⑶チームアップ
夜中に痰の絡んだ激しい咳き込みが聞こえた。
航が身を起こすと、ソファで湊が背中を丸めて蹲っていた。
「湊?」
湊の喉は破れた笛のような悲鳴を上げ、指先は堪えるようにソファに爪を立てていた。
暖炉の火に照らされているにも関わらず、部屋の中は凍える程に寒い。何処からかあの異臭が漂っている。
湊は息も吐けない程に咳き込んでいた。小刻みに震える背中が痛々しく、何も出来ない自分が歯痒かった。
湊の設置したサーモグラフィーの映像には不審な人影も無い。ただ、部屋の中は冷凍庫のように寒かった。
その時、航の視線は窓の向こうへ奪われた。
誰かが、いる。月明かりに照らされ、小さな影が朧に浮かび上がる。
それは子供のようだった。窓の向こうから此方をじっと覗き込んでいる。
航は息を殺し、影と睨み合った。
こんこん。
こんこん。
小さな拳が窓を叩く。
湊が咳き込むと、にたり、と粘着質に笑った。
周囲の物がかたかたと音を立てる。部屋の温度がぐんぐん下がり、暖炉の火が弱まって行く。
まさか、入って来るんじゃーー。
嫌な予感に背筋が凍る。航は極寒に包まれた部屋の中で、喘ぐように必死に息をした。
どのくらいの時間が流れたのか解らない。気付くと、その人影は消えていた。
航は堪らなくなって湊の背中を摩った。弱々しく振り向いた湊は、死人のような白い顔で儚く笑った。
このままじゃ駄目だ。
航は唇を噛み締めた。
感染症では無い。薬も効かない。これが本当に呪詛だったとしても、犯人を探している時間は無い。このままでは、湊が死んでしまう。
両目が熱かった。悔しくて、苦しくて、遣る瀬無い。
喉の奥から溢れそうな嗚咽を噛み殺し、あ、と思った時には遅かった。熱い雫が湊の白い手に落ちた。
労わるように撫でて来る手は冷たかった。湊が弱り切った目で覗き込んで来る。
航は濡れた頬を拭い、絞り出すようにして問い掛けた。
「……湊、お前、誰かに恨まれる覚えがあるのか?」
「無いよ」
意識を朦朧とさせながら、湊は即答した。
寒さの為か指先が痙攣し、冷たくなっていた。その腕は己の半身とは思えぬ程に痩せ細り、力を入れたら折れてしまいそうだった。
「ソフィアが言ってたぞ。これは呪詛だって」
「俺は呪詛なんて信じてない」
きっぱりと湊は言った。
解らないことは解らないと言う湊だ。本当に信じていないのだろう。
「呪いなんて思い込みと自己暗示だよ」
「じゃあ、今のお前の状況は何なんだよ」
「性質の悪い風邪さ」
湊は飽くまで呪詛を否定している。
それはそうだろう。呪いが自己暗示ならば、口に出して認める訳にはいかない。
だが、そうしている間に湊は衰弱して行く。このままじゃ嬲り殺しじゃないか。
湊が死んだら、自分はどうするだろう。この世の凡ゆる方法を使って犯人を探し、最も残酷な方法で報復する。人を呪わば穴二つというが、きっと自分達には三つ必要になるだろう。
航は鼻を啜った。打開策の一つも浮かばない自分が腑甲斐無く、情けなかった。
「……航に頼みがあるんだけど」
湊が弱り切った声で言うので、まるで今生の別れを告げられているようで恐ろしくなる。
聞きたくない。けれど、湊の瞳には確かに理性の光があった。湊はまだ何も諦めていない。航はその手を取った。
「言ってみろ」
湊はそっと頷いて、掠れた声で言った。
「俺の携帯を取って欲しい」
「ああ」
「それで、或る人に連絡して欲しいんだ」
「解った」
「多分、それで一先ずは解決すると思う」
湊は熱い息を吐き出して、そのまま眠ってしまった。
航は耳馴染みの無いその名前を頭の中で反芻し、湊の手を握り締めていた。
2.因果応報の理
⑶チームアップ
翌日、航は湊の鞄から携帯電話を取り出した。
湊は眠っていた。酷く心配する母は入院の手続きを進めていたが、どうにか宥めて止めた。紛争地にいる父にまで連絡が行き、緊急帰国する寸前だった。
一月ぶりに父と話した。
大丈夫なんだな?
