男。
欠けた月光が電灯の消えた街を照らす。その光を浴びて一人の男はふらふらと歩いていた。
「う……」
歩く度に腕から伝う液体が地面に敷き詰められたブロックへ水玉模様を描く。それが血だと気付かれない程度には人の目から外れた。早くとも知られるのは早朝だろう。
なんとか街外れに来たものの、その後を考えていなかった。ここまでで体力は絞り尽くしている。眩暈がして動きが取れん。
「はっ……はぁ…」
壁に背を預けて息を吐き出す。その度に視界が狭まっていくような錯覚に陥る。
そこに、足音が聞こえてきた。
「………!」
まさかここまで追って来たか。今から逃げ切れるか。それとも刺し違える気で戦うか。思考の纏まらぬままに男は壁から背を離した。
「ぐ……」
途端に身体が揺れる。それを支えることもできずに男はその場に倒れた。
冷たいブロックに頬を付けて尚も近付く足音の方へ目を向けた。もう武器を掴むことも、傷を押さえることもできないのに。
暗がりからそれは出てきた。見えたのは毛に覆われていない細い足。
人間の、女……?
かろうじて、それだけ確かめると男は意識を手放した。
痛みに呻く自分の声で目が覚めた。最初に目に映ったのは薄暗い部屋の天井。元は白かったのだろうが今はくすんだ灰色になっている。
「うぐ……っ!」
まずは一息、と思ったが息を吸うのも肋骨に響く。痛む肺に手を伸ばし自分が服を着ていないと気付いた。
「あ…?」
身体のあちこちが悲鳴を上げているがなんとか身を起こす。掛けられた毛布を剥がして己を見ると上は裸で包帯が毛皮の上から巻かれていた。
「…………」
それだけ確かめると男はぼふん、と音を立てながら枕に頭を預けた。もうしばらく起き上がれそうにもない。
助かった、らしい。それだけわかれば良かった。
「………ちっ」
裏では鬼神、なんて仰々しい通り名で呼ばれる獅子獣人の二人組を相手に男は襲われた。顔を見ることはできなかったがあの体格や鬣を見て獅子とは確信する。極端に姿を隠すその暗殺者から生き延びたのは昨晩が晴れていたからだ。月の光に彼らは目立ち過ぎる。
それも街外れ、人気が少ないあの場所なら再び襲われてもおかしくない。本当に運だけでここにいるようだ。先行きを考えると舌打ちが出てしまう。
「何が気に入らないの?」
そこに聞こえてきたのは凛とした鈴の音のような声。天井から聞こえてきた方へ目だけ動かすといつの間にか扉に女が背を預け立っていた。
「……アンタが助けてくれたのか」
絣のマフラーが印象的な女は頷くと扉を開ける。
「おい、話はまだ……」
「お腹が空いてるから機嫌悪いんでしょ?スープで良ければ温めてくるけど」
それを聞いて包帯の巻かれた腹を押さえる。手で軽く腹筋を押すとその奥から何か生き物の鳴き声に似た音が響いた。
「決まり」
「……すまん」
笑うと人間の女はマフラーを外しながら部屋の外へと消えて行った。
スープが温まったと言うと女は俺に肩を貸して居間へ案内した。昨晩は意識がなかったからもっと運ぶのが大変だったと女は笑う。
「どうかした?」
「いや、何も」
どこかの貸家らしく部屋は広くない。足取り悪く廊下から居間へ移動するのもほんの数十秒。起き上がりさえすれば思ったより傷は痛まない。痛まないのだが……。
「そこ、座れる?」
「あぁ」
とかく良い匂いがした。スープの香りも食欲をそそったが、それ以上に自分の傍らにいた女が。自分がその女に欲情したのは恐らくその瞬間だった。
どうしてそんな気になったかはわからない。だが俺は食事の片手間、自分の今までをつらつらと話し始めた。自分の生い立ちや旅をしていること、その途中で妙な奴らに目を付けられたこと、そしてこの街で追い付かれ襲われたこと……。女は俺にパンを勧めながらその話を熱心に聞いてくれていた。
