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ハロー、マイヒーロー!  作者: 宝積 佐知
2.因果応報の理
12/106

⑵呪詛

「臭い」




 眉間に皺を寄せた湊が、開口一番そんなことを言った。

 そのままチャキチャキと着替え始める湊を見て、航は腹の底から溜息が出た。

 結局、一睡も出来なかった。疲労感と倦怠感に包まれて、これからクラブチームの練習に行くのかと思うと憂鬱になる。


 冬眠明けの熊みたいな動きで航はベッドを降りた。

 頭に靄が掛かっているみたいだった。航の起床を知ると湊が明るい声で「おはよう」と笑った。


 白いセーターに腕を通し、湊は床を指差した。




「あれ、何?」




 床には赤黒く変色した液体が点々と残っている。

 航はうんざりしながら、昨晩のことを話した。湊は目を輝かせて興味深そうに聞いていた。

 聞き終えると満足したのか、雑巾を持って来て床の掃除を始めた。




「家畜の血だね」




 そうだろうな、とは思っていた。

 湊が平然としているのが唯一の救いだ。

 掃除を終えた湊はカーテンと窓を開けた。朝日が部屋の中を照らし、まるで昨夜の出来事が夢のように思えた。


 湊はパソコンを操作して、玄関の監視カメラ映像を映した。航は監視カメラがあったことすら知らなかった。




「来訪者はいないね」

「そうだろうさ」

「こんなことなら、サーモも設置して置くんだった」




 湊は何処までも他人事だ。

 あの不気味な来訪者は、湊だけを見ていた。航はお陰で一睡も出来なかったというのに、当の本人は全く気にしていない。


 今晩からは部屋にも設置する、と湊は意気込んでいた。昨晩のことを湊は感知していなかったのだ。幽霊屋敷でもそうだった。目の前に霊がいても解らないのだ。


 もしかして、入院中も来ていたんじゃないか?

 怪奇現象が幽霊屋敷で起こるのとは訳が違う。此方側から乗り込んだのではなく、向こう側からやって来ている。


 本来、安全である筈の家でそれが起こる恐怖。それを共感し合えないのは良かったのか、悪かったのか。

 何れにせよ、自分はもうクラブチームに向かわなければならない。

 朝食を食べている時間も無いので、航はそのまま玄関へ向かった。




「航」




 名を呼ばれて振り返る。

 何かをパスされて咄嗟に受け取った。バナナだ。続け様にスポーツ飲料が投げ渡され、航は慌てて受け止めた。


 ナイスキャッチ。

 湊が笑っている。その笑顔に毒気が抜かれてしまって、航は肩を落とした。

 バナナとスポーツ飲料を鞄に押し込み、湊の眉間に指を突き付ける。




「今日は関係者に聞き込みに行くって言ってたな?」

「うん」

「止めろ」




 湊はきょとんと目を丸めた。




「何で?」

「嫌な予感がする。何かあった時に助けに行けない。だから、今日は一日、誰かと一緒にいろ。いいな?」




 恫喝するように言い付けると、湊は不満そうにしていたが、渋々と頷いた。

 航は扉を開けた。朝日が眩しかった。爽やかな朝の空気を吸っていると、部屋の中に充満していた腐臭の異様さが際立つ。


 湊を一人にするべきじゃないかも知れない。

 そんなことを思ったが、自分が湊を心配しているというのは何だか気持ち悪い。


 見送る視線を遮るようにして、航は玄関を閉じた。








 2.因果応報の理

 ⑵呪詛








 ハードな練習を終えて帰宅した時、湊はソファに横たわっていた。薄手のブランケットを掛けて、暖炉の火に照らされている。眠っているらしい。

 夕食の支度をしている母が声を潜めて「おかえり」と言った。航も慣習に従って「ただいま」と返した。


 夕食はホッケだった。荷物を置いて手洗いを済ませ、皿からはみ出そうな大きな焼き魚をテーブルへ運ぶ。湊は身動ぎ一つせず、死んだように眠っていた。




「熱があるの」




 母が言った。その手には土鍋に入った粥があった。

 いつから、と問うと、朝からだと答えられる。自分を送り出した時にはもう、発熱していたらしい。


 湊は意外と丈夫だ。それなのに病気に罹るというのは、緊急事態なのではないか?

 もしかして、あの浴びせられた家畜の血のせいではないだろうか。検査結果に誤りがあり、本当は何かの病に感染していたのではないだろうか。


 航の懸念は母も同じだったようで、昼頃に病院へ行って再検査を済ませていた。結果は相変わらず陰性で、感染症の心配は無い。

 風邪だろうと診断され、幾つかの薬を処方された。解熱剤の副作用で眠くなるらしく、帰宅してからはずっとこのまま寝ていたらしい。


 病原菌も湊は避けて行くんじゃないだろうか。

 航は青白い顔で眠る兄を見下ろして、皮肉っぽく思った。それでも、きちんと自分の言い付けを守って、態々リビングで寝ている兄がいじらしく思えた。普段の訳の解らない屁理屈が無いと、やけに幼く見える。


