『英国紳士の植民地統治』
インドに憧れを抱き、インドに渡ったアーサーは一体どんな肩書だったのか? を妄想すると、1853年から中国の科挙みたいに、公開のペーパーテストで選抜されたイギリスの上級公務員である、インド高等文官が候補に挙がります。時代的にはインド人で初めてインド高等文官になった、ショッテンドロナト・タゴールと同期であるとして、話に絡めれば面白くなるかもしれないと思い、ショッテンドロナトについて調べました。
ショッテンドロナト・タゴール(1842~1923)はカルカッタ大学を特別な成績で卒業、ロンドン大学に留学、留学中の22歳(1864年)の時、インド高等文官にインド人として初めて合格。官僚コースの最高峰を辿る。
1864年帰国後、ボンベイ管区の法律支部で能吏として勤務する。
1897年退官後、南カルカッタのバリガンジに宏荘な居を構えた。彼はイギリス植民地支配の官僚機構の最高の地位にありながら、愛国主義者で、独立の機運醸成に尽くした。国内産業によって生産された品物の展示会を毎年開くという案を出し、それが国産博として発展し、19世紀後半の民族感情の昂揚に寄与した。社会改革、特に女性の福祉・地位向上のために尽くした。ギャノダノンディニ・デビ夫人をイギリスに行かせ、インド女性がイギリス女性と同等の自由と地位をインド社会の中で得るように努力した。彼女も積極的に各種の会合に出席、近代女性としての活動をした。ショッテンドロナトの邸宅には東西の客が訪れ、また滞留し、岡倉天心、横山大観などはこの家でも、文化、芸術、思想の交流を行った。
彼が1864年にインド高等文官という最高職を獲得して帰国した時、彼の栄誉を讃えて、インド中の王侯貴族が宮殿で歓迎会を催し、みんな贅の限りを尽くした晴着で出席しました。
やがて現れた当の本人は長いインドシャツであるピランと腰布であるドーティの簡素なインドの衣装で出現し、イギリス風ジェントルマンの出現を予想していた人々はあっけにとられました。
そして彼の足を見るとダイヤモンド、サファイア、エメラルドなど高価な宝石をびっしりとはめ込んだ靴を履いていることに気づきます。彼は人々が頭につける物を足につけて宝石などの富より知性を尊ぶべきであるという信条を示したと言われています。
さて、インド高等文官ですが、『英国紳士の植民地統治 ~インド高等文官への道~』という本に詳しいです。とても興味深い本で内容を要約するのは難しいので読んでみることをお勧めしますが、一応印象に残ったところをまとめると。
イギリスでは植民地統治者の理想としてジェントルマンが相応しいと考えられていました。
――アフリカやアジアにおいて原住民の中での行政経験を持つものは誰でも、どんな原始的未開人でも、普通に『ジェントルマン』として知られている人間と出自のいやしい者の違いを見分ける、驚くべき直感力をもっていることを知っている。彼らは『支配』階級に属する人間と、知力や努力によって地位と権力を保持している人間とを直感的に区別する。前者に対しては問題なく従順であるが、後者の命令は便宜的に実行されることが多い。――
そして、ジェントルマンの要件は「人を統治し、己を律する能力、自由と秩序を統合する才能、健全なスポーツと運動の愛好」でした。
そんなジェントルマンは「標準紳士製造工場」と言われるパブリックスクールの卒業生とほとんどイコールでした。パブリックスクールでは、学科の学習以上に人格の淘汰、リーダーシップの体得、団体精神の涵養が重視されました。
しかし、インド高等文官は、パブリックスクールやオックスフォード大学、ケンブリッジ大学の卒業生のジェントルマンを採用したいというイギリス政府の意向とはうらはらに、公開のペーパーテストであることから、その当時軽蔑された、ガリ勉で試験に合格する、紳士階級より下の階級の出身者が続出し、問題になったということです。
又、イギリス人とインド人の比率も逆転し、インド独立後は、インド高等文官出身者のインド人がインド政府で活躍したということです。
参考文献
『英国紳士の植民地統治~インド高等文官への道~』 浜渦哲雄著 中公新書
タゴール著作集 1~11巻+別巻 第三文明社
『嫁してインドに生きる』 タゴール暎子著 筑摩書房