七夕異聞
七夕は雨。それもバケツをひっくり返したような激しい雨。
この地方では毎年ずっとっそうなんだ。
でも。
想い続ければ思い人に逢える。
僕は寝転がり、膝を立て、仰向けになる。
そしてゆっくりと息を吸って……静かに息を吐いた。
呼吸に意識を集中する事数十分、もう窓を叩く雨粒の音も、遠くで轟く雷鳴の音も聞こえない。
◇
足を放り出し、あらぬ方向に腕は曲がり、ああ、我ながら情けない寝相だ。
え?
俺? 俺はあいつの魂。あいつ、柊健太の魂だ。
え?
俺が何をしているかって?
今からが本番なんだよ。健太の体からすっと抜け出して、俺は散らかった部屋を見回す。
あの出来事以来、散らかったままの部屋だ。
彼女がいたときと寸分変わらないレイアウト。
そして、空になったペットボトル。
彼女がいたときは、ペットボトルの中には水が入っていた。
だけど今では、そのペットボトルの中には水など一滴も入っていない。
自然に天に帰ったのだ。
◇
今日は七夕だ。
引き裂かれた恋人がつかの間の逢瀬を楽しむ時間。
ただし、晴れた日限定。
だけど、俺は取って置きの方法を思いついた。
──それが今やっていること。
俺は部屋の中をグルリと巡る。
おお、健太は目を覚ましそうに無い。
じゃ、行きますか。
俺は宙へを舞い上がる。
窓をすり抜け、雨脚強い外へと躍り出る。
だけど、雨は俺の体を容赦なく叩く。
冷たい。
雷光が俺の姿を照らし出す。
だが、それがどうした。
俺には俺の目的がある。
このために俺は準備したんだ。
こんな事もあろうかと。
いや、雨だろうと、晴れていようと、この方法しかないのだと。
俺は、俺は舞い上がる。
雲目掛けて舞い上がる。
雨に打たれながら。
激しい雨に打たれながら。
ほんのり涙を零しながら。
俺はいつしか泣いていた。
どうしてだろう。嬉しいはずなのに。
もう少しで願いが叶うはずなのに。
◇
ぐんぐんと天へと舞い上がる。
雲に突入、黒い。全く見えない。
だけど俺は速度を落とさない。
この上に。この上に。
この上に俺の望んだ世界がある。
俺は、そう信じた。
そして突き出た俺を待っていたのは満天の夜空。
ベガ。そしてアルタイル。
濡れた体はそのままに、俺は星空を見渡した。
輝く夜空。
星々の川を挟んで、一際輝く星が見えるんだ。
年に一度の逢瀬。ベガとアルタイル。
「居るんだろ?」
俺はそんなことを呟いた。
「出てきておくれよ。俺は約束どおりやって来た」
俺は望みを込めて、願いを込めて念じる。
思い出す。
彼女の顔を。声を。最期の言葉を。
「出てきてくれよ!」
気づけば俺は叫んでいた。
「君に会いたかった。君に会う方法を探した。気にがきっと笑っていると信じて待った!」
虚しく消える、俺の声。
彼女は、居ないのだ。
あの微笑みは。あの感触は、あの囁きは。
二度と俺達は触れ合えない。
分かってた。
分かってたのに。
ベガの光が瞬く。
俺の涙に揺れる。
虚しく散った、俺の夢。
確かに俺の、夢だった。
明晰夢。夢の中ですら、静に逢えない。
◇
次の日。
俺は鏡を見る。
酷い顔をしていた。
涙の後を洗う。流水でゴシゴシ洗う。
──だって、仕方ないだろ?
◇
八月。
蝉時雨の中に俺はいる。
「なぁ静。あれから一年だぞ? お前、俺を待っていてくれるんだろ?」
墓石を水で洗い、草を取り……
俺は花を活ける。
「あれは嘘だったのかよ」
沈黙が流れる。
風が俺の上を弄った。
「そうかよ、居るんだな?」
ぬるい風は、気のせいか優しく思えた。
◇
八月七日。
この地方では旧暦の七夕だ。
白い星々の川の両側に燦然と瞬くベガとアルタイル。
今夜はくっきりとそれが見える。
夏の夜に、虫の音が響く。
橋の上。一斉に光虫が飛び立つ。舞う。明滅する。
墓参りを終えた俺は、ぼんやりとそれを眺めていた。
俺はいつまでそうしていたのだろうか。
魂を吸われる様な気がする。
体の心から、すうぅっと何かが抜ける感じ。
そんな時だ。
虫が集まり、人の形を取った気がした。
いや、錯覚か?
俺にはそれが、静に見えた。
『立ち止まって居ちゃダメだよ』
人の形が崩れる。舞い散る。明滅する。
「静?」
俺は涙に濡れた顔を上げはっとする。
『見ているからね、健太が頑張るところ』
俺は顔を上げた。ベガ。一際輝くその星。ベガ……。
俺はその星に静の面影を見た気がした。
ベガは俺を見下ろしている。
俺は、大地を踏みしめて立っている。
『見ているからね』、と彼女は言った。
確かに言った。星になった彼女は言った。
──ならば。
頑張らないと。
前を向かないと。
とにかく出来る事を──俺は強くそう願った。
俺にできること。
まずはそれから始めよう。
部屋の掃除。まずはそこから始めようかと思った。
彼女に貰ったペットボトル。そろそろ捨てても良いのかもしれない。