 顔に掛かった前髪を払ってやる。中性的な顔立ちは幼少期と変わらず、まるで兄だけ時間の流れから外れてしまっているようだ。

 目の下に薄っすらと隈がある。今朝は、無かった。発熱で余程体力を使ったのだろう。可哀想に。


 よく眠っているようだから、先に母と二人で夕食を済ませた。暖炉の薪が時折爆ぜる以外は、静かな食卓だった。


 ソファで眠っていた湊が苦しそうな声を漏らした。母が駆け寄ると、湊は半開きの目で何処か遠くを見ていた。




「サーモを……」




 其処は体温計じゃねぇのかよ。

 呆れつつ、航は見様見真似で機器を設置して置いた。湊は霊の存在を感知出来ない。航は見えるとは言い難いが、何となく感じられる。


 湊は寝惚け眼でパソコンを開き、サーモグラフィーの映像をパソコンに映した。現在のリビングが映る。

 オレンジ色の人影は航と母と湊だ。暖炉のせいか部屋の中は暖色に染まっている。だが、その中に一つ、青い人影があった。


 ぎくりと心臓が脈を打つ。

 生きている人間は熱を発している。では、これは?

 熱を持たない四人目の人影は、微睡む湊の直ぐ横に立っていた。




「俺のことが気に入ったのかな」




 湊は投げやりに呟いた。

 そのまま深呼吸をして、湊は眠ってしまった。流石に母には見せられない。心配する母を適当に言いくるめて、航は自分の布団をリビングへ運んだ。


 電気は消さなかった。暖炉の火もそのままにした。

 炎は凡ゆるものを浄化するらしい。航に神はいない。だからせめて、この炎がせめて湊を守ってくれるよう祈るしかなかった。


 母が寝室へ行き、リビングには二人きりだった。

 パチパチと爆ぜる薪の音をBGMに、航は眠った。


 夜半、航は湊の呻き声に目を覚ました。微睡んでいた航は、其処にあった悍ましい光景に一気に覚醒した。


 真っ赤に染まった人影が、湊に覆い被さるようにして立っていた。稲妻のような戦慄が身体を貫いた。本能が危険を知らせている。




「湊!」




 今度は身体が動く。

 咄嗟にその何者かに掴み掛かる。ぐちゃりと、まるで内臓を鷲掴みしたかのような感触にゾッとした。


 それは湊の首を締めながら、航へ振り向いた。

 黄ばんだ歯列を剥き出しにして、それは、笑ったようだった。


 ふざけんな!

 航は手元にあった雑誌を投げ付けた。

 すると影は音も無く消えてしまった。


 残された血痕と異臭に、非常事態が起きているのだと嫌でも悟る。航は換気の為に窓を開け放った。冷えた夜風が吹き込み、異臭を攫って行く。


 湊を揺り起こすが、中々目覚めない。額に触れて見ると信じられないくらい熱かった。慌てて母を起こし、救急車を呼ぶ。

 母と二人で同伴し、転がるように夜間診療へ駆け込んだ。


 感染症の疑いがあるので再検査し、高熱の為に隔離して入院となった。今の湊を一人にして置けず、航は無理を言って同室に泊まらせて貰った。


 夜の病院は不気味だ。

 航は酷く静かな病室で、ただ朝を待っていた。


 このままじゃ駄目だ。何か手を打たないと。

 せめて、何が起きているのか知りたい。


 寝ずの番を務め、朝一番でやって来た母と交代して航はクラブチームの練習へ向かった。

 不眠の為か練習は散々だった。基礎練習の最中に目眩がして、見学という屈辱を味わった。チームメイトの労りの言葉も聞き流し、航は病院で眠る湊のことばかりを考えていた。


 今日はソフィアと会う約束をしていた。母は病院を変えて再検査をしてもらう為に手続きが必要らしく、不在だった。


 呼び鈴が鳴り、航が出迎えた。ソフィアは途端に顔を歪めた。




「何なの、この臭い。それに、空気が酷く淀んでいるわ」

「それを相談したくて、呼んだんだよ」




 退院した湊は相変わらずソファで横たわっていた。

 眼球が落ち窪んでいるみたいな隈があり、頬の肉はげっそりと削げ落ちている。顔色も悪い。

 病院で点滴を受け、解熱剤も呑んでいるが、効果は薄い。何で湊がこんな目に遭わなきゃいけないんだと怒りが込み上げる。


 ソフィアはリビングをぐるりと見渡した。




「此処に霊はいないわ」

「でも、夜になると来るんだ!」




 堪らず叫んだ。

 睡眠不足のせいで精神が不安定だ。体調管理も仕事の内だ。アスリートなら当然のことが今は出来ていない。色々な意味で限界だった。


 航の声に気付いたのか、湊が目を開けた。

 透明感のある濃褐色の瞳は発熱の影響で泣き出しそうに潤んでいた。




「風邪だよ」




 湊が言った。航は苛立った。

 検査結果は全て陰性。薬を呑んでいるのに熱は下がらず、体調はどんどん悪化している。食事も碌に食べられず、起き上がることすら困難だ。


 これが、風邪だと?