念を押すみたいに問い掛ける父に、航は頷いた。
何の確証も無いし、手掛かりも掴めていない。だが、航は湊の言葉を信じるしか無かった。
どちらにせよ、父が緊急帰国したって何も出来ない。病なら兎も角、目に見えず触れられない呪いを相手に医者に出来ることは無いのだ。父は精神科医も経験していたが、湊本人が呪いは自己暗示だと断言している以上、打てる手が無い。
航は湊の携帯電話から或る名前を探した。
耳馴染みの無い名前だった。知り合いではないし、何より、違う言語圏の名前だったのだ。
李瀏亮というのが、湊の告げた名前だった。同じ大学に通う同級生で、中国からの留学生らしい。湊の数少ない友達だ。
祈るような気持ちで電話を掛けると、通話はすぐに繋がった。
落ち着いた穏やかな声だった。
理性的な声は耳に心地良く響き、姿を見ずとも誠実そうな印象を受けた。英語が堪能で、理解が早い。
通話しているのが湊ではなく、双子の弟である航と知っても態度を変えず、黙って話を聞いてくれた。
事態を深刻に受け止め、彼はこの家まで来てくれることになった。問題は何も解決していないが、前も見えない闇の中に一つの灯火を見付けたかのような心地だった。
しかし、安心もしていられなかった。
激しく咳き込んでいた湊が喀血し、意識を失ったのだ。サイレンを鳴らした救急車がやって来て、慌しく搬送する。自発呼吸が困難な程に衰弱し、呼吸器を装着される兄の姿を航は愕然と見ていた。
脈拍はとても弱い。このまま止まってもおかしくない程だった。
母は真っ青だった。
搬送された病院で検査をしても原因は解らない。ただ、激しい咳の為に呼吸器が酷使され、ボロボロだった。
昏睡状態が続いた。
航は薄くなった湊の手を握りながら、祈るべき相手も無く、ただただ信じることしか出来なかった。
彼がやって来たのは、その日の夕方だった。
マサチューセッツ州から車で三時間掛けてやって来た希望の使者は、ひょろりとした背の高い青年だった。
黒髪と黒曜石みたいな瞳が印象的だった。
昏睡状態の湊を見て息を呑み、航へ丁寧に自己紹介をした。電話で聞いたあの穏やかな声だった。
「僕は李瀏亮です。湊とは同級生で、リュウと呼ばれています」
「ああ、俺は」
「航君でしょう? 湊からよく聞きます」
瀏亮ーーリュウは、マネキンのような無表情で湊へ目を向けた。
弱々しい心電図が胸を締め付ける。リュウは顔を歪めた。
「もっと早く連絡してくれれば良かったのに……」
その言葉に航は不安を抱いた。
「手遅れ、なのか?」
リュウは首を振った。
「大丈夫。必ず助けてみせます」
力強い声だった。溺れる者が藁を掴むような心地で、航も信じることしか出来なかった。
二人で待合室に移動する。平日の朝である為か人気は無く、閑散としていた。
リュウは鞄の中から小さな木片を取り出した。ベニヤ板よりも薄く粗末な木片は人の形をしている。その胸の辺りには和紙の札が貼られていた。
「それは?」
「人形です。今、湊に向かっている呪詛を代わりに受けてくれます」
熟、非科学的だ。
だが、精神的な余裕が無い為か、航は今の状況を自分でも驚く程、すんなりと受け入れていた。
人形を床に置き、リュウは何かを呟いていた。
それが所謂呪文の類なのだということは解っても、何を言っているのかは解らなかった。
リュウは一呼吸置くと、顔を上げた。
「一先ずは、これで良いでしょう」
「助かったのか?」
「いえ、これは応急処置みたいなものです。術者の正体を突き止めない限り、呪詛は続くでしょう。この人形が壊れれば、また湊に矛先が向く」
航は歯噛みした。
頭が割れそうに痛い。何なんだ、この状況は。
冷静に考えなければならない。航は深呼吸をして、リュウへ頭を下げた。
「ありがとう」
「……お礼を言うのは、まだ早いですよ」
「ああ」
航は顔を上げ、湊の病室へ足を向けた。
到着すると、幾らか顔色を戻した母が容態が安定したことを教えてくれた。脈拍は正常値に戻り、呼吸も落ち着いている。
相変わらず顔色は悪いが、先程までに比べれば随分と良くなった。
胸に痞えていた重石が取れたような気持ちだった。
母へ自己紹介を済ませたリュウは、先程の人形を取り出して苦い顔をした。
人形は炎に炙られたかのように薄く黒ずんでいた。
彼の言う通り、これは応急処置なのだ。やはり、術者を探してこの呪いを止めなければならない。
情報を整理したかった。だが、航は相談するという行為が自覚する程度には苦手だった。誰かを頼ることも殆ど無い。自分が困難に行き当たった時に頼りにするとしたら、ただ一人、湊だけだ。
その湊が行動不能となれば、八方塞がりだった。
どうする。
そもそも、何で湊がこんな目に遭っているんだ?
