⑴トラブルメーカー
Curses return upon the heads of those that curse.
(呪いは呪う人の頭上に帰って来る)
諺
玄関から物音が聞こえたのは、航が夕食のチキン南蛮にソースを掛けている時だった。
呼び鈴は鳴っていない。リビングのソファでは母が洗濯物を畳んでいた。航はエプロンを外し、玄関を見に行った。
扉を開けた瞬間、航は異常な臭気に襲われた。
玄関先から鼻を突くような生臭さと腐臭が漂っている。呼吸どころか、目を開けていることすら困難だった。
生理的な涙が滲み、航は窒息しそうになりながら玄関の扉を開け放った。新鮮な空気が流れ込み、漸く息が出来る。
扉を開いて固定したまま、航は振り向いた。
玄関ではセンサーが反応し、明かりが灯っている。誰かがいたことは確かだが、誰もいない。
航は眉を寄せた。人影が無いことは兎も角として、何なんだ、この異臭は。
洗面所から水音が聞こえた。
何かを洗い流すような絶え間無い水音に、自然と肩に力が入る。ーー先日の幽霊屋敷の一件が脳裏を過ぎる。
まさか。
航は傘立てからビニール傘を一本引き抜いて、洗面台へ向かった。
水音は止まない。
まるで何かに急き立てられているかのようだ。
洗面所に近付くに連れて異臭は増して行く。食道から胃液が逆流しそうだった。
航は傘を構えながら、洗面台へ一気に身体を滑り込ませた。
洗面所は真っ暗だった。洗面台に誰かが立っている。一心不乱に顔を洗うその様は、何かに取り憑かれているかのようで不気味だった。
航は溜息混じりにその名を呼んだ。
「……湊」
ぱっと明かりが灯った。
洗面台に向かっていた湊が、びくりと肩を震わせる。航はほっと胸を撫で下ろし、入り口に凭れ掛かった。
泥棒や幽霊の類でなくて良かった。緊張感が抜けて怠さすら感じる。航は人騒がせな兄を追求しようとして、言葉を失った。
血だ。
鏡に向かう湊は、まるで頭から血を被ったかのように真っ赤に染まっていた。
LEDの青白い光に照らされ、血塗れの身体がてらてらと光る。衣服から落ちる血液が床に点々と丸く広がっていた。
頬に血を浴びた湊が、軽薄に笑った。
「ただいま」
2.因果応報の理
⑴トラブルメーカー
まだ雪も溶け切らない春先に、屋外で水浴びをする。冷水を頭から被る湊は、痙攣のように身体を震わせていた。
犬だってこんな季節に屋外で洗わないだろう。拷問染みた行為を終え、湊は腰にタオル一枚巻き付けて漸く帰宅が許された。
玄関は相変わらず異臭が酷かった。
血塗れで洗面所に来たものだから、廊下まで臭い。母が鼻を摘みながら掃除をしたが、異臭は中々消えなかった。
屋外で水浴びをした湊は、そのままシャワーを浴びた。航はゴム手袋をして湊の着ていた服を処理する。腐った血の臭いだ。
顔色を戻した湊がリビングへやって来たのは、午後九時のことだった。夕食のチキン南蛮はとっくに冷めて、航も母も食欲は失せていた。
結局、湊が三人分のチキン南蛮を平らげ、航と母は月見うどんを食べた。食卓は疲労感が漂っていた。
臭気が引いて空腹が満たされた頃、母が漸く事の経緯を問い掛けた。苦渋に満ちた顔付きは、まるで自分が叱られているかのようで居心地が悪くなる。
湊は困ったように小首を傾げた。
「解んないんだよね。歩いてたら、いきなり」
呑気な返答に、航は母と盛大な溜息を吐いた。
湊は血塗れだったが、無傷らしかった。あの異常な臭気はどうやら獣の血だったらしい。湊が言うには帰路を辿っていた時、見知らぬ男にいきなりバケツ一杯の血を掛けられたらしい。
流石に看過出来ず、航は立ち上がって湊の腕を引いた。母が固定電話から病院へ連絡する。
微睡む湊をバイクの後部座席へ乗せ、大学病院の夜間診療へ向かった。
喧嘩を吹っ掛けられて怪我をしたと言うのなら、まだマシだ。だが、危害を加える訳でもなく、ただ血を浴びせるという不可解な行為で、最も警戒するべきは血液媒介感染症である。
廃棄処分するつもりだった血塗れの服も、一応持って来ている。血液感染を狙った通り魔の可能性があった。これが無差別ならば犯行は続くかも知れない。医師も事態を重く受け止めて警察へ通報するよう促した。
検査結果を待つ間に母がやって来て、湊に付き添った。航は側を離れて葵君へ連絡を入れた。海外出張中の父は連絡が取れないので、何かあった時には葵君を頼るよう言い付けられていた。
