いつまでも、変わらない時間
生徒でにぎわう廊下の角を曲がる。
前を行く、冬用の黒いセーラー服に、長く柔らかい黒髪の少女。
騒がしい中、彼女を呼ぶと、人に埋もれそうな身長の男子に振り返り、
嬉しそうにほほ笑んだ。
人はこんなにいるのに、無音が続く。
彼女は長い髪を揺らし、彼に近付き、口をかさね……
「ぐぉわぁっ!」
人に埋もれそうな身長の海斗は、叫びながら飛び起きた。
隣で寝ている兄の部屋から、壁を強く叩く音がして、
「うるさい!」
と、怒声が聞こえてきたが、海斗はそれどころではない。
飛び起きたまま、海斗はしばらく呆然と部屋を見渡す。
近くには、母が驚いた顔で立っている。
「な、なに? またなにか夢でも見たの?」
外からは、すでに騒々しいほどセミがわめいていて、海斗は汗だくで半身を起こしている。
寝ぼけていると判断した母は、笑いながら頭をクシャクシャとなで、
「せっかく目が覚めたんだから、起きてきなさいよ」
と、部屋を出て行った。
海斗は、夢をリアルに思い出し、顔が真っ赤になる。
よりにもよって、桜とキスをした。
夢なのに、その事実に頭がグルグルする。
「兄ちゃん……」
いや、まさか。そんな相談なんて出来ない。まして夢の中での話なのだ。
海斗はうろたえながら、それでも布団からはなれようとする。
いつもなら、この夏の暑さの中でも二度寝、三度寝は当たり前なのだが、そんな気にもなれない。
むしろ、今は布団からはなれたい。
「なんだよ。なんでだよ。なんなんだよ!」
部屋の中をウロウロして、頭の中を整理しようと奮闘する海斗に、無情にもまた壁が叩かれ、海斗は飛び上がる。
パジャマのまま、兄の部屋の扉を叩き、返事を待たずに扉を開けた。
「兄ちゃん、ちょっと聞きたい事があるんだけど」
「夢だ! 寝ろ!」
兄は一喝して、ベッドの上で寝返りをうち、海斗から完全に背を向けた。
海斗はめげずに、兄に近付く。
「あのさ、その夢の話なんだけど……」
おそるおそるな海斗に、大きく舌打ちをする兄。
少し体を起こし、時計を見てから海斗へと振り返り、うめく。
「ああもう、なんだよ。まだあと十五分は寝れるじゃん……
ったく。夢は夢だろ。現実とはまったく、金輪際、関係ない!
海斗くん、コワイ夢でも見たんでちゅかー?」
「そーじゃないよ! でも、夢は本当に夢なんだよね?」
海斗の繰り返される言葉に、兄は壁を叩いてしまった事を反省する。
納得いくまで、あきらめない歳のはなれた弟。
それをカワイイと思う反面、時々面倒くさい。
今度は大きくため息を吐き、兄が海斗の頭をつかみ、指に力を込めた。
「オレは、もすこし、寝たいんだよ」
「い、いたた! 痛い! 痛いって!」
涙ぐみながら、兄の腕をつかみ、爪を立てる。
やっと指万力から解放された頭をかばいつつ、海斗は扉まで逃げた。
その海斗に兄が力強く指さし、
「夢はリアルにならない! ったく、中学生になったんだから、それくらいわかれ」
「兄ちゃん、うぜー!」
海斗の言葉に、兄の表情に本気の色が浮かぶ。
完全に体を起こし、厳しい顔で海斗を見やる。
「おい。まず言葉の使い方が間違ってる。
でもって、今度オレに、その言葉を気軽に使いやがったら、絶対、許さん」
「……なんだよ。みんな使ってるじゃんか」
兄の本気に、海斗は及び腰になった。
しかし、自分だけ怒りの矛先を向けられるなんて、理不尽ではないか。
口をとがらせた弟に、兄は口の端を持ち上げて笑う。
「ばかだな。みんなが使ってるから、おまえも? つまんねーヤツ」
「つまんなくないよ!」
兄の悪態に、海斗はムキになり、食ってかかった。
目を細め、前髪を触って、兄は苦笑した。
「おまえ、自分でなに言ってるか、わからなくなってるだろ」
「うん」
