⑸優しい世界
「本当はね、ずっと怖かったんだ」
少ない荷物を纏め、湊は窓の外を眺めていた。
その横顔は灯火のように明るく、そして、儚かった。航はパソコンチェアに腰を下ろし、言葉の先を待った。
「立ち止まれば、何かを取り零してしまうような気がして……」
湊は超常現象や生命の危機に恐怖を抱かない。目の前に刃が迫っていても、打開の方法を考えて行動する。止まれば呼吸を失う魚のように、前も見えない闇の中を振り返りもせず走り続ける。
そんな湊が怖かったもの。
例えば、悩むこと。迷うこと。立ち止まること。躊躇うこと。まるで戦場の中で生きる兵士のような発想だ。何か一つの過ちが人命に直結するなんてこと、日常では殆ど無いだろう。
湊の心に根を張った恐怖とは、一年前にオリビアを亡くしたトラウマなのだろう。
希望的観測に囚われて選択肢を見失う。
今まで何度も湊が言って来たことだ。人として当たり前の躊躇を恐れた湊は、果たして何になりたかったのだろう。
「そんなの普通のことだろ」
「……うん」
湊は鞄を持って立ち上がった。
荷物は少なかった。本当に必要最低限の荷物だけを持って行くのだろう。あんなに熱心に読まれていた超心理学や医療の専門書は、壁際に虚しく積み上げられていた。
湊の机には、研究室の仲間の集合写真が置かれていた。一年前、オリビアが生きていた頃に行ったキャンプの写真らしかった。
「頼みがあるんだけど」
「いいぜ」
航が即答すると、湊が笑った。
「行き着けの花屋さんに、花束を注文をしてある。俺の代わりに届けて欲しい」
「……薔薇じゃねぇだろうな」
湊が可笑しそうに喉を鳴らす。機嫌の良い猫みたいだ。航は溜息を吐き、机からメモ帳を取り出した。
「誰宛だ?」
「ゾーイと、ホセと、リリーに」
「リーアムは良いのか?」
「俺から花束を貰って喜ぶと思うか?」
確かに、ぞっとする光景だ。しかも、代理で渡すのは自分である。航は顔を歪めて頷いた。
「メッセージカードを付けてもらったから、誰にどの花束を贈るのか解ると思う。俺の居所を知らせるような内容は書いてないから、親父や葵君に見せても良いよ」
「そんなことするかよ」
この後に及んで無意味な悪足掻きをする男ではないだろう。航が吐き捨てると、湊はころころと笑った。
「頼んだよ、航」
それだけ言って、湊は部屋の扉に手を掛けた。
もう自分達の間に話し合うべきことは何も無いのだ。過去が変えられないように、湊の選択は揺るがない。
たった三年だ。産まれる前からずっと一緒にいたから、感覚に慣れるまで少し時間が掛かるかも知れない。
「湊」
呼び掛けると、湊が振り向いた。
こんなことを言うのは柄ではないのだけど、こんな時だから。
胸の内で言い訳しつつ、航は言った。
「お前も、俺のヒーローだったよ」
いつかの兄の言葉を返してやると、湊は白い歯を見せて笑った。それ以上の言葉は何も無かった。湊は小さく手を振って、扉の向こうに消えて行った。
耳が痛くなるような静寂に包まれ、航はベッドに倒れ込んだ。目を閉じると忙しなかったここ数週間の記憶が鮮明に蘇り、何故だか両目が熱くなる。
今生の別れじゃあるまいしーー。
航は拳を握った。
兄の口ずさんだグリーングリーンが聞こえる気がした。
15.宴の始末
⑸優しい世界
朝起きてみると、リビングには母がいた。
退屈なワイドショーを眺めながら、キッチンに立つ父と楽しげに言葉を交わしている。昨夜のことなんて無かったみたいだった。その内、湊が階段を降りて来るんじゃないかなんてーー馬鹿な妄想を振り払う。
父の作ったフレンチトーストを平らげ、航は松葉杖を片手に家を出た。母が車を出そうかと問うたが、断った。
家からバスを乗り継いで二十分。駅の近くにある花屋に顔を出すと、膨よかな中年の女性が出迎えてくれた。ネットで印刷した注文票を渡せば嬉しそうに微笑んで、店の奥へ向かう。
湊は行き着けの花屋なんて言っていたけれど、あの現実主義者の兄が頻繁に花を買うなんて想像も出来なかった。リリーの見舞いの時には病院で買っていたし、一体何の為に花屋に通っていたのだろう。
店員が戻って来た時、その腕には溢れんばかりの花が抱えられていた。余りの量に呆れていると、店員が気を利かせて郵送するかと尋ねた。
とても魅力的な提案だが、航は首を振った。この花を注文した時点で郵送という選択肢はあった筈なのに、自分に頼んだのだ。ならば、其処にはきっと意味がある。
航が松葉杖を突いていたので、店員が車を出してくれた。厚意に甘え、一先ずゾーイとホセが入院している病院を告げると、女性が頷いた。
車内で、女性が言っていた。