「傷が治るまでここにいない?」
一通り話し、更にスープを何杯か平らげてから口を開いた女が奇妙な提案をしてきた。
「お前が構わないなら」
自分がどういう獣人かは話したつもりだった。それでもこの女は物怖じすることも無い。
思い返せば自分でも驚く程に無遠慮のまま即答していた。この女から離れたくない一心だったのは言うまでも無い。
夜になると酒が振る舞われた。安っぽくてまずい、渋いだけの酒だったが不思議と笑みが浮かび、俺は酔っていた。
風呂が傷に染みるならと女は蒸しタオルを持って俺の体を拭いた。成されるがまま尻尾や足裏の肉球までも。
それも済んでゆっくり寝るよう言われ女は背を向け電気を消す。俺は気付くと肩を掴んでその女をベッドに押し倒していた。そこで一瞬だけ冷静さを取り戻す。
「傷に障らないの?」
「正直今はそれどころじゃない」
我に返りつつもかろうじて答える。それを聞くと女はクスクス笑い、俺の頬や尖った耳を撫でて自分の方へとゆっくり引き寄せた。
己の話はしたが彼女について知っている事はほとんど増えていない。
知っていることと言えば、体を重ねてこちらの傷が痛むと余裕を見せて意地の悪い笑みを浮かべる。それに負けじと腰を振れば途端に顔を赤らめ快楽を貪った。誘ったのは俺の方でも一度情事に至ればどちらともなく盛りがついたように指を絡めて夜を深める。それだけで満ち足りていたのだ。
通りに枯れ葉舞う日中、二人で買い出しに外出した。またどこともなく襲われる可能性もあったが、それすら瑣末に思える程に楽しかった。段だらの縞模様のマフラーを巻いた彼女はくしゃみをすると俺の手を握り温かいと微笑む。
雨の日に外へ出れば寒いからとそのマフラーで口元も隠す。人間は毛皮がないから不便だな、と言うと夏は毛むくじゃらだと鬱陶しいでしょうねと返された。
そうして日々が過ぎてゆく。その過程で自分の傷も塞がっていった。完全に塞がる頃にはこの暮らしに馴れてしまう。
傷が癒え、包帯を解く。そこから出てきたのは部分的に毛のない桃色の新しい肌。それを見て俺も彼女も寂しそうに苦笑した。
そのまま彼女の服も剥いで一つに繋がる。そこに言葉も同意もない。
この日々も終わる。自分が彼女へ抱く気持ちを思い返しているものの、動いた腰は止まらず彼女へ届くのは雄としての主張のみ。
それでも言わねばならないと口を開く。しかしそこに人差し指が静かに押し当てられた。
指が離れると彼女はふるふると首を横に振った。窓から射す月明かりが彼女の涙を反射する。
旅に戻ると今言うことではない。言葉を交わしてまぐわうのは風情にも欠けた。ざらついた舌で彼女の若干塩辛い液体を舐め取ると噛み付くように唇を重ねる。今の自分に必要なのは目の前の源泉に溺れるだけの情欲だった。
翌朝、目が覚めると彼女はいなくなっていた。その部屋がもぬけの殻になったわけではない。部屋の様子は昨晩のまま。それなら出掛けただけで待っていれば彼女も戻って来るのかもしれない。
しかし彼女のいない部屋に決定的な違いが一つあった。何が無くなった、ということではない。いつもなら無い筈の物がその場にあった。
自分が倒れた際に身に着けていた服がベッド脇の椅子に置いてあった。その綺麗に縫って修復された服の上にあったのが絣のマフラー。彼女がいつも出掛ける時は肌身から離さなかったものだった。
「…………」
男は黙って袖に腕を通し、しばし躊躇ったがマフラーを首に巻く。姿見鏡に映る自分にはお世辞でも似合うとは思えなかった。
「……世話になった。また………」
誰にともなく空の部屋で呟くとマフラーを巻いた男はその部屋に戻らなかった。