力強くうなずく弟。あきらめたように、とりあえず兄は進言した。
「まーいいけど。母さんにだけは、絶対言うなよ」
「なんで?」
目をクリクリさせて、首をかしげる海斗に、すでに背を向けて横になった兄は一言、
「めんどくさいから」
と、それ以上は言わなかった。
しぶしぶ身支度を整え、台所に入ると、母は鼻歌を歌いながら鍋をかき混ぜている。
「おはよー」
「あら、本当に起きてきたの。で? 今回は、どんな悩み事?」
何気ない母の言葉に、また頭の中で映像が浮かぶ。
顔を真っ赤にした海斗だったが、背中を向けている母には気付かれる事はなかった。
「なんでもないよ!」
思わず声を荒げた海斗に、驚いた顔で振り向く母。
鍋の上で、フタが小気味良い音を響かせている。
「そう? でも、なにかあったら……」
「ないって! うぜーな! ほっといてよ!」
ただの夢の話だ。しかもあんな内容の説明なんて、出来るはずもない。
大声で叫んだ海斗に、母はオタマをにぎりしめた。
二度寝も叶わず、あきらめて起きてきた兄は、その叫びを聞き、
「ばかが」
と一言つぶやいて、とばっちりだけはごめんだとばかりに、自室へと戻っていった。
兄の言葉に我に返り、暑さのためにかく汗とは違う汗が背中を伝う。
「海斗、ちょっと玄関を見に行ってくれる?」
笑顔の下に、静かな怒りが感じられる。
海斗は、なにも考えず、うなずいて玄関をのぞいた。
「……なにもないけど?」
「違うのよ。ポスト見に行ってくれる?」
「えー? なん……」
不服とばかりに振り返ると、母は笑顔のまま玄関を指さす。
さからえない。なんだかそのように感じられ、しぶしぶ靴を履き、外に出た。
「いってらっしゃい」
「え!」
笑顔のまま、海斗の学生カバンを表に放り出し、しっかりカギまでかける音。
「お母さん?」
扉越しに声をかけると、中から怒りに満ちた母の声。
「お母さんになに言っても傷つかないって、思っているの?
海斗が、どれだけの事を言ったのか、学校に行って考えてきなさい」
この声は、本気だ。こうなったら母は父に言われても、考えを変えないだろう。
海斗は、仕方なくカバンを拾い、腹が減ったまま、学校に行くはめになった。
こつんと、二階の窓が鳴り、見上げてみる。
開いた窓には兄の姿があり、その口が、ばーか。と動いた。
やっと、とんでもない事をしてしまったのだ。と思いつく。
兄の忠告など、聞いてもいなかった。たいした事ないと思っていた。
まさか、ご飯前に追い出されるなんて。
海斗は、兄にイーッと口を横に広げて見せてから、とぼとぼ歩き出す。
「早くに出れば、その分涼しいだろ。たまには早く行くもんだ」
そんな兄の言葉を背に、海斗は答えず早足になった。
遮るもののない、中学校へと続く細道。
陽射しは、言葉通りに露出している皮膚をさす。
腕も顔も、容赦ない熱にあてられて、焼ける音が聞こえてきそうだ。
そこかしこでアブラゼミが鳴きわめき、その音量に海斗は顔をしかめる。
桜並木は、もうないのに。
どこからセミはやってくるのか。
眉を寄せながら、腕の熱を取ろうと手のひらでさする。
そうすると、さすっている腕が熱くなる。どうどう巡りだ。
海斗は、とりつかれたように右腕、左腕と繰り返す。
瞬間、背中を強く押され、海斗は驚いた表情ではなく、やられた! とばかりに呻いた。
すでに慣れてしまったためか転ぶことはなく、ゆっくり振り返ると、相変わらずひょろっとした葉が第二弾とばかりに押す姿勢を取っている。
いうまでもなく、第一弾は桜であるが。
中学にあがって、海斗たち三人は同じクラスになり、変わりなく続いている友達。
だが、そろそろ小学生のときからの、この挨拶はやめてもらいたい。痛いから。
「……あのさ、たいがいにしろよ?」