湊は何か心当たりがあるようだったが、目を覚ますまでは訊けない。次はどうする。街中にローラー作戦でも掛けるか。
双子の兄が誰かに呪われていると?
誰が信じる。笑われて終わりだ。
くそっ!
航が悪態吐いたその時、リュウが言った。
「僕が力になりますよ」
ぱっと視界が明るくなったような気がした。
リュウは柔和に微笑んでいた。
「湊は僕の友達です。放って置けません」
「……」
「こういうことは得意分野です。任せて下さい」
願ってもない申し出だ。
安易に他人を信用することは出来ない。だが、あの湊が自分の状況を把握して助けを求めた相手だ。航は拳を握った。
「頼む」
リュウは朗らかに胸を叩いた。
航はリュウを連れて家へ向かった。
情報を共有し、整理したかった。自分達が何に巻き込まれているのか正確に把握したい。呪いというものが本当にあるのかどうかはもう別の問題だった。
湊は自己暗示だと言っていたが、それだけでは説明が付かない点もある。
住宅街はひっそりと静まり返っていた。
航は玄関を開けながら、経緯を説明した。始まりは湊が家畜の血を掛けられたことだった。
リュウは眉を寄せる。
「呪詛の中に、家畜の血を使うものがあります」
ソフィアも同じようなことを言っていた。
だが、湊は大して気にしていなかった。自分達は感染症を警戒した。ーーまさか、それが呪詛だなんて思いもしなかった。
「湊は、呪詛は思い込みによる自己暗示だって言ってたぜ」
「まあ、彼はそう言うでしょうね」
何かを悟ったような言葉だった。
航が自室の扉を開けると、リュウが顔を顰めた。
「何ですか、この臭い……」
「解んねぇ。掃除しても片付けしても、何処から臭ってるのか解んねぇんだ」
夜中に何かがやって来て、湊の寝顔を凝視していたことを思い出す。脅威が目の前に迫っていたのに、自分は金縛りに遭って声一つ上げられなかった。
「この部屋、寒いですね……」
「ああ。でも、湊がいる時の方がずっと寒いんだ。冷凍庫の中みたいに」
こんな状況にいたら、どんな人間も体調を崩すだろう。それこそ、神経の図太い科学者でも。
ふと、思う。湊は呪いに否定的だった。自己暗示だと言い切る様が何と無く不自然に思えた。
湊に霊は見えないし、感じられない。だから、ーー信じない。
それが湊に出来る唯一の抵抗だったのだ。
リュウは何かを思案するように天井を見詰めていた。
「家畜の血を掛けたのは、精神的な揺さぶりの意味もあったのでしょう。普通の人は不気味に思う筈です」
「普通はな」
「心に隙が出来れば、呪詛はより効果的になります。でも、湊は悪戯だと言って気に留めなかった」
「ああ」
リュウはベッドの側に跪き、床を入念に観察していた。
其処はあの日、何かが立っていた場所だった。今は血痕は無い。
「霊が来たんですね」
「……そうだ」
あれが何かは、正直解らない。
だが、生きている人間には見えなかった。
「また来ますよ」
「どうすれば良い」
「僕は霊と話せない。誰か……、死者の声を聞ける人がいれば」
リュウは小難しい顔をして逡巡する。航は、はっとして答えた。
「いるぞ」
「はい?」
「霊が見えて、話が出来る奴」
航は携帯電話を取り出した。
他力本願は自分の流儀ではないのだが、そんなことを言っていられる状況じゃない。
履歴の中から番号を呼び出す。航は携帯電話をスピーカーモードに設定し、彼女の名を呼んだ。
「ソフィア。力を貸してくれ」
スピーカーの向こう、ソフィアが短く了解の返事をした。