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⑴選ばれた子供

 History would be a wonderful thing – if it were only true.

(真実だけで出来ていたなら、歴史は素晴らしいものだっただろうに)


 Leo Tolstoy







 アメリカの空は母国に比べて青く澄んだ色をしていた。刷毛で払ったような薄い浮雲がぽつぽつと浮かび、まるで絵画の世界に迷い込んでしまったかのようだった。


 バージニア州、クワンティコに位置する連邦捜査局。

 犯罪行動分析課に所属する神木葵は、曲者揃いのチームの中においても異彩を放つ。圧倒的な事務能力と独自のプロファイリングによる解析能力は他の追随を許さず、馴れ合いを好まない性質から常に孤高の狼のように仕事に没頭していた。


 日々起こる常軌を逸した凄惨な殺人事件を追い、時には武装して突入する。自由な時間は殆ど無く、辞めた筈の煙草の煙が恋しくなる。

 椅子から腰を上げて背伸びをすると、至る所の関節が乾いた音を立てた。


 ポケットに入れていた携帯電話が震えた。羽虫の羽搏きを思わせるバイブレーションを止めると、SNSからメッセージが届いていた。

 親指でタップしてアプリを開く。送信者として通知された情報には、アルファベットのHのみが記されていた。


 メッセージには一件の動画が遠目から撮影されていた。それを見ると暗闇に包まれていた心に希望がぽっと灯るような気持ちになる。




「息子さん?」




 知らず口元が緩んでいたらしく、横から携帯を覗き込んだ同僚が穏やかな声で問い掛けた。プライベートを圧迫されたような不快感は無かった。


 最近娘が生まれたばかりの同僚は、事あるごとに愛娘の写真を見せて来て、だらしなく鼻の下を伸ばしていた。捜査中の怜悧な頭脳も娘の前では形無しだ。葵は苦笑し、首を振った。




「知人の息子なんだ」




 知人と形容してから、葵は自分自身の言葉に首を捻った。知人と友人の境界線は曖昧だ。知人と呼ぶには知り過ぎており、友人と呼ぶには近過ぎる。しかし、親友と称するには余りにも互いのことに無関心で、相応しい名称が思い付かなかった。


 今から二十年以上も前、葵が学生だった頃にルームシェアをしていた。厄の塊みたいなトラブルメーカーでありながら、B級フィクションみたいな問題解決能力を持ち合わせた予定調和のヒーローのような男だった。

 現在は救命救急医の非常勤を務めながら、第三世界でMSFの活動に従事している。葵が精神疾患を抱えていた頃は精神科医をしており、担当医だった。彼の経歴は無軌道なので説明することが非常に面倒だ。


 同僚は葵の説明をどのように受け止めたのか、曖昧な相槌を打って追求はしなかった。

 彼の親馬鹿が出る前に、葵は携帯電話を操作して動画を見せた。


 ディスプレイには激流の中をボート一つで下って行く二人が写っていた。不敵な笑みを浮かべる彼等は一見すると幼く、思わず振り返りたくなるような見目麗しい美少年だ。


 初めこそ微笑ましく眺めていた同僚は次第に表情を失くし、最後には世紀の瞬間に立ち会ったかのように興奮し頬を紅潮させていた。




「すごいな。彼等は天才だ」




 抜群の運動神経と冴え渡る第六感で自然の力を乗り熟す様は、遊びの川下りではなく、極上のエンターテイメントを見ているような感動すら与える。葵は誇らしくなると同時に、父親の血を色濃く受け継いだ彼等に一抹の不安を覚えた。


 彼等は産まれながらの天才であり、恵まれた子供である。人の羨む凡ゆるものを持っていながら、容赦無くストイックで努力や手間を惜しまない。その完成された人間性が葵には理解し難く、恐怖すら感じさせた。


 二人の会話を聞いていた同僚達が集まって来て、気付くと周囲には人集りが出来ていた。人間というものを知り尽くした百戦錬磨の捜査官達が嬉々として見入っている。フロアに広がる宗教染みた不気味な熱が堪え難く、気持ち悪い。