第二弾の失敗に残念がる二人を尻目に、海斗は自分の前髪をつまみながら、ため息を吐いた。
そんな事は気にもとめず、桜はあははと笑った。
「なに? 今日早いじゃない。朝練だっけ?」
「部活には入ってないよ」
こんな早い時間に、海斗がいるのが珍しいのだろう。
桜は不思議そうな顔をしながらも、海斗の腕をのぞきこんだ。
夢の事もあってか、海斗は桜から少し後ずさる。
「ふーん。まあいいけど。腕どうしたの? なんか虫でもとまったわけ?」
海斗が一心不乱に腕をさすっていたのが、気になったのだろう。
とりあえず、海斗の態度は気にもとめなかったらしい。
長い髪は今ではミツアミにされている。桜はこの方が涼しいのだと言っていた。
海斗としては、太陽に素肌を当てないほうが、絶対涼しいと思うのだが、長い髪を持つとなにやら大変らしい。
「バーカ、桜。虫がとまったのに、あんなにこすってたら、腕に虫の液体をすり込むようなものじゃんか」
さらっと恐ろしい事を言う葉に、想像をしてしまった海斗と桜が、自分でも気付かず後ずさっていた。
葉は、舌を出して笑いつつ、同じように海斗の腕を見る。
「で、なにやってたんだ?」
「……ただ熱くて、ジリジリいってたから、さすっただけだよ」
海斗の言葉に、葉はとたんにやる気をなくした。
「だー! もー! 暑いのに無駄なことさせんなよ!」
「やろうとしたのは……っていうか、やったのはそっちじゃんか」
ひょろっとした体を大げさに揺らして怒りを表す葉に、海斗はあきれた声を出した。
桜はいつの間にか、同じ部活の友達をみつけて、そっちに行ってしまっている。
少しだけ、安心した。
どうしても桜の顔を、見られなかった。
桜の事だから、海斗の挙動不審に気がついてはいるだろう。
家を早く出れば、その分涼しい。
という兄の教えは、間違っていた。暑いものは暑い。
海斗は兄の言葉に、すっかりだまされていたのだが、この暑い中、遅刻を気にして走らなくていいのは、非常に助かる。
黙って歩いていた葉が、桜の後ろ姿を見ながらつぶやいた。
「それよりさ、なんで部活入んねーの?」
「なんだよ、突然。
なんていうか、小学校んとき、だまされたからさー。めんどくさいってか、家にいたほうがゲームもあるし、疲れないしさ」
海斗の言葉に、葉は目を丸くする。
「なんだよ、じーさんかよ! じゃあ、ボクの部活来ればいいじゃん。仲良くしよーぜー」
この暑いのに、肩を組んでくる。
「わざとでもやるなよ! 暑い!」
海斗が悲鳴をあげて振り払うと、葉はふてくされたように口をとがらせた。
葉の入っている部活は、将棋部だ。
中学に入ったばかりの時、部活の見学巡りで、桜と葉と海斗は陸上部の前で鉢合わせ。
そんなときにまで桜と葉は張り合っていた。
その結果、陸上部でけっこうイイ走りを披露してしまったため、運動部全般にしばらく追われることになっていたが。
その葉が、なぜか将棋部。本人は、
「将棋がボクを呼んだ」
とか言っていたが、一緒に回った見学の様子をみると、海斗より弱いかもしれない。
海斗は、また少し熱くなった腕を軽くさすりながら、葉を横目で見る。
「あのさ、将棋だって別に部活に入ってまでやることないんじゃない?」
「バーカ! 将棋は頭良くなるんだぜ?」
「……葉は実力テスト、学校で何位だったっけ?」
海斗の言葉に、葉は言い返そうと口を開け、そのままゆっくりと閉じた。
口をとがらせた葉を見て、海斗が笑う。
「冗談だって。でも、別に部活でまで、やりたくなしさー」
「やってみなけりゃ、わからないだろ? 桜並木事件の精神はどこいったよ」
コンクリートで固められた土手は、すでに通り過ぎている。
あれから、まだ半年もたっていないのに、海斗は自分の中で、あの事件が遠いものになってしまっていることに気がついた。
