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ハロー、マイヒーロー!  作者: 宝積 佐知
15.宴の始末
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⑷未来へ

 濃褐色の瞳は静かだった。迷いも無ければ後悔も無く、ただあるがままを受け入れるように凪いでいる。


 病院を出た時、葵君の車が見えた。

 航は湊へ目配せして、互いに言葉も無く頷いた。そして、湊は一切の躊躇も無く淡々と歩き出した。その後ろ姿は、まるで死地へと赴く戦士のように堂々としていて、航は今にも引き止めそうな自分を堪えるのに必死だった。


 湊は覚悟を決めたのだ。

 待ち受けるものが何であっても、是として受け入れるのだろう。湊が反抗しないことは解っている。


 湊は葵君と一言二言言葉を交わし、振り向いた。その時には至ってフラットな顔付きをしていて、何も無かったみたいだった。




「家に帰る」




 湊はそう言って、車のドアへ手を掛けた。

 既に乗り込んだ葵君が運転席から見詰めている。航は湊の腕を掴んだ。




「どうして欲しい」




 湊は質問の意図を考えるように口元を結んだ。




「お前が逃げたいなら、俺は葵君を殴ったって良いし、誰を敵にしても構わない」




 低く凄めば、湊は可笑しそうに口元を歪めた。

 何が可笑しいのか解らないが、湊はやんわりと航の手を外した。




「戦わずして勝つことが、最上の勝利だよ」




 孫子の兵法を引用して、湊が笑った。




「これは俺のケジメだ」




 そう言って、湊は黙ってしまった。

 その横顔が酷く穏やかで、もう誰にも変えられないということだけが解った。







 15.宴の始末

 ⑷未来へ








 航と湊の生家はニューヨーク郊外の長閑な田舎にあった。豊かな自然に囲まれた町の人々は穏やかで、時間の流れがとても静かに感じられた。


 庭には黄色のマリーゴールドが花を咲かせており、青い芝生は几帳面に切り揃えられていた。水色の玄関扉の前に母が立っている。キンシバイの花に包まれた母は何処か泣き出しそうな悲壮な顔付きをしていて、航はそれを見るだけで胸が締め付けられるように痛かった。