 ふざけんな、と怒鳴り付けようとして、寸でのところで飲み込んだ。湊には見えないし、聞こえないし、感じないのだ。それに、苦しんでいる湊に怒鳴っても何の意味も無かった。


 痛い程の沈黙が訪れる。


 ソフィアは湊の側に跪き、穏やかな声で問い掛けた。




「最近、何か変わったことは無かった?」

「変わったこと?」

「例えば、ーー誰かに恨まれるようなこととか」




 どういう質問だ。

 航の苛立ちも気にせず、湊は唸った。




「そういえばーー」




 高熱に意識を朦朧とさせながら、湊が言った。




「あれは、あの人だったのかなーー」




 意味深な言葉を残し、湊は瞼を下ろした。

 追求は出来なかった。


 残された航とソフィアは、ダイニングテーブルを挟んで向き合った。一応、客なのでハーブティを淹れた。ソフィアは意外そうな顔をしていたが、母の趣味だ。


 ソフィアはハーブティを一口啜ると、晴れやかな顔で「美味しい」と呟いた。

 感想はどうでも良かった。一刻も早く、原因を知り、解決法に辿り着きたかった。




「五日くらい前、湊が血塗れで帰って来たんだ」




 航は思い出しながら訥々と話し始めた。




「知らない人にいきなりバケツ一杯の血を掛けられたらしい。葵君に分析を頼んだら、家畜の血だったって」




 ソフィアは何も言わない。

 航は柔らかな湯気の昇るティーカップを見詰めていた。




「感染症の心配があったから、すぐに病院に連れて行った。検査結果は全て陰性。一晩検査入院して、湊は帰って来た。でも、その夜、何かが部屋に来た」




 あの夜のことを思い出すと、今でもぞっとする。

 血の滴り落ちる音が耳の奥に残っている。




「俺達は二段ベッドで寝てるんだ。でも、あいつは真っ直ぐに湊のところに行った。何をする訳でもなく、じっと見詰めていた」




 身体は動かなかった。声も出なかった。

 あの日の不自由を思い出すと悔して堪らない。




「その次の日に湊が熱を出した。病院に行ったけど、感染症の疑いは無くて、ただの風邪だって言われた。帰って来て、リビングで二人で寝てたら、それがもう一度来た。ーー今度は、湊の首を締めた」




 航は頭を抱えた。

 数日の睡眠不足と訳の解らない状態による緊張で、精神状態は最悪だ。明るく振舞っている湊が唯一の救いだが、本当は苦しいのだろうと思うと居ても立っても居られない。

 何も出来ない自分が歯痒い。目の前にいたのに。


 自責の念に駆られていると、ソフィアが言った。




「多分、呪詛よ」

「はーー?」

「誰かが湊に呪詛を掛けている。貴方が見たのは、呪詛に引き寄せられた亡霊。呪詛そのものではないわ」




 呪詛ーー。

 不吉な言葉だが、航は懐疑的に思った。

 何か良くないことが起こっているのは解るが、信用に欠けるのだ。航は話の先を促した。




「本来、呪術とは因果関係から外れて願いを成就させるものだとされているわ。ジャングルの奥地の呪い師や、雨乞いの祈祷なんかも呪術よ」




 多分、ソフィアの言う呪いとは、航が思うよりもっと小さな有り触れたものなのだろう。星に願いを込めたり、初詣で祈りを捧げたり、身近な存在なのだ。

 他力本願は自分の本分ではない。奇跡を願って神頼みだなんて責任転嫁も甚だしい。




「その呪術と呪詛はどう違うんだよ」

「相手の死を望むもの、それが呪詛よ」




 血の気が引いた。

 相手の死? じゃあ、今の湊は悪意のある何者かに呪われて、死を望まれている?




「呪詛には詳しくないんだけど、手法として家畜の血を使うものもあるみたいよ」




 やはり、あの時の血か。

 航は苦い思いになる。

 屋外の冷水で洗い流し、病院で抗生剤を処方されても効かなかったのだ。




「どうすりゃいい」




 航はテーブルに手を突いた。

 湊は今もソファで寝込んでいる。ソフィアの言う通りこれが呪詛ならば、このまま湊は衰弱し、死んでしまうのかも知れない。


 何が出来る。

 湊は生まれる前から一緒に育った大切な己の半身だ。小憎たらしくて面倒臭くて腹立たしいこともあるけれど、死なせる訳にはいかない。


 ソフィアは何かを考え込むように目を伏せた。




「術者を探して、呪詛を辞めさせましょう。幸い、湊には何か思い当たる節があるみたいだし……」




 高熱に魘され、湊は不規則な呼吸をしていた。酷く苦しそうだ。


 思い当たる節があるようだったが、人から恨みを買うような性格ではないと思う。通り魔的な悪戯にしては手が込んでいるし、犯人像が全く見えて来ない。


 兎に角、湊から話を聞こう。

 暖炉の火に照らされる兄の苦悶の表情を、航は遣る瀬無い思いで見詰めていることしか出来なかった。

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