エピローグ
母国の空は何処までも透き通り、白い太陽が暖簾を作る。東京都羽田空港は旅行客でごった返し、まるでお祭騒ぎだ。
身一つで海を渡ったヒーローの息子を連れ、葵は先を急いだ。人混みが嫌いだった。母国が嫌いだった。空港が嫌いだった。
この場所にいると自分の愚かさを思い出し、いつまでも戒めたくなる。この地には良い思い出が一つも無かった。
神様の依怙贔屓みたいに綺麗な面をしたヒーローが、無用な注目を集める。行き交う人が振り返り、遠くから指差し囁き合う。余りに声を掛けられるので、売店でツバ付きの帽子を買って被せてやった。効果があったのかはよく解らない。
湊は静かだった。元々、無意味に騒いだり、反発したりしない子だ。雑踏の中で聞かれる異国の言葉に耳を澄まし、少しでも言語を認識しようとしているようだった。
彼の父は言語学が不得手で、大学の頃は赤点と追試の常習犯だった。対して湊は英語の他にドイツ語やスペイン語を身に付けているらしいが、この国の言葉は無駄に難解である。
空港の出口が前方に見え、葵は息を漏らした。件の殺し屋とは駐車場で落ち合う約束だった。
葵の知る殺し屋はどうやら引退したらしい。今回やって来るのはその後継者で、葵もまだ会ったことが無い。
建物の外は茹だるような熱波に包まれており、日差しが痛いくらいだった。息苦しさすら感じる酷い湿気に躊躇すると、湊が帽子の下で笑った。
広大な敷地の一角、数え切れない程の乗用車が無法地帯みたいに走って行く。この国の治安は随分と悪くなったのかも知れないと思うと、一抹の不安が過ぎる。
「ねぇ、葵君」
悪戯を思い付いた悪童みたいな顔で、湊が言った。良い予感はしなかったので応えずにいたが、湊は勝手に話し始めた。
「葵って、花の名前らしいね」
そういう名前の植物があることは知っているが、興味も無かった。自分の名前の由来を両親に尋ねたことも無いし、もう訊く術も無い。
「俺の名前は船着場。航は海や空を越える乗り物」
言葉遊びみたいに湊が嬉しそうに言った。
これまで英語圏で暮らして来た彼は、自分の名前の由来を言われてもピンと来なかっただろう。
「この国の言葉には一つ一つに由来があって、祈りが込められてる」
「祈り?」
「うん。俺達はそれを、呪いと呼んでいたけど」
相変わらずよく解らない子供である。
脳の容量が大きいと、無駄な思考にリソースを割くらしい。
葵は顎から滴る汗を拭った。
米国は初夏だったが、此方は異常気象なのか真夏並みに暑い。
「ねぇ、葵君」
機内では殆ど口を開かなかった癖に、やけに饒舌だ。
葵が振り返ると、斜め下から湊が言った。
「航を助けてくれてありがとう」
マーティンに襲撃された時のことだろうか。
あの時のことを思い出すと今も心臓が冷たくなる。マーティンは航を殺すつもりだったし、恐らく、航もそれを覚悟した。葵が間に合ったのは奇跡だった。
帽子のせいで表情は見えない。
口調は軽やかなのに、湊の周囲だけ温度が異なるかのように静かだった。葵が口を開き掛けた時、携帯電話が震えた。
着信だ。葵が応答して顔を上げると、少し先に黒いTシャツを着た男が立っていた。携帯電話を耳に当て、此方を向いて手を振っている。
スピーカーから聞こえた声は低く落ち着いている。
男は勝手に通話を叩き切り、軽い足取りで歩み寄って来た。
一見すると何処にでもいそうな若い男である。
二十代後半くらいだろうか。すっと背が高く、髪は短い。医療用の眼帯が異様に目を惹く。色白で幸薄そうな顔立ちながら、眼光は猛禽類を思わせる程に鋭かった。
「神木さん?」
母国の言葉で、男が問い掛ける。
葵が頷くと、男は口元を僅かに和らげた。
「先代から話は聞いてますよ。ーーで、そっちが噂のヒーローの息子さん?」
通訳が必要だろうかと葵が口を開く前に、湊が肯定した。
湊に限って解らないまま返事をしたなんてことは無いだろうが、葵は不安を拭えなかった。葵の躊躇も逡巡も置き去りにして、男は湊の顔を覗き込んだ。
足音が無かった。予備動作も。
男は湊の帽子のツバを指先で弾くと、俄かに目を見開いた。
「……こんな顔してたんだな」
どういう意味?
