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白魔

白魔

作者: 星水晶

 日が西に傾いてからもうどれくらいの時間がたったのか。目の前は真っ白に吹きつける吹雪。時にうずまき、横なぐりに叩きつけ、上からのしかかり、もう身をかがめ、自分の足元しか見ることができない。自分の足と、前を歩く者のかかとだけだ。

 真冬にギザール山脈を越えるのは自殺行為。宿場ごとに止められたのに、隊商の主は忠告に耳を貸すことがなかった。神の山が雪に埋もれる前に、カルキオル峠を通過できるはず。旅慣れた者と自負心におぼれた商人は、自分の経験と判断を過信した。

 商人のすぐうしろで、吹雪に耳目を奪われた馬が、突然狂いだして馬子の手を振り切って谷に落ちた。苦鳴は風圧に閉ざされた耳にも長く尾をひいた。一同の背には冷や汗が流れ、それは一瞬にして薄く凍った。次はおのれかもしれない。みなそう思った。

 落ちた馬は南方産の駿馬の最後の一頭だ。商人の頭には「金貨20枚の損」と刻まれた。この後におよんでなお、命の危機より損失を案じる頭を持っているという意味では、この商人はやはり傑物というべきだったのかもしれない。とはいえ、すべては命あっての物種。


「カルキオルで恐ろしいのは、峻厳な山道と吹雪だけではない」

「白魔が一番恐ろしい」

「万一にも白魔に出会ってしまったら、絶対に抵抗してはならない」

「白魔の目をみるな」

「生贄をさしだし、白魔の目がそれを見たら、命の限りに逃げるのだ」


 山脈の手前、最後の村で聞かされたことば。その時は話半分に聞いていたが、今となっては「白魔」の一語が頭をはなれない。


「その白魔とはなんだね。十年前にギザールを越えた時にはそんな話はなかったぞ」

「白魔が出るようになったのは、ここ七、八年じゃ」

「悪いことはいわない。峠越えをあきらめて南へもどるがいい」

「でなければ、生贄を決めておくことじゃ」

「生贄はヤギとか犬でいいのか」

「馬鹿なことを。人に決まっておる」


 村長は声を落として周囲に目をくばった。さすがに外聞をはばかる内容だ。


「あんたもまさか使用人を差し出すわけにもいかんじゃろ。生贄用の人間を買っていかんかね」

「ふぅん。それがねらいか」

「村共有の非人の奴隷がいるので、売ってやってもいい」


 村長のめくばせで下男がひきずってきた襤褸のかたまりを、商人はすばやく値踏みした。十二歳ほどのこどもだ。櫛などいれたことのないぼうぼうの頭は汚れた灰色。顔も手足も、もとの皮膚がみえぬほど汚れ傷痕だらけだ。麻袋のような襤褸を着て縄を腰に巻いている。


「これじゃ荷物ひとつ担げないだろう。無駄飯食らいを養ってやる余裕なんてないぞ」

「動物の世話はうまいんじゃ。こうみえてけっこう力もあるし、水汲みや掃除にも使える」

「おい、片手がないじゃないか」

「こいつを拾った時には、もう左手がなかったんで」

「口もきけないが、こっちのいうことはわかる」

「犬なみにはな」


 下男がこどもをこづいた。村長はいやな笑い顔を見せた。


「気にせんでもええ。こいつは北では「亜人」と言われるひとでなしじゃ。そうさな、南でいうところの「獣人」じゃよ」

「何年か前、半分凍った青目川に流れてきよったのを村で拾ってやったのじゃ」

「白魔は命あるものに目をやる。亜人でも問題はない」

「白魔は生贄をどうするんだね」

「しれたこと。食うんじゃよ」


 ふと吹雪がとまり、風が死に、凍った冬の夜空が見えた。ごうごうと鳴る耳鳴りを切り裂き、遠吠えがこだました。

 一同顔色を変えた。

 白魔だ!


 無慈悲な魔物の声は、不思議と魂を切り裂くほど深い悲しみを帯びていた。

 遠吠えは山に響き、ところを変えて反響した。移動しているのか。それとも白魔は一頭でなく群れなのか。商人はここに来てはじめて、背筋がこおりついた。


「旦那!来ますぜ!」


 護衛の頭が声を絞り出した。

 先ほどまで雪以外なにもなかったカルキオル峠になにかが立ちふさがっている。

 それは見たこともないほど巨大な雪狼だった。

 銀白色の体毛に覆われ、背は峠の避難小屋の屋根を越すとみえるほど。


「目を見るな」


 商人は顔をふせて小声で言った。

 わかっている。そんなことは誰もが。

 それでも、一同は無理強いされるように顔を上げた。

 劫を経たけものは「魔」となる。

 これは化生のもの。

 これが「白魔」

 「魔」には「魔」のことわりがあり、それは人のものにあらず。


 峠道をふさいだはずの巨大な白魔は、須臾の間にして白衣をまとい長い銀の髪をたらした人型にかわった。商人は歯の根もあわぬほどふるえた。

 劫を経た雪狼にみえたものは、それとはまったく異質なものだった。

 化生ではない。

 生粋の妖魔。しかも妖力甚大の。

 この世にあってはならぬほど美しい人型は、雪道の上につま先をおろした。峠道に隊商を認め、ゆっくり歩み寄ってくる。


「ぼ、ぼろを出せ!」


 誰かがうしろからこどもを押し出し、商人はそのほそい腕をつかむと、峠の雪道に投げだした。

 生贄だ。

 魔物が生贄に気をとられたすきに、命を限りに逃げ出すのだ。

 あたり一面、キーンと張りつめた空気。重圧だった白魔の視線がふとこどもにうつった。一同のかなしばりが緩んだ。


『るーね?』


 こどもが顔をあげて白魔を見た気配がした。


『かえってきた?』


『るーね かえってきた かえってきてくれた』


 白魔がこどもに飛びついた。

 一同の頭の中に、人語とはちがうことばがとどろいた。

 それは心が痛くなるほど切ない、甘い、哀しいことば。


「今だ」


 一同はがくがく震える膝をたて、四つん這いになって峠を転げ降りた。商人だけは最後に後ろを振り返った。


 紺瑠璃の夜空に銀河が冴えわたり、そこを横切って流星のように飛ぶ銀白色の巨大な雪狼。その口にはしっかりとくわえられた灰青色の仔狼。


 冬のカルキオル峠を越えるものは、このあと誰一人としてなかった。



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