 湊が歩み寄ると、母は両目を赤くして抱き締めた。航はとうにその背を抜いてしまったけれど、湊はまだ母よりも小さかった。彼等の姿は時間経過の外にあるように感じられた。


 母が何かを言いたげに此方を見た。航は応えず、先に家に入った。今は労りも励ましも聞きたくなかった。打ちのめされると解っていながら、期待するのは辛かった。


 リビングのソファに父が座っていた。膝の上に広げられた新聞は異国のものだった。航には解読出来ない。洗面所に向かおうとする湊を制して、父はソファへ座るように促した。


 一家全員が顔を合わせるのは久しぶりだった。緊張感の漂うリビングの外、葵君は壁に凭れ掛かって事の成り行きを見守っているようだった。


 まず、父が口を開いた。




「帰国することにした」




 それは。

 航が問い掛ける前に、父は続けた。




「MSFでの活動を無期限の休止にする。ニューヨークの大学病院で精神科医をすることにしたんだ」




 航は奥歯を噛み締めた。

 喜ばしい筈なのに、手放しで喜べない。父が危険な紛争地で医療援助を続けている理由を知っている。

 湊は目を細めて、問い質した。




「後任は決まっているの?」

「お前に心配される謂れも無いが、大丈夫だ。俺の仲間は優秀だからな」




 父は悪戯っぽく笑った。

 場を明るくする笑顔は昔のまま変わらないのに、奇妙な緊張が肌一面を針のように突く。湊は目を伏せて微笑むと、少しだけ身を乗り出した。




「俺はどうなるの」




 航は拳を握った。

 湊が切り出さなければ、航が訊いていた。父は口角を釣り上げた。




「逸んなよ。何にびびってんだ」

「茶化すんじゃねぇよ」




 航が吐き捨てると、父が冷ややかに見遣った。

 背筋が凍るようだった。一歩でも動けば喉元を切り裂かれるとすら思った。恐らく、父にその意図は無い。


 航は、知っている。

 目の前にいる自分の父が、常識というルールの外にいる存在であることを。自分達が生まれる前から地獄のような紛争地で活動して来た父がまともな神経ではないということを。


 目的の為ならば手段を選ばない非情さも、命よりも家族を優先する愛情深さも、解っている。だからこそ、今回の件に対して父がどんな結論を出すのか全く読めなかった。




「お前、何で相談しなかった? 」




 湊は答えなかった。それはまるで、銃器を前に丸腰で立ち尽くすような無抵抗だ。反発しないことは知っている。湊は、両親に反抗したことが無いのだ。

 航が身を起こすと、隣で母が腕を掴んだ。嫌な沈黙の中、湊が言った。




「俺が傲慢だった」




 航は舌打ちをしたかった。


 傲慢。そうだろう。湊は自分で解決出来ると思っていたし、望んでいた。だけど、それが全てではないだろう。

 仲間を信じたこと。誰も巻き込みたくなかったこと。父の助けをしたかったこと。それ等を傲慢の一言で纏めてしまっては、湊の心の行き場が無いじゃないか。


 父は興味も無さそうに相槌を打つと、不機嫌そうに両目を眇めた。




「傲慢……ね。まあ、俺も同意見だ。もっと早く助けを求めていれば、避けられた不幸もあっただろうさ」

「ふざけんなッ!」




 堪らず、航は叫んでいた。




「湊が悪かったみたいな言い方すんなよ! こいつがどんな思いでーー!」

「テメェには訊いてねぇんだよ」




 地を這うような低い声で、父が恫喝する。

 淡褐色の瞳に青白い鬼火が見える。掌に汗が滲み、今すぐに逃げ出したい衝動に駆られた。だが、航は退かなかった。否、退けなかった。




「親父が湊の何を知ってんだよ! ずっと家を空けてた癖に、肝心な時に側にいてくれなかった癖に、ずっと、黙っていた癖に!!」




 こんなことを言う意味はきっと無い。

 父が帰って来れなかった理由も、黙っていた訳も解っている。湊が何も言い返さないのならば、自分が食い下がる必要も無かった。


 航の怒鳴り声が静かなリビングに反響して、虚しくなる。湊が傷付いたような顔で俯いているのが、何より辛かった。


 兄が何を思ったのか手に取るように解る。

 湊は、自分が何かを言われたことよりも、航がこうして父に反発しなければならない状況に負い目を感じているのだ。それが航には堪らなく苦しい。前にも後ろにも行けない泥沼の中で藻掻いているみたいだった。




「……オリビアが死んだ時」




 ぽつりと、湊が言った。




「俺は間違えたと思った。自分の力を過信して、勢いに任せて突っ走ることしか出来なかった。……あの時、俺は立ち止まるべきだった」




 そんな懺悔は聞きたくない。

 誰も過去には戻れない。起きてしまったことは変えられない。当時の湊には立ち止まる余裕すら無かったのだ。




「俺は子供だった」

「それは、言い訳か?」




 父の冷たい物言いに、航は自分のことのように苛立った。湊が言い訳したことなんて一度も無い。そんなこと、父が誰より知っている筈だ。


 湊が首を振ると、父は深く溜息を吐いた。




「終わったことを蒸し返すつもりは無ぇよ。全部お前が選んだ道だ。オリビアさんのことも、SLCのことも、ライリー君のこともな」

「……」

「なあ、湊」




 父の淡褐色の瞳が湊を覗き込む。




「受け入れることだけが強さじゃねーぞ」




 湊は無表情だった。父の言葉がどのように届き、湊がどう受け止めたのかは航にも解らなかった。




「お前は子供だ。力も弱くて、頭も固い。だから、選択肢を一つ増やしてやる」

「どんな?」

「期待はするな。俺は獣道と茨道しか示してやれねぇ」




 湊の瞳は不思議に輝いていた。透き通る眼差しはまるで夜明けの空に似ていた。

 父は広げていた新聞をテーブルに投げ出した。航に読めないそれは、両親の母国の文字だった。




「母国に、裏世界に精通する知り合いがいる。表向きは留学ということにして、お前を送ろうと思う」

「それは、信用出来る奴なのか」

「どうなんだ、葵?」




 壁に凭れていた葵君は腕を組んだ。




「……少なくとも、敵ではない。受けた依頼はきっちり熟すと聞いているが」

「何者なんだよ」




 航が問うと、葵君は苦い顔をした。




「殺し屋だ」

「はあ?」




 何処が信用出来る相手なんだ!

 殺し屋というものが現実離れしているし、湊自身殺される可能性があるじゃないか!