思わず振り返り、海斗は少しショックを受ける。
あれだけの痛くて苦しい思いを、どうして忘れてしまったのだろう。
市の役人にも、工事をした人間にも、石を投げたくなるくらい怒りを覚えたのに。
「海斗、かーいーと。悪かったよ、思い出させようとしたわけじゃないんだ」
「違うよ、葉。なんでだろう、この道を通るのが、あんなにも苦しかったのに。
今、ボクは忘れてたんだ」
海斗も葉も、黙り込んでしまう。
葉だって、忘れたわけじゃないのに、海斗の気持ちと同じだった。
無言で歩いていた海斗が、おかしくなってしまった空気を壊すように手を振り回し、
「やめやめ!」
そう叫んだ海斗の肩を、葉は軽めに突き飛ばす。
「将棋部の見学にこいよ。茶くらい出してやっからさ」
「痛いって! ていうか、なんで葉がこんなに朝早いんだよ。
将棋でも朝練があるの? だいたい、ボクが入らなくても、関係ないだろ」
海斗の悲鳴に、葉は離れながらも真剣な顔になる。
「関係ないわけじゃない。将棋部が存続するかは、海斗にかかってるんだからな」
葉の言葉に、海斗は耳を疑う。
セミの鳴き声がうるさい。太陽はこれでもかと陽射しを強める。
夏の雰囲気におかしくなったんじゃないか? と、海斗はいぶかしがる。
だが、葉の表情は、真剣そのものだった。
「部員が少なくてさ、部活自体がなくなるかもしれないんだ。
みんな小学校でなかった部活に流れたからさー。ほら、テニスとか超人気じゃん?」
「あー、まーね」
海斗はうなずきながら、桜もテニス部だったな。と思う。
彼女のはつらつとした姿は、夏の陽射しにも負けていない。
むしろ、この暑さが似合っている。
それなのに、葉は驚くべき言葉を発した。
「おまえがダメなら、桜に頼むからな」
「は? 無茶言うなよ。もう仮入部とかの時期じゃないじゃんか」
「知ってるよ。だから言ってんじゃん」
問答無用。という言葉が海斗の頭に鎮座する。
さすがに海斗は前髪をさわり、口をとがらせた。
「……なんだよ、返事もしてないうちから決定かよ」
「いいじゃんか。今日はクッキー持ってきたからさ、これから部活行って食おーぜ」
「将棋は?」
あからさまに、あきれた声を出した海斗に、葉がにやりと笑う。
海斗は大きなため息をつき、ひょっとしたら潰れた方がいいんじゃないのか。とつぶやいた。
どうも雲行きが怪しくなってしまったと感じ取った葉。
周りに聞かれないように、海斗の耳に口を寄せる。
「そー言うなって。実はな? 将棋部の窓から、テニスコートが丸見えなんだよ」
突然の言葉に、おもわず肩をすくめ、前髪をさわる。
そのしぐさを見て、葉は口の端を持ち上げた。
「だって海斗、桜の事ばっか見てるもんな」
叩きつけられた言葉。海斗は頭の中が真っ白になった。
葉が言うのなら、確かなのだろう。鼓動が早くなる。
「うそ。うそだ」
「うそなもんか。他のやつらは気づいてないけど、長い付き合いのボクが、わからないわけないじゃないか」
はっきりと否定したつもりが、弱々しく口からこぼれ落ちた。
葉のささやきは、朝の夢と重なって、心を大きく揺さぶられる。
「桜は面白いし、いいんじゃね?」
「そんな……そんな! ボクが桜を好きなんて!」
悪魔のようなささやきに、海斗は大声を出し、葉の胸ぐらをつかんだ。
顔が真っ赤になっているのがわかる。
「あんな……たしかに、あんな夢見たけど……」
「あんな夢って、なんだよ? エロいやつ?」
小さくくぐもった声でつぶやいたのに、葉は目を輝かせて食いついてきた。
「違うよ!」
「詳しく教えろよ」
しつこい葉の横腹を容赦なくつつく。女の子のような声をあげ、葉は体をくの字に曲げた。
ふと気がついて、前を見ると、桜が赤い顔をして立ち尽くしている。
「さ、桜。あの、口がすべったというか……笑い飛ばしてよ!