 葵が動画を消すと、神秘体験を共にした捜査官達が残念そうに溜息を吐いた。仕事の邪魔になる。散って行く同僚達を眺めていると二階からチームリーダーの招集が掛かった。


 ブロンドの長い髪を簡単に纏めた細身の女性である。二児の母であり、捜査官としても逞しく活躍している。葵は元来として人の美醜に頓着しないし、性差に対して淡白である。だが、公私共に充実し、混同しない彼女は尊敬に値すると思っている。


 フロアに充満する奇妙な空気に眉を寄せるリーダーを尻目に、葵は息を漏らして重い腰を上げた。未練がましい視線を振り払うように携帯電話をポケットへ捻じ込み、会議室へと歩き出した。







 序章

 ⑴選ばれた子供








 葵の仕事は主に異常犯罪について分析し、犯罪者の心理を読み解き、解決へと導くことにある。

 過去に猟奇犯罪へ関わった経歴から、監督官として数々の事件の捜査に携わって来た。餅は餅屋というのか、犯罪者の心理を理解するには犯罪者が最も適している。


 葵は元々人間というものに対して同族意識が乏しかった。どうして人を殺してはいけないのか解らないのだ。


 人は食べる為に豚を育てて殺すが、その反面では動物愛護運動を起こす。雀蜂が出れば躍起になって駆除し、戦争となれば名誉の為に人を殺す。其処に何の違いがあるのか未だに迷う。


 転機があったとするのなら、十七年前、ヒーローに双子の息子が産まれた時だった。

 偶々出産の場に立ち会った葵は、血塗れの知人と想像を絶する呻き声に眩暈を覚えた。だが、悪夢のような長い時間の後に産まれた二人の子供を前に、これまで抱えて来た疑念や嫌悪感は泡のように消えてしまった。


 生命の起源であるとか、命の尊さとか、小難しいことは何も考えなかった。ただ、目の前で泣き叫ぶ猿みたいな赤子を見て、不覚にも涙が出そうになった。


 少なくとも、命を懸けて守る価値があると思った。


 以来、葵は捜査官として寝る間を惜しんで事件解決に励んでいる。被害者の無残な遺体となって発見されることが多いが、それが子供だった時には、背筋が凍る思いをする。


 特定の相手もおらず、天涯孤独の葵にとっては、あの双子の後見人であることだけが公的な唯一の繋がりであった。あの子達が生きて笑っていられる世界を守りたいと思う。トラブルメーカーの父の血を引いているから、尚更だ。


 葵の信念とは別に、毎日のように事件は全米で発生する。思わず眉を顰めるような悍ましい猟奇殺人やテロ紛いの集団殺人。その中、極稀によく解らない依頼が入ることがある。今回もそんな事件の一つになる筈だった。




「被害者はロイヤル・バンクの頭取であるトーマス・ルーカス、四十八歳。自宅で倒れているところを秘書が発見。司法解剖の結果、睡眠薬の過剰摂取が死因と特定されているわ」




 チームリーダーが機械のような抑揚の無い声で告げた。会議室の正面には大きなスクリーンが設置され、年齢に見合わず鍛え上げられた男の遺体が映し出されていた。睡眠薬の過剰摂取による死体の顔面は汗を掻いたように脂ぎっている。


 同僚の一人が声を上げた。




「ニュースでやってたぜ。自殺って言われてなかったかい?」

「ええ。争いの形跡も無いし、普段から睡眠薬を服用していたって証言もある。上も自殺と断定して、捜査を打ち切る予定だった」

「だった?」




 過去形を取る言葉尻に、同僚が過剰に反応する。

 葵は個別に配られたタブレットを捜査し、資料を一言一句頭に叩き込んでいた。何故なのか、嫌な予感がしたのだ。




「この判断に異を唱える人がいてね。お蔭で、捜査はやり直し。でも、自殺以外の可能性は見付けられず、お手上げ状態」

「それで、うちに御鉢が回って来たって訳か」




 捜査資料を読み終えた葵は、一足先にタブレットを下ろした。

 リーダーのうんざりした顔に、葵も胸の中に暗雲が立ち込めるようだった。捜査資料にも解剖結果にも不自然な点は無い。自殺だ。初動捜査が自分ならば、その場で断定していただろう。




