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男女。

 旅路の途中、ふと足を止めた。

 一応草は刈り取られた街道。次の街まで続いているとのことだったが先行きに不安を覚える。本当にこの道通りに歩いていて良いのかと。

 「……違う」

 そうじゃない。俺はこの先を心配してるんじゃない。今まで歩いてきた場所に、未練があるんだ。

 「………」

 振り返らないと決めた。この道をただひたすらに歩くと決めた。だが、この決意を揺るがすような胸騒ぎがして落ち着かない。

 獣人の男が夜空を見上げると欠けた月が青白い輝きを星と共に放っている。あの月明かりが路頭に迷う旅人を導いてくれていた。首が疲れる程に反った体を戻すと追い風が優しく髭を揺らす。

 「………」

 しかしその風は気温も相まって冷たかった。絣のマフラーを巻き直すと男は再び歩き出す。




 別れから何日経ったか。数は嘘を吐かずに事実だけを教えてくれる。けど、そんなものは数字でしかない。数えても仕方のないことだった。

 「はぁ」

 人間の女が溜め息を洩らしてもそれに誰かが反応を示してくれることもない。一人でいる部屋の窓から外を見れば雨音だけがガラス越しに聞こえる。

 「………」

 逢いたい。そう思うことも許されないだろうか。

 以前、ここに怪我をした獣人の男を連れ込んだ。歩いていたらよろよろとした男が現れ、自分の目の前で倒れた。月明かりに男の血痕が微かに反射したのが見えて慌てたのがまるで昨日のように思い出せる。

 怪我が治るまでここにいないか提案したのは自分だった。その前にここへ至る経緯を聞いていたのに、自然と招き入れていた。その理由はわからない。

 「………」

 わからない、と思っていた。だけど今ならわかってしまう。

 自分と同じに感じたからだ。私はこの街に独りきりで生きている。彼もまた、この街へ流れ着いて一人。血の気を失い弱った彼に自分と同じ寂しさを感じたから、自分の居場所を彼と共有しようと思った。

 その晩、彼に肉体を求められて数日経って認識が少しずつ間違っていたと知った。彼は独りで寂しさも持ち合わせていたが、使命感もあった。己のすべき事を遂行できない自分の身体に歯痒さを感じている。知ってしまったからもっと惹かれた。

 「………」

 そう、知ってしまったから……諦めた。彼が私を求めてくれたのが嬉しくて、応えるのが当たり前になってしまう。傷が治るまで、と言ったのはこちら側だ。

 包帯が要らなくなった晩、私を抱きながら彼が口を開きかけた。わかりきっていたことだったのでその口を塞いでしまった。

 「……うぅ」

 わかりきっていたから、自分から身を引いた。膝に乗った彼の頭の重さも、毛並みも、温もりも覚えてしまってから。だから余計に恋しくなる。

 涙が頬を伝う。しかしそれももう、拭ってもらえることはない。

 こんな気持ちになるならば、と気を落とす日もあった。それを誤魔化すために飲んだ酒。いつも彼と楽しく飲んでいた酒は苦くて渋いだけだった。前のように酔えはしない。




 「………」

 周期的に襲う寂しさが日中に来れば、日暮れには落ち着ける。雨が止んでから女は買い出しに出掛けた。生きていくのに必要な衣食住。こんなに気落ちしても食料は絶えず消費される。最近では食料の補充以外で外に出ることは稀になっていた。

 「ちょっと待った」

 食料と酒瓶の詰まった紙袋を抱え家路を歩いていた。路地裏を曲がった直後、背後から声を掛けられる。

 「はい?……ぐぅっ」

 警戒なんてしていなかった。振り向いた時には女の細い首が大きな手に掴まれ、そのまま建物の壁に押し付けられる。その衝撃に紙袋が手から離れた。

 「かは……」

 息ができない。自分の首を絞めているのが獣人だとはわかった。覆面で顔を隠しているがはみ出た鬣は獅子の物のように思える。パニックになりながらそれを理解したところでどうにもできないが。