だって、ほら、みんなで一緒に、笑って楽しくやりたくて、その……」
空気中にいるのに、おぼれているかのように息苦しい。
海斗はあえぎながら、なにか言わなくちゃいけない。と、口を開くがうまく言葉が出てこない。
先に我に返った桜が、申し訳なさそうに。しかし、海斗をまっすぐ見つめ、
「あの、あのね? 私、実は陸兄が、好きなんだ。
……でも、ちゃんと考えるから。明日まで、時間、くれる?」
そう言って走り去った。
重く、気まずい沈黙。
失敗したと思ったのか、細い体をさらに細く見えるようにして、声をかけてくる。
「えーと。海斗」
「……もう、いいよ。部活は入らない。ごめん」
「そ、そんなのいいよ! その、ごめん」
心の中で、感情が渦巻いているような。かき混ぜすぎて、白くなってしまったような。
なにも、考えられない。これだけ混ざってるのに、まとまらない。
遠くで葉がなにか言っているみたいだけど、聞き取れない。
自分が、なにを答えたかも覚えていなかった。
そんな状態でいたせいか、いつの間にか一日が終わっていた。
どうやって帰ってきたのかも、わからない。
家の中にいて、用意された夕ご飯の前に座っている時、やっと海斗の心は落ち着きを見せ始めていた。
「海斗。海斗? 熱でもあるの? 今日は早く寝なさいよ」
母が心配そうに声をかけてくる。
それにただうなずき、母に小さな声でささやく。
「お母さん、朝の事だけど、ごめんなさい」
「なあに? ずっとその事考えてたの? いいわよ、今度から言わなければ。
言葉はね、海斗が思っているよりも、ずっと強く残るのよ。気をつけなさいね」
その言葉は、もっと早くに言ってほしかった。
後の祭りとなってしまった今では、海斗の頭にむなしく響く。
「兄ちゃんは?」
「陸? バイト始めたんだって。もう高二だし、コレでも出来たのかしらね」
母はふくみ笑いをして、小指を立てる。
小指の意味を考えても、いまいちわからなかったが、今の自分となにやら似通ったように感じた海斗。
なんだろう。好きとかなんだとか、わからないけど、でもいなくなるのはイヤだな。
友達として好きなのか。
女の子として好きなのか。
わからないけど、桜がもし、転校してしまったら――
自分の部屋のベッドで、ゴロゴロ転がる。
いなくなってしまうことを考えると、苦しい。
陸兄が好き。と言った桜の事を考えても、苦しい。
「なんだろう。本当に病気なのかな」
息苦しいほど、胸が痛む。
その時、部屋の扉がノックされ、兄が入ってきた。
「海斗、入るぞ」
いつの間に帰ってきたのだろう。全然気がつかなかった。
時計を見ると、夜の九時。
「なんか聞きたい事あるらしいって、母さんに聞いたけど」
「……兄ちゃんは、桜の事、好きなのか?」
突拍子もない弟のセリフに、兄は口が半開きになる。
なにか思いつく事があったのか、次の瞬間、兄は大笑いを始めた。
「な、なんだよ! 真剣に聞いてるのに!」
「おまえが真剣ってのが、面白いんだよ。
あー、なに? 日下さんだっけ、あの子になんか言われたわけ?」
笑いをなんとか押さえ込み、それでも口の端に残りながら、兄が聞く。
口をとがらせて、うつむいた海斗は、少し怒った声で。前髪をさわりながら、
「桜が兄ちゃんの事、好きなんだって」
「へー。で?」
兄のそっけない一言に、海斗は怒りをあらわににらみつけた。
「で? って! 桜は兄ちゃんが好きなんだよ。なにか言う事ないのかよ!」
「ないね。っていうか、日下さんがソレをおまえに伝えろって言ったのかよ」
まれに聞く、兄の冷たい声。
海斗は、兄が怒る意味がわからない。
「……そんな事、言ってないけど。聞いたんだもん」
弟の言葉に、兄は深くため息を吐く。
頭まで痛くなってきたのか、眉間にシワを寄せ、人差し指をあてた。
「ばかだ、ばかだ。と思ってたけど、ここまでとは思わなかったな。
あー、なんだ。おまえはどうなんだよ。日下さんのこと好きなんだろ?」
「なんで、葉と同じ事言うんだよ。違うよ」
兄は目を閉じたまま、天井を振り仰いだ。
「そうか。そうだな。おこちゃまだったか。
あー、たとえば、日下さんが明日から目の前からいなくなったら、どうだ?」
海斗は、少し考えてから、ゆっくりと口を開く。