「ロイヤル・バンクは全米に支店のある巨大銀行だ。その頭取が自殺となれば、事件性を疑う輩もいるだろう。だが、状況から考えると自殺以外には有り得ない」




 葵は捜査資料を指し示した。

 密室、睡眠薬の常用、多忙な日々の業務。最近では外国為替相場の不正誘導を巡り、集団訴訟があった。敗色濃厚との新聞記事を読んだ覚えがある。賠償金として提示されているのは一千万ドル、日本円にして凡そ十億だ。自分と企業とでは金銭感覚が違うことは解っているが、自殺したくなる気持ちも解るような気がする。




「大体、自殺じゃないって言ってる奴は何を根拠にしてるんだ。自分が殺したと自供でもしてるのか?」




 葵が責め立てるように言うと、リーダーは机に両肘を突いて呼吸を深くした。場の空気を支配する為に彼女がよく使う仕草だった。




「貴方達、幽霊って信じる?」

「ーーは?」




 思わず、間抜けな声が出た。

 リーダーは自分自身の言葉にうんざりしたような声色で続けた。




「或る人が、ルーカス氏自身が殺されたのだと証言してるって言うの」




 殺された被害者が、自分は殺されたと言っている?

 葵は意味が解らなくて頭が痛くなる。超常現象もオカルトも大嫌いだ。死後の世界も信じていないし、そういうことを喜ぶ馬鹿も等しく嫌いだ。


 リーダーはスクリーンに次の資料を映し出した。




「ソフィア・ハリス。十五歳。彼女は死者と会話をすることが出来る霊能者よ」

「十五歳って、そんなガキの言うことを間に受けてんのか!」




 チームメイトが嘆くように言った。尤もな意見だ。

 葵はリーダーの次の言葉を待った。まさか、ガキの戯言を間に受けているとは思えなかったからだ。




「私は幽霊なんて信じないわ。でもね、彼女は死者との交信をして、実際に事件を解決したこともある。一部の政治家には熱心なファンもいるみたいだし、無碍には出来ないわ」




 組織というものの業だな、と葵は皮肉っぽく思った。

 個人的には門前払いしても良いような案件だ。だが、政治的要素が絡んで来ると、途端にややこしくなる。

 残念ながら、葵には上層部とやり合える程のコネクションは無かった。




「かと言って、既に自殺と判断されている事件を穿り返す程の人員的余裕も無いわ」

「どうするんだ」




 葵が問い掛けると、リーダーは慈愛に満ちた眼差しを送って来た。猛烈に嫌な予感がして、今すぐにこの場から離れたい衝動に駆られる。

 リーダーは一呼吸置くと、穏やかに言った。




「葵。貴方にこの事件を任せたいの」

「ふざけんな」




 葵にとっては数少ない尊敬に値する人間だ。以前、葵が失言からマスコミにバッシングを受けて社会生活すら困難な頃に表立って庇ってくれたのも彼女だ。信頼に応えたいし、恩に報いたいと強く思うが、余りにも場違いだ。


 自分の出る幕じゃない。

 葵は反論したが、リーダーの決定は覆らなかった。




「灯をサポートに付けるわ」




 灯というのは、葵と同郷の先輩捜査官だった。

 薬物に詳しい有能な捜査官なのだが、無愛想、鉄面皮、ぶっきら棒なマネキンみたいな男だった。十年以上前にヒーローを巻き込んだ或る事件で世話になったが、個人的な関係は全く無く、名前を出されるまで思い出したことも無かった。


 そんな男と二人で、小娘の妄言の為に無駄な捜査をしろと言うのか。

 流石に退出はしなかったが、理不尽さに憤り、今すぐ机を蹴り上げたいとすら思った。




「子供は好きでしょう?」

「好きじゃねぇ。積極的に嫌いだ」

「そう? よくお友達の息子さんの話をしてくれるじゃない」




 葵は舌打ちした。

 子供は嫌いだ。衝動的で意味も無く騒ぐし、すぐ泣く。ましてや、思春期の小娘の相手だなんて死んでも御免だ。


 辞職願いを叩き付けてやろうかと睨んでいると、リーダーはさっさと次の事件の話を始めてしまった。葵は関われない犯罪捜査である。


 畜生。

 葵の悪態は誰にも届かず、会議室の中に砕けて消えてしまった。

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