葵君が到着したのは午後十一時半、丁度、検査結果が出た時だった。医師はカルテを見ながら穏やかな口調で陰性を告げた。その言葉を聞いた瞬間、航も母も気が抜けて、その場に座り込んでしまった。
悪戯にしては手が込んでいる。湊は検査入院となり、事態に付いて行けていないような淡白な顔付きをしていた。
血塗れの服は葵君が預かり、結果が解り次第連絡をしてくれることになっている。航は母をバイクに乗せて帰宅してから、不安な気持ちでベッドに入った。
血液媒介感染症の中には完治や治癒が困難で、生涯その疾病を抱えて行かなければならないものもある。
空になった一段目のベッドを思うと、胸が苦しくなり、結局、朝まで眠れなかった。
翌日、食事も取らず朝一番で病院までバイクで向かった。
湊の病室は南向きの角部屋で、殆ど隔離状態だった。白いベッドに横たわる湊が青白い顔をしていたので胸がドキドキした。目を覚ましても口数が少なく、何処か覇気が無いので嫌な予感ばかりが募る。
味気無い病院食を淡々と食べる湊の横で、航は購買で買ったサンドイッチを食べた。
検査結果は相変わらず陰性だった。退院が許され、二人で病院を出る。太陽が眩しく、くらくらした。
昼過ぎに帰宅し、母と三人でカルボナーラを食べた。三回おかわりをした湊を見てから、航は漸く安心した。
葵君から家の固定電話に連絡が入った。
神妙な顔で相槌を打つ母を横に、湊はソファで科学雑誌を読んでいた。昨晩の疲れがどっと押し寄せて来て、航は転寝をしていた。
気が付くと空は赤く染まっていた。
寝る前と同じ姿勢で読書に勤しんでいた湊は、航の覚醒に気付くと本を閉じた。
「分析結果が出たよ。あれは人の血じゃなかった」
「何だったんだよ」
人じゃなかったとしても、恐ろしい感染症はある。
航が睨むと、湊はちょっと困ったような顔をした。
「家畜」
「家畜?」
航が復唱すると、湊は頷いた。
「そう。お肉屋さんで手に入るような牛とか豚の血」
「何で」
「知らないよ。ストレスが溜まってたんじゃないの」
他人事のように湊が言う。
葵君は、通り魔ではないかと考えているらしい。
傷害を負わせることではなく心理的ダメージを狙う手口は悪質で、回数を重ねて行けば人の血を使おうとする可能性がある。そうなって来ると悪戯では済まない。
航にとって問題なのは、湊が狙われたのか、偶々其処に居合わせただけなのかということだった。
湊は寮生活をしているので、普段はこの地区にいない。怨恨によるものならば、態々此処まで追い掛けて来たことになる。
犯行がエスカレートした時、危険に晒されるのは湊だけではない。航は兎も角として、此処には母もいる。
航の懸念が何処まで伝わっているのかは解らない。
湊は今回の騒動に興味が無いらしく、分析もしない。
ふっと嫌な可能性が過ぎり、航は零した。
「親父のこと、関係あるかな」
「無いでしょ」
湊が噴き出して笑った。
自分達の父の仕事は特殊だ。人道援助と言えば聞こえは良いが、穿った見方をすれば他国の戦争に過干渉していることになる。
航は、父がどの程度の地位にいて、どの程度の機密情報を抱えているのか解らない。身代金目当ての誘拐をされる程に裕福ではないけれど、機密情報を狙った他国の諜報員が襲って来る日もあるかも知れない。
何処のSF映画だよ、と航は自嘲した。
湊が噴き出すのも解る。
「そういえばさ」
湊は態とらしく手を打って、ソファの脇からノートパソコンを取り出した。
ハバナのエメラルドグリーンの海が鮮やかに映る。タッチパッドを指でなぞり、エクセルを起動する。
「ルーカス氏の一日のスケジュールを調べたんだ。死亡推定時刻は曖昧なんだけど」
ディスプレイにはエクセルの表が映し出されている。
ルーカス氏の一日の予定が公私別に色分けしてあった。どうやって調べたのかは疑問だが、入院中、余程暇だったのだろう。
航はざっと見て、虚しく思った。
「仕事人間だったんだな」
仕事の予定は青、私的な予定は赤。
円グラフの98%は仕事だった。
「家族は?」
「妻が六年前に他界、娘が一人」
「いくつ?」
「九つ」
母を亡くしたのは五歳の頃だ。
湊が調べた情報によると、ルーカス氏は妻を亡くしてから仕事にのめり込むようになったらしい。
事件の概要しか知らない自分達は、ルーカス氏の人物像や家族のことまで考えて来なかった。情報不足なのだ。自殺に至った経緯も知らない。
本当に自殺なのか?