「……寂しいかも」
「じゃあ、日下さんは目の前にいるのに、話もしてもらえなかったら?」
兄がなんのアンケートをとっているのか、見当もつかなかったが、それでも想像してから口をとがらせた。
「腹がたつ」
「じゃあ、日下さんがオレの事を、好きだと言った時、どんな感じだった?」
そのセリフを、兄が言った瞬間、心臓がつかまれるように苦しくなった。
「……痛くて、苦しい」
うつむいて、涙声になった弟の頭に、ポンッと手を置いてやる。
そのまま力強く、上から押し続ける。
「い、いたた! なにすんだよ!」
「おまえは、日下さんの事が好きに決定だ」
「なんで、決めつけるんだよ! そんなの、わかんないじゃん!」
あくまで言い張る海斗に、兄はおでこに指を突きつける。
「わかるんだよ。ばればれだ。おまえの場合、自分が認めてないだけ」
兄の手を振り払い、目を丸くした。
認めるもなにも、自分の気持ちなんてわからないのに。
複雑な表情を浮かべる海斗に、兄は用が済んだとばかりに、部屋から出て行こうとする。
ふと気がついたように、海斗へと振り返り、
「自分の心を認めてやれ。じゃないと、自分がかわいそうだろ。それに、相手にも失礼だ」
「だって、桜は……」
「オレは人を使って、告白してくるようなヤツはいらない」
兄の切り捨てるような言葉に、海斗は慌てた。
桜に頼まれてなんていないのだ。
ただ、自分が悔しかったから。すごく、すごく悔しかったから。
「違うよ。桜はそんな事するようなヤツじゃない」
「まあ、そうだろうとは思ったけど?」
兄は笑いながら部屋を出て、これで終わり。とばかりに扉を閉めた。
そうか。ボクは、桜の事が好きなんだ。
そう考えると、心がくすぐったくて、嬉しくなる。
友達としてであれ、なによりも大事な人。
たとえ、桜が兄の事が好きなのだとしても、変わらない。
******
次の日の放課後、人通りの少ない廊下のすみに、海斗は桜に呼び出された。
ためらって、何度も言葉を思い出すかのようにうなずいてから、桜は意を決したように、顔をあげた。
「あのね。すごく悩んで、考えたんだけど」
「なんの話?」
あくまでなんの事かわからないという表情を作る海斗。
その態度に、驚きのあまり一瞬声が出ない桜。
もちろん海斗だって、本当に忘れてたわけじゃない。先を聞くのが怖かったのだ。
友達ですらいられなくなったら……と思うと、心が引き裂かれるように痛む。
だから、桜の雰囲気で伝わってくる、次の言葉を、本当は聞きたくなかった。
「なにって……海斗から言ってきたんじゃん」
「ああ、アレかー」
海斗の言葉に、桜が怒りの表情に変わる。
「アレって! なによ、私すっごい悩んだんだから!」
つかみかからんばかりに海斗に詰め寄る桜。
海斗は両手をあげて、降参のポーズをとった。
「そ、そういう意味じゃなくってさ。
桜をそんなに悩ますつもりじゃなかったんだ……ごめん」
「なによ。あやまらないでよ。
確かに海斗には謝ろうと思ってたけど……でも、海斗のこと、キライじゃないんだもん」
海斗は前髪をさわる。桜の困った顔を見たくなかった。
あの時、思わず言ってしまった海斗の言葉を、ただ笑い飛ばしてくれれば、こんなにお互いが悩むことにはならなかったはずだ。
だが、桜は真剣に考えてくれて、その桜の言葉に、胸がしめつけられる。
海斗は桜の顔を見ていられなくて、うつむいた。
みつあみを揺らして、怒ったように海斗の顔をのぞきこむ。
「ばーか。キライじゃないって、言ってるじゃん。
あれから考えたんだ。私が、本当に好きなのは誰かな? って」
桜はしゃがんで、海斗の顔を見上げながら、ゆっくりと口を開く。
「葉は面白いヤツだから好き。
陸兄は大人だから好き。
海斗はいつも構ってくれるから好き。……私ね。わからなくなっちゃった。
海斗、言ったでしょ? みんな一緒に、笑って楽しくやりたいって」
海斗は顔をあげ、左を向く。子供っぽいしぐさだとは、わかっている。
仕方ないなと桜は立ち上がり、海斗の顔を両手に挟んで、力任せに自分のほうに向けた。
「海斗の言葉、私も思ってたことなんだ。
陸兄と付き合ったら、海斗は……きっともう笑ってくれないよね。
