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ハロー、マイヒーロー!  作者: 宝積 佐知
15.宴の始末
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⑹踏み出す一歩

 駐車場に見慣れた黒いボックスカーが停まっていた。

 航が近付くと窓がするすると降りて、不機嫌そうな仏頂面が現れる。


 自然と体が強張って、背中が丸くなる。運転席から顔を覗かせたリュウが「乗りますか」尋ねたので、頷いた。


 後部座席に乗り込む。いつもの電子機器はごっそりと無くなっていた。




「留学するそうですね」




 情報が早い。

 航が黙っていると、リュウが言った。




「お父様から伺っています。行き先は教えられないけれど、安全は保証するとも」




 航は腕の中の花束を見遣り、黙った。

 リュウに宛てた花は無かった。研究室の仲間で最も親しく付き合いが長いだろうリュウにメッセージが何も無いというのも、湊らしかった。


 それを信頼と受け取ってくれる仲間だ。

 裏切られても、信じて良かったと思える関係。湊の願いは確かに叶えられていた。




「……初めて湊に会った時」




 ぽつりと、リュウが言った。




「日本人嫌いの僕を叱ったんです。思い込みで初対面の人を否定するな、と」




 リュウの日本人嫌いは、第二次世界大戦の生き証人である祖父に起因するという。戦時中、植民地として支配されていた祖父は、虐げられた過去から日本人を憎み、孫の代までその恨み言を語った。


 何を持って人を区別するのか航には解らないが、自分達は生まれも育ちもアメリカで、戸籍もこの地にある。両親が日本人という意味ではリュウの祖父が恨む対象になるのかも知れないが、孫である彼には最早何の関係も無いことだろう。




「彼の言った内容は、僕にとっては余り意味が無かった。ただ、彼が怒っている姿が子供みたいで、母国に残して来た弟達に見えました」




 子供の癇癪と思われていたらしい。

 湊が聞いたら怒るだろうか。それとも、笑うだろうか。




「恵まれない体躯でバスケットボールに打ち込んでいるところも、大きな相手に立ち向かって行くところも、相手の身を案じて自分を軽んじるところも、走り出したら止まれないところも、放って置けなかった」




 リュウの気持ちが自分のことのように解る。

 航は俯いていた。頭の上で聞こえるリュウの声が、まるで夢現に聞いた子守唄みたいだった。




「僕の世界は狭くて、閉じていました。湊を守っているつもりで、いつの間にか僕は外へ連れ出してもらったんだと思います」

「……湊の世界だって、狭いぞ」

「ええ。だから、外へ行くのでしょう」




 あの研究室は居心地が良くて、温かくて、狭かった。彼等の作り上げた箱庭は幻だったのか、それとも。




「送りますよ。行きたいところがあるのでしょう?」




 リュウは笑っていた。それは、航が初めて向けられる晴れやかな笑みだった。







 15.宴の始末

 ⑹踏み出す一歩







 人生には、子供が大人になるまでの猶予期間がある。


 モラトリアムと呼ばれるその時期に人は悩み、間違えることが許される。そして、自分達はその真っ只中にいて、社会を迎合したり、適応したり、反発したりして自己確立をして行く。


 航と湊が進学の際に飛び級を決めた時、両親は余り肯定的では無かった。子供時代が短くなるのは、将来的な損失になるのではないかと懸念したそうだ。

 だが、航は早く大人になりたかった。守りたいものや貫きたいもので頭が一杯で、未来の損失なんて考えなかった。きっと、湊もそうだったのだろう。


 リュウの車に乗って数十分後、航はリーアムとリリーの家を訪れた。車内は不思議に静かで、心地良かった。


 二人は在宅だった。

 呼び鈴を鳴らして出て来たのはリーアムだった。出掛ける寸前だったと苦笑する彼の後ろにはリリーが立っていて、その手には花束が抱えられていた。

 曰く、両親の墓参りに向かうらしい。タイミングが良かったんだか、悪かったんだか解らない。




「珍しい組み合わせだね。湊はいないのかい?」




 純粋な笑顔で、リーアムが問い掛ける。

 航が答えを迷っている間に、リュウが曖昧に肯定した。




「湊は留学することになったんだ。暫く会えねぇ。代わりに、これを」




 花束が被っちまったな、と航が視線を落とすと、リリーが「綺麗ね」と微笑んだ。

 二人は花束を嬉しそうに眺め、航には何の追求もしなかった。彼等の周りは時が穏やかに、ゆっくりと流れているように感じられた。


 白と橙色を基調に纏められた鮮やかな花々に彩られながら、彼女はとても美しかった。それはまるで完成された一つの絵画のようで、この場にいられなかった兄が不憫に思える程だ。


 花束に込められた意味があることを知ってから、航も車の中で花言葉を調べた。


 白いダリアとカスミソウは、感謝。

 SLCに拉致され、沈む船から救出された湊は呼吸が止まっていた。その場に駆け付けたリリーがPKで心配蘇生を試みて、湊は呼吸を取り戻したのだ。


 白い百合の花は、純潔と威厳。

 困難の中にあっても絶望せず、笑顔を絶やさなかった彼女の強さに対する賞賛だ。


 黄色の沈丁花は、不滅。

 橙色のサンダーソニアは、祝福と祈り。

 二人の穏やかな生活を祈る、湊なりの感謝なのだろう。


 この世の不幸や悲劇を濾過して、綺麗なものだけを詰め込んだような、何処か空々しい、虚しく、美しい花束だった。けれど、湊はきっと、彼女にそういうものを与えたかったのだろう。