「あの子が来るようになったのは、大体一年くらい前からかしら。最近はピンクのネリネを買っていたわね」
ネリネなんてメジャーな花じゃないだろう。
どんな花なのか解らず黙っていると、女性がカタログを手渡してくれた。
項目を開く。彼岸花に似た茎の長いピンクの花だった。花束には向かないような一輪花だ。こんな花を何の目的で湊は買っていたのだろうか。
種付けや開花時期、育て方を流し見ていると、小さな文字で花言葉が記されていた。
その文字を見た時、航は全てを理解した。
忍耐、また会う日まで、幸せな思い出。
その花はきっと、ーーオリビアの墓前に。
堪らなくなって顔を伏せていると、女性が言った。
「最初は紫苑の花だったの。花言葉は、追想。……だからきっと、親しい人を亡くしたんだろうと思ったわ」
航は顔を上げられなかった。
花に込めた湊の覚悟を思うと、涙が出そうだった。故人を偲ぶ湊の思いを、腕の中の花が雄弁に語っている。
腕の中の花は瑞々しく、鮮やかだった。別れの言葉も告げられずにこの地を離れなければならなかった湊が、大切な人に残したメッセージだ。
車が病院に到着する。
航は腕の中の花束を抱き、歩き出した。
ICUを覗くと、中は知らない人が眠っていた。見覚えの無い見舞客の横を抜けると、看護師が声を掛けてくれた。ゾーイとホセは意識を取り戻し、個室へ移されたらしい。
片足を引き摺りながら花束を抱える航を見て、何人もの看護師が声を掛け、助けの手を差し伸べてくれた。航は拒否せず、促されるまま二人の病室へ向かった。
最初に到着したのはゾーイの個室だった。
厳格そうな両親が、航を見て顔を強張らせた。その心中を察せる程、航は敏感では無い。
花束を持っていることに気付いた母親が声を掛けて、父親は漸く表情を和らげた。
ゾーイはベッドの上だった。
頭には厚く包帯が巻かれ、美しかった髪は残っていない。彼女は頭部を撃たれたのだ。生きていることが既に奇跡だった。
「来てくれたのね、航」
ゾーイは花のように微笑んだ。
滑舌や表情から後遺症は感じ取れない。航は後ろ手に扉を閉めた。
母親に椅子を出されたが、断った。一度座ると、立ち上がるのが面倒だった。
「気分は?」
「悪くないわ」
ゾーイとホセの意識が戻ったのは昨夜で、部屋を移ったのは今朝のことらしい。タイミングが良かったのか悪かったのか、航にはよく解らない。
「怪我の具合は?」
「精密検査はこれからなの。でも、生きているだけで奇跡だったって言うんだから、お医者様の腕に感謝するばかりね」
じゃあ、後遺症があったとしても、今の段階では判断出来ないのだ。
航が俯くと、ゾーイが明るく言った。
「お見舞いに来てくれたんでしょ? 湊は?」
兄の名前が出た瞬間、病室には緊張が走った。
当然だろう。この両親にとって、湊は大切な一人娘を巻き込んだ男なのだ。
弁解は出来なかった。この場で自分が何を言っても印象は悪くなる。せめて、と航は花束を差し出した。
「湊は留学することになった。……これ、湊から」
ゾーイは怪訝そうに眉を寄せ、花束を受け取った。
「留学? 随分と急な話ね……」
黄色のビオラと、よく解らない橙色の鈴蘭みたいな花だった。黄色を基調として纏められた花束は、見ているだけで気力を取り戻すような溌剌とした印象を与える。
ゾーイは橙色の鈴蘭に指先を伸ばした。
「ビオラに、サンダーソニア……。湊らしいわね」
独り言みたいに小さな声だった。
どうやら、橙色の鈴蘭のような花は、サンダーソニアと言うらしい。この先、自分では使わないような知識だが、念の為にと航は尋ねた。
「どういう意味があるんだ?」
ゾーイはベッドの横にいる両親を見遣り、見せ付けるように花の匂いを嗅いだ。そして、静かに言った。
「黄色のビオラの花言葉は思い出。サンダーソニアは祝福と祈り。……湊なりの、感謝の言葉じゃないかしら」
祈りだなんて、湊らしくないじゃないか。
航が皮肉っぽく考えていると、石像のように黙りこくっていた父親が口を開いた。
「留学は何処へ?」
「俺には、答えられない」
航の返答に、彼等は大体の状況を察したようだった。賢い家族だ。父親は力無く笑うと、肩を落とした。
「彼と同じように、私達も祈ろう」
そうね、と夫婦は肩を寄せた。
「彼の進む未来が、祝福に満ちていますように」
航は花束を抱え直し、背を向けた。引き止めようとする母親へ丁寧に断り、扉へ手を掛ける。先は長いが、花の寿命は短いのだ。
ホセの病室は二つ隣にあった。看護師の手を借りて辿り着くと、いきなり大柄の男が現れた。
如何にも頭の固そうな大男だった。厳しい顔付きをしているが、その青い瞳は病室の主人を彷彿とさせる。航には、彼がホセの父親であることが解った。