 「おい、止せ」

 そこに別の声が割って入る。その直後、目の前の獣人は舌打ちをすると首から手を離した。相手の片手すら振り解けなかった。

 「は……っ!くっ……っあ…はぁ…はぁ…」

 足に力が入らず崩れ落ちた。片手で首を擦り、必死に酸素を取り込みながらもう片方の手で

自分を支える。紙袋の酒瓶が割れていたのか液体が手を伝い濡れた。雨上がりのせいではない。

 「目的を忘れたのか」

 制止したのは別の獅子らしき男。彼もまた、覆面で顔を隠していた。

 「ふん、わかってるよ。しっかし……人間ってのは脆いんだな」

 首を掴んだ男が私の目の前に屈む。覆面の奥から見える眼光だけで委縮して身動きが取れない。肩が震え、後退しても後ろにはレンガの壁。どこにも行けはしない。

 「その細い首、片手でへし折れそうだったもんな」

 目を細めて男が笑い、手を握って開いてと繰り返す。

 「で?あの男はどこに行った」

 もう一人の男が淡々と話し掛ける。誰を指してるかはすぐにわかった。

 彼を追ってきた人だ。たぶん、彼に怪我をさせた張本人達。これだけ間を空けてから既にいなくなったことに気付くなんて。

 「………」

 なんて、間抜け。

 「言え!」

 「……っ!」

 それでも怖かった。詰め寄る男の手から自前の鋭い爪が伸びた。

 「おい…!」

 「うるせぇ!」

 もう一人の話を聞かずに私の目の前にいた男が手を振り上げた。

 「ただ喋る気にさ……ぎぃ…っ!」

 「え……?」

 数秒、目を閉じた。しかしその直後苦悶の声を上げたのは私ではない。目の前にいた男の方だった。

 振り上げた男の手に生えるように刃の長いナイフが突き刺さっていた。入りが浅かったのかすぐに抜け落ちるが止めどなく血を滴らせている。

 「探してるのは……俺か?」




 現れたのはマフラーを巻いた獣人。姿を見せただけでなく、あろうことか質問してきたことで二人の獅子は驚いているようだった。その隙だけでも十分だった。

 「その女から離れろ……!」

 簡潔に言って走りつつナイフを新たに二本取り出した。垂直な壁を全力で数歩走り、一人の顔を蹴り飛ばす。

 「がぁぁぁっ!」

 倒れたところにナイフを一本、肩に深々と突き立てる。そこに容赦はない。

 「てめぇ!」

 後ろから爪でもう一人の獅子に斬り掛かられる。血が上っているのか乱暴なだけの突進は難なく避けられた。

 「ぐぅ……!」

 ガラ空きの背中を流れるように逆手へ持ち替えたナイフで切り裂く。そのまま前のめり、肩を押さえる獅子にもう一人が倒れ込んだ。

 「鬼神と言われ、殺す技術がぴか一でも慣れないことはするもんじゃないな」

 「くっ……」

ナイフを向けると二人の獅子は覆面の奥で忌々しそうな目を俺に向ける。しかし立ち上がると彼らは背を見せず、静かに路地裏の闇へと溶けていった。

 「逃げられたか」

 気配が消えてからやっとナイフを下ろしてしまう。緊迫していた空気が一気に抜けて座り込みたかった。

 「………」

 でも、そうもしていられない。振り向けば彼女がいる。彼女の前で格好の悪い姿は見せたくない。

「ごめん」

 見れば、割れた酒瓶を両手で持って彼女は震えて立っていた。足元もおぼつかず、今にも倒れてしまいそうだった。マフラーをずらし、口元を出して男が腕をそっと広げる。すぐに酒瓶を捨てて彼女は男の胸に飛び込んだ。そのまま彼女は自分の唇を相手の口吻に押し付ける。

 怖かった。遅い。死ぬかと思った。最低。どんな叱責や罵倒を投げられるかと思った。自分が彼女に関わったことで巻き込まれると考えたこともあった。

 最初に彼が受けたのは冷たい言葉ではない。熱いと感じる程の彼女の温もりだった。

 「……どうして?」

 長い接吻を終えどちらともなく顔を離すと彼女は俺の腕の中で聞いてきた。

 「また会いたかった。……やっぱり離れたくなかった。それだけだ」

 少し屈んで彼女を抱き寄せる。首筋に鼻を押し付けその匂いで胸をいっぱいにした。忘れられなくて、手離したくなくて、独占したくて堪らなくて。引き返す理由にはそれだけで良い。

 「………でも」

 腕の中で俯いたのがわかる。

 「……でも、また旅に出……」

 彼女の口を今度は俺が塞いだ。すぐに離れて首を横に振ると彼女ははにかんだ笑みを見せる。そこで気付いてしまった。

 「……痕になっているな」

 彼女の首が赤く腫れて手形を描いている。その指摘に彼女の笑顔が消えかけた。

 「待って」

 その前に俺は自分の首に巻いていたマフラーを彼女に巻く。

 「うん、これで見えないな」

 男は様々な角度から彼女を見て確認する。マフラーの布はしっかり彼女の首を守ってくれていた。

 「でも、これ……」

 「やっぱり君が巻いていた方が似合う」

 俺が言うと彼女は微笑んで胸に顔を押し付けた。

 「このマフラー、あなたの匂いがする」

 「……そうか」


 今夜は月が無い。しかし星の瞬きだけで照らされた影が何度も重なる瞬間を、空は何も言わずに見守っていた。



                                 了

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