湊が英語で返したので、男は面食らったようだった。
東洋の顔立ちで少女のような印象を受けるのに、英語を話す少年なのだ。大人しそうに見えるが、行動力が尋常じゃない。しかも、笑顔は人懐こいのに他人に心を許さない。
一言で言うのなら、扱い難い子供である。
しかし、葵にとっては命よりも大切な子供だ。
「日本語は話せるのか?」
男は眉を寄せた。
葵は答えを迷った。解らないのだ。自分の知る情報が最新である保証も無いし、彼等の家庭環境で何処まで日本語が使用されていたのかも解らない。
「両親は日本人だが、普段は英語だった」
「いざという時、逃げろとか伏せろとか、通じるのか」
葵は舌打ちした。この男の言うことは尤もである。
「そういう状況にしない為に、お前に依頼したんだ」
「ガキのお守りは契約内容に無いぜ」
男は湊を見遣り、溜息を吐いた。
「俺の仕事はボディーガードじゃねぇぞ。こいつに脅威が迫った時、凡ゆる手段でそれを殲滅することが俺の仕事だ」
湊はこのやり取りも何処まで理解しているのだろう。
葵は男を睨んだ。
「相応の対価は払う。俺もリスクを背負っているしな」
「……現役のFBIから言われると、重みが違うな」
男は苦く笑うと、湊の頭を撫でた。
湊がくすぐったそうに微笑む。幼い頃と変わらない無邪気な笑顔だった。それを見ると、側で守ってやれない自分の無力さや、成長を見られない悔しさに叫び出したくなる。
この子は宝で、未来で、希望だ。
幾つも取り零して来た自分に残された唯一の救い。
湊と航が産まれた時、葵はこの子達の為に何でも出来ると思った。命を懸けて守る価値があると、今も信じている。
だから。
「傷一つ付けるな」
男は軽薄に笑うと、肩を竦めた。
「姫かよ」
「或る意味な」
まあ、良いさ。
男はそう言って、背後の車を指し示した。
埃を被ったBMWが鈍く光る。湊は男に促されるまま、歩き出す。
他に方法は無かったのか。
最善を尽くしているのか。
この男を信じていいのか。
後悔も不安も無くならない。湊が車に乗り込む刹那、振り返って笑った。
「心配しなくていい」
どうして、そんなことを。
機能しない筈の涙腺が緩みそうになる。葵は拳を固めた。
湊が綻ぶように笑った。
「この世の終わりじゃない」
後部座席に乗り込んだ湊が、車窓の向こうから手を振っている。子牛が売られて行くような物悲しさと、敵の本拠地に送り出すような遣る瀬無さを噛み締めながら、葵は自分の弱さを呪った。
この子を自分の手で守ってやれないことが歯痒い。その成長を間近で見られないことが苦しい。それでも笑って旅立とうとする湊がいじらしくて、言い訳や弱音の一つも聞いてやれなかったことが情けなかった。
エンジンが低く唸る。
葵は絞り出すようにして言った。
「いってらっしゃい」
送り出すなら、迎え入れる準備を。
居場所があることを、帰りを待っていることを伝えなければ。
車窓がするすると下りて、湊は白い歯を見せて笑った。
「いってきます」
さよならではなく、また会うことを約束して。
車が走り出す。
その排気音が消えるまで、葵はその場で見送った。
エピローグ
BMWの喘鳴に、蝉時雨が微かに聞こえる。
シートを突き破ったスプリングを避け、湊は遠い母国に想いを馳せた。瞼の裏に浮かぶ家族や友達の顔が懐かしく感じるのは、海を渡ったせいだろうか。