そう考えると、すっごく寂しい。本当の好きって、なんなのかな。
みんなと同じくらい好きって、好きじゃないのと同じなのかな」
「……わからない、けど」
寂しそうにうつむく桜に、海斗も困った顔で答える。
みつあみを後ろに流してから顔をあげ、散り始めた桜のように儚げに笑う。
海斗の顔から手をはなし、一歩後ろにさがった。
「海斗、ごめん。本当に、キライじゃないんだよ。
でも、自分の気持ちがわからないまま付き合いたくないから。ごめんね?」
そんな顔をされて、なにも言えるわけない。
海斗は無理にでも笑ってやる。
「なんだよ。だから最初に言ったじゃん! ただ口がすべっただけなんだからさ。
笑い飛ばして普通にしててよ」
無理に笑っているなんて、ばればれだったろう。
桜は、それでも笑ってくれた。
「ありがと! 海斗は優しいね」
「だって、それがボクだからね」
海斗の言葉に、桜は、あははと笑う。
別れるとき、歩き出さない海斗に桜が振り返った。
「あのね、小さな好きが積み重なれば、大好きになるかもしれないんだって聞いたの。
それが海斗や陸兄だったら、すごく嬉しいかもしれないね」
その言葉に海斗は、顔が真っ赤になり、頭の中が真っ白になる。
「……桜? それって、どういうこと?」
「さあね。私も頑張って考えたんだからさ、海斗も頑張って考えて!」
言うだけ言って、リズムを刻むように桜は走っていった。
口が開いたままだったと、しばらくして海斗は気がつく。
熱い。顔が熱い。これは夏の気温のせいだけじゃないはずだ。
「……なんだよ、わかんねーよ」
頭の中でいろんな考えがグルグル回り、感情が追いつかない。
頭から湯気が出そうだ。
立ち尽くした海斗の背後から、忍び寄る影。
思い切り突き飛ばされ、足に力が入っていなかった海斗は廊下に転がった。
そんな海斗に逆に驚いたのだろう、葉は目を丸くして謝った。
「あ、悪い。まさかそこまで転ぶと思わなくて……」
アワアワと両手を上げたり下ろしたりしている葉をにらみ、うめきながら立ち上がる。
「……葉。見てたな?」
「は? なにを? フラレタなんて思ってないけど?」
海斗の無事を見届けて安心した葉は、口の端を持ち上げて笑う。
海斗は、顔の温度がさらに上がった気がした。
「見てたじゃんか!」
葉が海斗をなだめるように、肩に手を置き、小さい声で言う。
「いーじゃん。ふられてないんだからさ」
「あー、そーだよ! ふられ……はあ? 葉、なに言ってんのさ」
その手を振り払い、恥ずかしさを怒りに変えて歩き出した海斗は、葉の言葉に振り返った。
葉の楽しそうな笑いは、まだ顔に張りついている。
意味のわからなかった海斗が、困惑した表情を見せると、それが本気の顔だと気付いた葉があきれた声を出した。
「おまえ。桜の話の、なに聞いてたんだよ。キライじゃないんだろ?
しかも、桜が好きだな〜って思うことしてれば、彼女になってくれるってことじゃん?」
そこまでは言っていなかった気はするのだが、海斗は頭のモヤが晴れていく。
「あれって、そういうことだったのかな?」
「絶対、そーだろ」
「絶対?」
「当たり前だろー」
なんか葉の言葉に、どうでも良いという感じは伝わってきたが、海斗はそうかとうなずいた。
ふともう一つ、桜の言葉を思い出す。
「海斗と陸兄って、言ってたよな。絶対兄ちゃんには負けねえ!」
右手をにぎりしめ、強く誓う海斗の後ろから、適当さがにじみ出た応援の言葉を葉は投げかける。
そして、海斗に気付かれないように、こそっと舌を出した。
******
――次の日の、登校時刻。
早く出ようが遅く出ようが変わらない、変わらないどころか、日に日に暑くなることに閉口しながら、海斗は元桜通りを行く。
陽射しは今日も、恨みをはらすかのように腕や顔を攻撃してくる。
海斗は口をとがらせて、今日も陽射しに対抗して、腕をさすった。
「なんで、こんなに暑いんだよ。夏休みをもう一ヶ月伸ばしてくれてもいいのにさー」
「おはよー、海斗! 今日も早いね!」
明るい声が聞こえ、すぐに桜が横に並ぶ。
海斗は少し驚いて、警戒しつつ桜からはなれた。
「突き飛ばすの、もうやめたの?」
「ああ、あれ? うーん。だって、海斗。