航は疑問に思った。警察は状況を見て自殺と断定しているが、湊はタイミングが不自然だと指摘していた。ソフィアはルーカス氏の霊が殺されたと証言していると言う。
航は衝動的な自殺も有り得ると思っていた。けれど、娘の存在が引っ掛かる。
警察の判断を遺族はどのように受け止めているのだろう?
しんみりとした空気になり、湊が明るく言った。
「明日、関係者に話を聞こうか。ソフィアにも」
「ああ」
航は短く言った。
どんな理由であっても、人が死んでいるのだ。真摯に取り組んでいかなければならない。
二人で翌日の予定を立てた。
航は丸一日クラブチームの練習があったので、湊が単独で関係者へ聞き込みに行くことになった。練習が終わるのは午後八時。翌日の練習は午前中で終わるので、二人でソフィアに会うことにした。
入眠の為にベッドへ入る。
二段ベッドの下から寝息が聞こえた。心地良く体が怠かった。瞼が重く、航は酷く穏やかな気持ちで眠りに着いた。
何処か遠くで、水音が聞こえた気がした。
雨でも降っているのだろうか。夢現のまま、航はそっと瞼を開けた。遮光カーテンの隙間から月明かりが差し込み、部屋の中は薄闇に包まれている。
ぽたん。
湊の寝息に混ざって、水滴の落ちる音。
粘性のある液体が滴り落ちるようなーーまるで、血のような。
ぽた……ぽたん。
航は目を開けた。
その瞬間、酷い臭気に頭がくらくらした。
部屋の中が異様に臭い。腐った生ゴミを数日放置したかのような異臭だった。
ぽた……ぽた……。
身体が動かなかった。意識は覚醒しているのに、声が出ない。必死に抵抗しているのに、見えない手が押さえ付けているみたいだ。
水音が近付く。第六感が非常警報を出している。
何だ?
何かが、ーーいる?
寒い。寒くて堪らない。
吐く息が白く、歯の根が合わずにがちがちと鳴った。
ぽた……ぽた……ぽたん。
止まった。
航は音の方向へ視線を向けた。そして、暗い井戸の底へ突き落とされるような恐怖に襲われた。
頭が見える。
誰かいる。二人しかいない筈の部屋の中に、見知らぬ誰かが立っている。
冷や汗がどっと噴き出した。
刺すような顫動が身体中を駆け巡り、何も考えられない。
しゃがみ込む気配がした。
何かを見ている。ねっとりとした不気味な空気が部屋の中に充満し、叫び出したいのに声が出ない。
何か見ている。二段ベッドの下ーー湊だ。
直感すると同時に、航は恐怖と不自由さに気が狂いそうになった。
湊!
航の声にならない声が届いたのか、ベッドの下から魘されるようなくぐもった声がした。
何かは、湊の声に反応したのか動きを止めた。まるで、起きるのを待っているかのように。
湊はそのまま眠ったらしかった。何かは暫く湊を凝視し、諦めたのか霧のように消えてしまった。
其処で漸く航は手足の自由を取り戻した。
激しい運動の後みたいに全身に汗を掻いていた。身を乗り出してベッドの下を覗き込む。最後に見た時と変わらず、行儀良く湊が眠っていた。
航は大きく息を吐き出して、その場に蹲ってしまった。心臓が煩い。手足が冷たい。だが、湊の寝息を聞いていると不安は氷のように溶けてしまった。
夢だったのかも知れない。眠ってしまおうと布団を掛け直し、航は戦慄した。部屋の入り口から点々と黒い染みが続いている。それは自分達のベッドの前で大きな水溜りを作っていた。
希望的観測を粉々に打ち砕く凄まじい絶望感に包まれ、結局、朝日が昇るまで一睡も出来なかった。