口紅が嫌い
物心つく前から、俺は口紅が大嫌いだった。特に色の濃いのを見ると、無意識に顔を顰めているくらい気分が悪くなる。それで彼女に殴られたことも一度や二度じゃない。
「人間の色って感じがしない。リップでいいだろ」
「何よあなたのためにオシャレしたいってせっかく……サイテー!」
別れる時はいつもこうだった。しかしこうまで悪影響を与えているのに、俺は原因がさっぱり分からなかった。
しかし今日、昔のアルバムを見ていて思い出した。
母だ……。
病院でベッドに座る母と、泣いて父親にすがる五才の俺。当時の記憶が蘇る。
母は癌で亡くなった。亡くなる前の数ヶ月はひどい闘病生活だったらしい。立つのもおっくうで、寝ていても全身が痛む。
そんな母が、亡くなる数日前に化粧して病院で待っていた。七五三帰りの俺を。
だが俺は泣いた。はっきり言うと、母が気味悪くて泣いた。
顔色が悪いのを隠そうとして真っ白な顔。血色が悪いのを誤魔化そうとして真っ赤な唇。当時幼稚園児だった俺にはお化けに見えた。
それでなくとも、俺は病院に行くのが大嫌いだった。初めて行った日、発病前の母を思い出して行ったら、別人かと思えるくらいやつれた母が出てきた。驚いた。それよりも怖かったのは周りの反応だった。明らかに母がおかしいのに、何も変わってないように普通に振る舞っているのだ。「調子はどう?」 「今日はいい感じよ」
ここに来るとみんなおかしくなるんだ。子供だった俺はそんなバカなことを考え、病室の隅から動こうとしなかった。「どうしたんだ、ママだぞ?」 「……」
何で何も言わないんだ、ママがおかしいじゃないか、そこに気がつかないなんて、せんのーされてるのかもしれない! ぼくだけでも近づいちゃだめだ!
「……病院のアルコールの臭いが嫌なのかな。ごめんね」 「いいの。子供だから……」 帰るときは随分ほっとしていた俺がいた。
今思うと、事前に父さんが「お母さん、病気だからちょっと痩せたけど、気にしないで」 くらいのフォローをしてくれればちょっと違ったと思う。子供だから気にしないと考えていたのかもしれないが、子供だから刺激が強すぎた。
そして七五三の日。あのお化けのような化粧をした母を見て俺は泣いた。数日後、母は亡くなった。
思い出してたまらなくなり、仏壇で線香をあげる。
その日から、口紅の苦手意識は少しだけ和らいだ。