足腰弱くなっちゃったんでしょ? それなのにやったら、私ひどい人じゃん」
考えもつかないことを言われ、海斗はぽかんと口を開け、思わず立ち止まる。
「あれ、どうしたの? 本当に大丈夫?」
急に立ち止まった海斗の顔を、心配そうに桜がのぞきこんだ。
なにを言えばいいのか、わからない海斗。
二人の背後から、大笑いする声が聞こえてくる。
「おー! なんだよ海斗。これから朝のあいさつ代えてやるから、安心しろよ」
「……葉、おまえ! きのうのこと、桜に言ったな!」
「なんだよー。ほんとのことじゃん。大丈夫、足腰弱くても友達でいてやるからさー。
あ、これって、介護ってやつ?」
真っ赤になって怒りの表情を浮かべる海斗を見て、桜が静かにその場をはなれた。
葉は舌を出しながら、海斗の突き飛ばし攻撃をかわす。
「先行くよー」
少しながめてから、あきれた声で桜が声をかけ、歩き出した。
歩きながら、少しほっとする。いつも通りにいられたことに、正直嬉しいと思う。
今はまだ大事な友達。なくしたくない、大事な友達。
桜の背後から、女の子のように甲高い悲鳴が、細い道に響き渡る。
ちらりと振り返ると、海斗に横腹をつつかれた葉が、細い体をよじりながら謝り倒していた。
あまりにもくだらなくて、桜は細い目をさらに細め、それでもクスリと笑う。
「海斗! そういえば、夢の話ってなんなの?」
思い出したかのように振り返った桜の、突拍子もないそのセリフに、海斗と葉の動きが止まる。
ゆっくりと、ことさらゆっくりと桜を見た海斗の顔は、これまでになく赤かった。
葉が、体をくの字に曲げて、大きく吹き出す。
「……なんでも、ない」
「うそ! なんでもないって顔じゃないじゃん」
海斗の尋常でない態度に、桜にいたずらっぽい笑顔が浮かぶ。
大笑いを続けている葉の横腹をつつき、にらみつけながら海斗は、
「別に。葉と桜が、夢に出てきて踊ってたってだけ」
真実は知らないが、あからさまなウソだと、桜は感じた。
「そう? ひょっとしてハダカ踊りだったとか?」
「ば、ばか! そんなわけないじゃんか!」
さすがに目を丸くして叫ぶ海斗に、桜も笑う。
もう用はないとばかりに、二人に背を向け歩いていく桜。
海斗はその背中を見つめ、ずっと考えていた事を長いみつあみに向かって叫ぶ。
「桜! がんばるから!」
勢いよく振り返った桜の顔は、驚いた顔だった。
真っ赤になった桜の顔。
海斗は、初めていたずらっぽい笑顔で返す。
ためらいながらも、桜が笑顔を作った。
「わかった」
その一言だけで、海斗は嬉しくてたまらない。
笑い疲れた葉が、隣で言葉をこぼした。
「ちぇっ、つまんねーの」
「なんだよ、うらやましーのかよ」
葉にもからかうような声をかければ、それが気に入らないとでもいわんばかりに、葉が口をとがらせる。
「うらやましかねーよ。
海斗が将棋部に入ってくれれば、夢の話なんか今後さっぱり忘れてやるんだけど?」
驚愕の発言をする葉に、海斗は声をひそめながら、まくしたてる。
「……おまえ! 絶対言うなよ! 言ったら、実はボクのお母さんに、好き好き言ってたのみんなにばらすからな!」
「おい。いつの話してんだよ!」
葉は予期せぬ反発に、目を丸くして慌てる。
その反応に、海斗は楽しくて思わず吹き出した。
笑い続ける海斗に、葉は憮然とした面持ちで、海斗の横腹をつつく。
甲高い悲鳴に、先に行く桜は、赤い顔のままクスリと笑った。
読んでくださって、ありがとうございました!
いかがでしたでしょうか〜。
恋愛は避けて通りまくってきたツケが、見え隠れ。
そして、海斗くんには試練ばかり。。それもこれも苦手が後押ししてしまったんだよ〜。
ごめんね。耐えよう! 海斗くん。それも人生よ!(?;
*時間シリーズとして書いた続編をまとめた、目次を作成しました。
下部『そこに在る時間』リンクから、気軽にのぞいてくださると嬉しいです。
*光太朗様から、とても素敵な『時間シリーズ』を書いていただきました!
みんなの特徴をいかんなく発揮してくださってます! 嬉しくて嬉しくて〜♪
後書きあとに、リンクを貼りましたので、ぜひぜひのぞいてみてくださいませ♪
二次創作、時間シリーズ(いただきもの)
・『ちょっとだけ憂鬱な時間』(光太朗様作)