「蛇の道は蛇だ。暫く身を潜めたい湊には好都合な隠れ蓑だろ」

「だからって、何で!」




 航が頭を抱えると、湊が少しだけ笑った。




「親父や葵君とは、どういう知り合いなの?」

「……昔、和輝が命を助けてやった。当人は引退したらしいから、その後継者だ」




 全くの他人じゃないか。

 安心材料が一つも無い。けれど、湊ばかりが子供のように無邪気に笑うから、航は反論を失くしてしまった。




「いいね、面白そう」




 瞳を爛々として、湊が言う。

 悲壮な覚悟ではない。ただ、純粋な好奇心に胸を躍らせている。湊の明るい顔を見るのは久しぶりだと思った。


 父は苦笑した。




「ただ送り出すつもりは無い。期限はお前が成人して、自分の身を守れるようになるまでだ。それまで如何なる理由があっても、帰国は許さない」




 父は厳しい言い方をしているが、それが湊の安否の為だと解る。


 初めから、そのつもりだったのだ。

 父は湊を生かす為に、許す為に、未来を守る為に、自分の意思を曲げてでも選択肢を作った。そういう父だった。


 いつか、父が言っていた。

 家族以上に大切なものは無いと。




「行くか行かないかは、お前が決めろ。お前も解ってると思うが、此処に留まれば不本意に人を巻き込むことになるぞ」




 成人まで凡そ三年。

 その間、湊はこの地を離れ、名前も顔も知らない殺し屋を頼って生きて行く。


 けれど、それ以上の最良の選択肢を航は提示出来なかった。自分では湊を守れないし、証人保護プログラムでは湊の未来を守れない。




「行くよ」




 火の付いた眼差しで、湊が言った。

 選ぶなら少しでも救いのある方を。諦めではなく、希望の選択を。


 父は僅かに微笑み、咳払いをした。




「表向きは留学だが、お前の行き先は他言無用だ。絶対に、誰にも言うな」

「……一人」




 湊が目を伏せて言った。




「一人だけ、伝えておきたい相手がいる」




 珍しく湊が食い下がる。

 リリーだろうか。それとも、入院している仲間か。

 父は眉を釣り上げた。




「駄目だ。例外は許さない」

「約束したんだ。いつも側にいてくれた大切な友達と。俺が黙って消えたら心配する。だからせめて、無事であることを教えたい」

「情報を発信すれば、お前の居所が割れる。その友達も危険になるぞ」




 いつも側にいてくれた友達ーー。

 成る程、リュウか。

 思えば、航が側にいられなかった時、いつも湊を守り、案じてくれたのは彼だった。湊が黙って消えたら心配するだろう。




「遣り取りは暗号化して俺が仲介する。……いいだろ? 数少ない湊の理解者だ」




 父は困ったように眉を寄せた。

 厳しいようで詰めの甘い父が、急に人間味を帯びて見えた。熟、湊にそっくりだ。




「例外を一つ認めると、隙が出来る。たった三年の辛抱だろ。聞き分けろ」

「親父にとっての三年が、俺達と同価値だと思うなよ」




 父は虚を突かれたように目を丸めた。葵君と母が吹き出すように笑って、いつの間にか緊張感は粉々に砕け散っていた。




「兎に角、例外は認めない。……尤も、今話したのは俺からのルールだ」




 つまり、抜け道は自分で探せということだろう。




「別れを告げる時間はやらない。一刻を争う事態なのは変わらないんだからな」

「解ったよ」




 お前が。

 父は言った。




「お前が、弟に庇われたことを屈辱と思えるまでは、帰って来るな」




 なんだ、そりゃ。

 航は腹を抱えて笑いたいような、眦を釣り上げて怒り出したいような奇妙な心地だった。


 幼い頃の自分達は、対等だった。

 些細なことで苛立って、言葉より先に手が出た。互いに加減というものを知らなかったので、いつも血塗れだった。

 それがいつしか拳を握らなくなり、物理的な距離が離れ、湊は言い返さなくなった。航は、自分が変わったのではないと思う。湊が、大人になったのだ。




「葵がFBIのジェット機をチャーターしてくれているから、すぐに出発する。俺達は見送れない。さっさと荷物を纏めて来い」

「ああ」




 湊の私物は少ない。普段は大学の寮生活だが、先日の事件のせいで殆どが証拠品として警察に押収されてしまっているのだ。




「必要なものは後で送ってやるから、今は最低限の荷物で済ませろ」

「携帯は?」

「置いて行け。パソコンもだ」

「解った」




 湊は快活に返事をして、二階への階段を駆け上がって行った。微かに聞こえる足音に耳を澄まし、航は兄がこの家にいたという記憶を脳に刻み付ける。

 最低、三年。兄は此処へは帰って来ない。遠い異国の地で生きて行くのだ。その意味が解らない程、愚かではないつもりだ。


 湊が狙われる以上、航にも危険はある。

 その為に父は帰国して、湊は海の向こうへ隠す。表向きは何も無かったみたいに。自衛の術は必要だ。湊の足を引っ張るつもりは無い。




「お前の若い頃にそっくりだな」




 壁に背を預けた葵君が、喉を鳴らすように笑った。




「アクセルはあるのに、ブレーキは無い。自分の行為がどんなに不本意な結果を残しても、言い訳はしない」

「……」

「子供って、あっという間に大きくなるよな。未来を背負って行くのは、子供達なんだよ」




 俺達の時代は終わったんだ。

 葵君の言葉を背中に聞きながら、航は階段へ踏み出した。今頃、兄は家探しみたいに部屋を荒らして荷造りしているのだろう。手伝わなければ。




「湊を送り届けたら、久しぶりに酒でも呑もうぜ」

「いいね。何に乾杯しようか」

「子供達の未来に」




 両親と葵君の声が聞こえる。

 航は少しだけ笑った。

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