず自分に返って来ると」
暖かな日差しの差し込む廊下に、血の跡が不気味に残されている。航はリュウの言葉を噛み締め、苦く頷いた。