 リリーは家の中に引き返してマグカップを取り出すと、花束を丁寧に活けた。花の寿命は短い。湊の祈りも願いもいつかは思い出として風化するだろう。ーーだから、なのか。


 だから、花だったのか。

 リリーは玄関の靴箱に花を飾ると、小首を傾げて問い掛けた。




「航も会えないの?」

「……当分は」

「そう……」

「何か、俺に出来ることはあるか」




 湊とリリーがどういう関係なのかは解らない。名前の付くような関係に至らなかったのかも知れない。未来があるのか、綺麗な思い出なのかさえも。


 リリーは少しだけ考えるような素振りをして、笑った。




「じゃあ、湊に会えたら伝えて」




 リリーが言った。




「貴方は私のヒーローだった」




 必ず。

 航は拳を握った。

 必ず湊に伝える、と。




「私は貴方の味方よ。例え、側にいられなくても」




 唸るように、航は返事をした。

 今頃、湊は空港にいるのだろうか。それとも、もう空の上か。到着したその地に何が待ち受けているのか航には想像も出来ない。


 だから、願うしかない。

 湊が願ったように、自身にも祝福が与えられますようにと。


 墓参りに向かう彼等には付き添わなかった。

 航は信仰すべき神を持っていなかったし、彼等の亡き両親に伝える言葉も無かった。


 リュウが送るというので、自宅に戻ることにした。

 リビングには両親がいて、静かで平和な日常がある。兄がいなくても地球は回るし、時間は進む。失われたものは戻らないし、過去は変えられない。


 遠い地では血を血で洗う紛争が続き、人々は飢餓に喘ぎ、子供はヒーロー番組を見て義憤に駆られ、食卓には笑いが溢れる。


 航は知っている。

 父がいなくなった時、航の世界には皹が入った。それでも世界は進み続けた。


 母がリュウを食事に誘った。だが、リュウは静かに辞退し、立ち去った。彼がこの家に来ることはもう二度とないだろうと思った。


 自室に行くと、湊の荷物はそのままになっていた。どうせ検品済みなのだろう。机の上に残された写真立てを手に取り、眺めていた。


 兄と大切な仲間達の思い出だった。何と無く気になって、航は写真を取り出してみた。

 写真は二枚重なっていた。下から出て来たのは、記憶に無いくらい幼い頃の自分達の写真だった。


 顔を見れば喧嘩して、流血沙汰の殴り合いをして、仲直りの代わりに互いの手当てをして。ーーけれど、色違いの服を着て、泥塗れで無邪気に笑う自分達は、確かに血を分けた双子の兄弟だった。


 航は自分の首元を探った。

 父の土産である天然石の欠片が、華奢な鎖に繋がれている。兄はターコイズを、自分はラピスラズリの欠片を貰った。あれはきっと、今も湊の元にあるのだろう。そう思うと、何故だか心が安らいだ。


 階下からインターホンの音が聞こえたので、航は写真を戻してリビングへ向かった。母が玄関で何か楽しげに話している。父は航を見ると、何事も無かったみたいな顔で微笑んだ。


 玄関から戻って来た母は、客を連れていた。

 ソフィアだった。本来の気の強さは何処へやら、借りられて来た猫みたいに大人しくしている。


 母がキッチンに向かったので航は少し迷ったが、ソファに座った。怪我人の自分に出来ることは無い。


 父が湊の不在を伝えると、ソフィアは項垂れた。

 母は客用のカップとダージリンを持ってリビングに戻り、ソフィアの前に出してやった。


 ソフィアは呟くように礼を言うと、航を見上げた。




「寂しくなるわね」

「別に。大学では寮だったんだ」




 条件反射で言い返すと、ソフィアは追求しなかった。




「留学して、湊は何を得るの?」




 そんなの解る筈も無い。

 航が目を逸らすと、父が朗らかに言った。




「それは、帰って来てからのお楽しみさ」




 その物言いは、まるで息子に罰を与える父親ではなく、試練を与える全能者のようだった。

 航は或る可能性に思い至る。湊の留学は、罰ではないのかも知れない。そして、その意味は。


 さて、と言い置いて、父は立ち上がった。




「お客さんが来たことだし、昼食にしようか」




 父は大きく背伸びをした。

 蕎麦にしようか饂飩にしようかと微笑む父に、母が苦笑する。絵に描いたような平穏だ。航は父の背中を睨んだ。




「親父」




 振り返る父の横顔は、此処にいない兄にそっくりだった。航は拳を固め、腹に力を込めた。




「俺達は、親父を超えるからな」




 父はヒーローだった。

 けれど、もう、憧れるのは辞める。

 俺達にヒーローはいらないし、神様も必要無い。こんなところで燻っている理由も無い。




「湊は親父の想像を超えて行くし、俺は踏み台にされるつもりもねぇ」




 ソフィアにも母にも、きっと解らない。

 湊が守りたかったもの、航が貫きたかったこと。自分達は子供で弱かった。だからといって、このまま立ち止まっていては意味が無い。強くなるしかない。




「やってみろよ」




 父だけが不敵に笑っている。

 航は拳を突き出した。互いに無言で拳を当てる。己の心に嘘偽りが無いことを誓うジンクスだった。




「やってやるさ」




 航は鼻を鳴らし、吐き捨てた。


 理不尽と不条理が雨のように降り注ぎ、絶望の泥濘が足を絡め取っても、例え汚濁に塗れ、矜持すら踏み躙られたとしても。


 俺達は、その全てを背負って生きて行く。

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