時差のせいで思考が不明瞭だ。
湊は車窓に額を預け、流れ行く景色を眺めた。
長閑な田園風景を横切る無機質な高速道路、野兎のように擦り抜けて行くバイク。エアコンの冷たい風に煙草の臭い。
ハンドルを握る男の後ろ姿を見遣る。
視線に気付いたのか、男が名前を問うた。
事前に聞いている筈だ。
会話が億劫で、湊は短く名乗った。男は相槌の一つも打たず、前を向いたままだった。
名前を訊くべきだろうかと考えたが、結局、止めた。使い慣れた英語を和訳するのが面倒だった。
日常会話は出来る。だが、この国は言葉に他意を含ませて空気で察することを暗黙の了解としており、全く意味不明で非効率的である。
「ミナ」
男が言った。
どうやら、自分のことらしい。確かに本名で呼ばれるよりはマシだ。
「お前の親は狂ってるな。息子に脅威が迫っているからって、殺し屋に預けるなんて」
「そうだよ。狂人なんだ」
湊が答えると、フロントミラー越しに目が合った。
貫くような鋭い視線だった。金色の双眸はこの世の地獄を見て来たかのような凄みがあり、まともな人間でないことは察せられた。
「日常会話は可能なのか?」
「回りくどくなければ」
湊が答えると、男が楽しそうに笑った。
何が面白いのかはよく解らない。
「契約内容は聞いていたな? 制限についても」
「うん」
「どうしてその条件を呑んだ? お前の目的は何だ?」
湊は少し考えてから、答えた。
「切り札が欲しい」
男が復唱する。
湊は言った。
「何も成し遂げられなかったから」
男は興味も無さそうに頷くと、また無言になった。
静かな車内にエンジンの音が響き渡る。特に話すべきことも無かったし、この場で尋ねることも思い浮かばなかった。
車は緩やかに加速車線へ移動し、法定速度のぎりぎりに達した。荒いように見えて繊細で、安定している。そういうところが弟に似ていて、嫌になる。
男が問い掛けた。
「何の為の切り札だ」
答えは浮かんでも、翻訳が難しい。
湊は四苦八苦して答えた。
「守る為に」
何を、とは問われなかった。
青いねぇ、と男が笑った。理解するまでのタイムラグで感情は凪いでいた。弁解も説明も不要だと思った。
「さっき、この世の終わりじゃないって言ってたな。味方のいないこの状況はお前にとって不本意そのものだと思うが?」
男が少し早口になると、翻訳に思考が渋滞してしまう。日常会話は出来ると高を括っていたが、支障があるかも知れない。
「地獄にも花が咲くことを知ってる」
大口を開けて男が笑う。
左隣から滑り込んだ車がハザードランプを点滅させるのが見える。男は片手間に応えた。
「気に入った。お前がどんな花を咲かせるのか、楽しみだ」
湊は答えなかった。
取り繕える言葉に意味を見出せない。人格を形成するのは行動であると信じている。此処で折れるならばその程度だったというだけの話だ。
ハンドルを握っていた男の左手が、医療用の眼帯を外す。日輪を思わせる金色の右目の下、何かの刺青が見えた。
獲物を前に滑空する群青の鳥に見える。鷹か鷲か。
そういえば。
男が言った。
名乗っていなかったな、と。
「お前の唯一の味方さ」
その言葉に嘘は無いようだった。
湊は再び車窓に視線を向けた。
「貴方が守るに値する人間であるように、努力するよ」
乾いた笑いが聞こえる。
何だか可笑しくなって、湊は突き抜けるような蒼穹に拳を向けた。
 