危うく衝突するところだった。彼は航と気付くと、苦々しい顔で手を差し伸べた。
残念ながら両手は塞がっている。彼の分厚い両手を前に会釈すると、部屋の奥からホセの声がした。
「航!」
ホセは機械に繋がれていた。
包帯でぐるぐる巻きにされ、起き上がることも難しそうだった。彼は内臓を損傷したと聞いている。ベッドの側に座る母親らしき女性にも会釈し、先程の反省を活かしてすぐに花束を差し出した。
「湊は留学することになった」
ホセの両目が見開かれる。
追求されても、航には答えられない。ホセは暫し沈黙したかと思うと、花束を受け取って苦笑した。
「急だね。出国の前に会えたら良かったんだけど」
航は言葉を躊躇った。
湊は何度か来ていたが、ホセは意識を取り戻さなかったのだ。彼は昏睡状態の間に起こったことをどのくらい把握しているのだろうか。
そういえば、どうしてこの部屋に両親がいるのだ。絶縁状態だと聞いていたし、この父親もホセを快く思っていなかった筈だ。第一、航とて合わせる顔が無かった。
ホセの父親に促されて、航は椅子に座った。腕が疲れていたし、花束が体温で温まるのは良くないような気がした。
「動画を見たよ」
体が強張った。
動画ーーとは、何の動画だ。
湊がSLCに拉致された時のものだろうか。SNSでは同情的な意見が大半を占めているらしいが、若さ故の行動や青臭い発言を咎める声もあるし、暴行されている湊に邪な感情を持つ人間もいるそうだ。
航が次の言葉を待っていると、彼は言った。
「君のお兄さんは勇敢だったね」
湊が勇敢なことくらい、他人に言われなくても解っている。その裏で、怯えていたことも、航は知っている。
「彼を非難する人もいるけれど、友達の為に力を尽くした彼を、私は心から尊敬する。……もっと大人を頼っても良かったとは思うがね」
返す言葉も無い。
航は俯いた。
「SLCの教主が船諸共自爆しようとした時、彼は身を呈して助けたと聞いたよ。彼は、教主が英霊として信者の中で生き続けるような、最悪の事態を回避したんだろう」
瞼の裏に蘇る。
沈む船。迫る水。失われて行く酸素と川が沸騰するような熱波。傷だらけの兄がどうしてあの教主を助けたのかなんて考えなかった。死にそうな人がいれば助けることが当然だと考える男だったからだ。
「SLCはただの新興宗教じゃない。政治と結び付いたテロ集団なんだ。君のお兄さんを狙ったのは、父親が世界的なヒーローであったこととも関係が深い。恐らく、戦争を望む愚か者が政界にいたんだろう」
ホセの父親は法務省に勤めているらしい。
FBIに所属する葵君なら知っていそうな話だが、彼は多忙の上に人付き合いが希薄だった。湊が何を敵に回してしまったのか、正確に把握していたのは親父くらいのものだろう。
「最悪の事態を何処まで想像することが出来るか。それを回避する為に何をするべきか。……この歳になって、あんな若者に教えられるとは思わなかったよ」
「……」
「彼がそうしたように、私も最善を尽くそう。彼に会ったら、伝えてくれ。ーー息子の居場所になってくれて、ありがとう、と」
航は鼻を鳴らし、立ち上がった。
ホセの母親が残りの花束を手渡してくれた。急がないと萎れてしまう。
部屋を出る前に、ふと思い出して訊いてみた。
「それ、何の花なんだ?」
ホセの花束は、ゾーイとは異なり紫を基調として作られていた。小さな紫色の花がバナナみたいに房になっている。
尋ねてみたが、ホセも花には然程詳しくなかった。代わりに母親が教えてくれた。
「これは、リラの花ね。ライラックとも」
「花言葉とかあるんですか?」
「ええ。花言葉は友情。送別会なんかではメジャーな花よ。青春のシンボルとも呼ばれているわ」
友情。それは柔らかな否定だった。否、残酷な受容だったのかも知れない。
航はそっとホセを見遣った。彼は変わらず穏やかに微笑んでいるだけだった。
湊にとって、ホセは大切な仲間で、友達だった。
ただそれだけのこと。この花束を渡す場面に両親がいることは想定していなかっただろうし、きっと他意は無い。
ホセは透き通るような眼差しで言った。
「僕等は、湊のそういう誠実さを愛していたんだ」
それは、仲間として? それとも、恋愛感情として?
航には解らなかったし、知る必要も無かった。
部屋を出る直前、ホセの父が言った。
「彼は、息子が目を覚ました時、少しでも優しい世界であれば良いと言った。それは私達も同じだ。帰国した時、彼にとって少しでも優しい世界であるように、私達も尽力しよう」
それこそが、私達に出来る最大の恩送りなのだから。
ホセの父は、柔らかな光を瞳に映して、息子そっくりの笑顔で言った。




