思う
「さあ、今日、この時間は無礼講だ、食べて飲んで、馬鹿みたいに陽気に騒いでくれ、乾杯!」
その言葉の後、この場にいる、真っ黒な喪服を着た者達が、声をあげて騒ぎ出す。昔話に花を咲かせている者が、ガラスのコップにビールを注いで、苦く、刺激のあるそれをゴクゴクと嚥下していく。子ども達はお茶だとかジュースをコップに注ぎ、テーブルの上にある食べ物を喰らいながら、数少ない子供達で固まって盛り上がっている。大人達は、やいのやいのと、今の世の中はどうだとか、俺の子供の時なんかあゝだったと、早々に酔いが回り始めた奴らが我先にと語り出し、それに便乗して騒ぐ奴もいれば、騒ぐ奴らを肴にちびちびと酒を飲む奴らもいる。女達は騒ぐなんて事はせず、男の輪から外れて女の輪を作り、強かな女性達は己の自慢を交えながら世間話をしたり、ファッションの話し、自分の子供の話、五月蝿い男達の中に残り、自分の夫や付近の人達に酌をする奴もいる。子供達は今流行のゲームやらの話しをしながら、持ってきた携帯ゲーム機で遊んでいる。
この三十いるかいないかのこの場所だが、人の個性は十人十色と言ったもので、辺を一つ見渡せば、ただ騒いだり飲んだりするだけでも、人それぞれの人柄が見て取れて、愉快なのか、気持ちを定かには出来ないが、些かの微笑みを浮かべている俺は、ビールの注がれているコップを片手に、酒を呑む気分にもなれず、騒げやら何やら、乾杯の音頭を取っていたにも関わらず、それに反して飲みもしなければ食べもせず、ただ静かにぼーっと、この騒がしい会場を隅から眺めている。
暮れ方の頃から始めて刻々と時間は過ぎ去ってゆき、何時の間にか時刻は十一時頃になり、お開きの時間となる。結局、俺は、促されるままに、出された食べ物を食し、注がれた一杯だけのビールを飲んで、後にはお茶を啜るだけだった。
「さてと、今日は十分騒いでくれただろうさ、後は帰ってゆっくり休んでくれ。また明日顔を見せることになるんだ、辛気くさい顔で来られたら困るからな、それではまた明日、元気な顔をして来てくれ。」
そう締めくくって、騒いでいた男たちも、世間話をしていた女達も、ゲームをしていた子供達も、中には若干、千鳥足になってふらつきながらも自分の靴を履いて出て行った。空になった壜とか食器とかが片付けられて、綺麗になったその場に布団を敷く。誰も彼もが去ったこの場所で、たった一人、俺だけが眠るのだ。既に眠ってるこいつも入れたら二人になるが、こいつはこれから先、起きることはない。冷たくなって花に飾られて、木の箱の中に眠っている。こいつが眠っている木の箱のすぐ近くの壁に背中をまかせて、一つ、俺は明りのついた天井を見て溜息をついた。こいつと連れ添ってきて長い。眠って木箱に入ることがわかった時には、常に傍らにいた半身が喪失したようで、涙を流して泣くよりも、心にポッカリと穴が開いたように、虚脱感やら、それからくる虚無感やらが身体を満たして、ただ呆然としていた。
最近、結婚する夫婦たちというのは、離婚までが早いと、つくづく感じたりするが、俺がこいつと一緒に歩んだ時間は三十年を優に越していると思う。直ぐに断言できないのは、最早隣にいて当たり前だった存在なのだ、お互いにここまでくると一年一年の結婚記念日や何やらというのは重要じゃなくなり、時たま思い出しては、何時もより少しだけ贅沢をするくらいだった。勿論若い時には仲違いしたことも何度かあったが、お互いに言いたいことを言えたということが、長らく連れ添えた秘訣だろうか。だがやはり、言い争うのは若い時だけで、だんだんと年を取れば、お互いが何を考え、何を欲し、何をしてほしいか、大体は予想がつくようになった。時間が経てば勿論のこと二人の距離感が変わる。若かった頃は喧嘩して、どなりあっては仲直りして、そうやって更に二人の距離を縮めて、時間が経てば二人、隣にいる時間が何よりの安らぎの時間になって、子供が独り立ちして俺達のために貯めた給料はたいて豪華な、といっても普段から見たら豪華に見えるだけで、実際にはただの旅行だが、それでも俺達親の為にやってくれたっていうことに、柄にもなく俺もこいつも、旅先のホテルで二人泣いたのをよく覚えている。子が親に返さなくてもいい恩を返す、そのことがどうにも、普段、涙を流すほど感動すると謳われていた映画を見ても泣くことのない自分だが、言いようのない感情が溢れて泣いてしまった。
基本的に俺は子が親に恩を必ずしも返す必要はないと思っている。と、言うのは、子と言うのは親が勝手に生み出したものだ、それに自分から食事をやり、勉学を教えて、社会を学ばせるのは最早一種の娯楽の内ではないのかと思う。子は望んで世に出てきたのではなく、俺とこいつの自己満足で出来たようなものだ。
と言ってもまあ、こう考えているのも、結局は俺だけで、こいつも、あのドラ息子も、そんな考え一片も持ってないのかもしれないが。
息子の成長を考えていたら、ふとそこから記憶を辿るように、こいつと出会った昔を思い出した。あの頃の日本なんてものは発展している最中で、携帯電話なんて便利な物は人々の間では普及するどころかなかった。洗濯機もテレビも、一括で払える額じゃなく、買うところはみな月賦で払っていたものだ。小さな子供達はテレビを持っている所に入り浸っては塾やら何やらをすっぽかしてよく母親に叱られたり、怖い父親が、ただでさえ怖いのに怒りに顔を歪ませて怒鳴ったものだ。その頃の俺と言ったら成人に成ったばかりで、何とか入れた会社から首を切られないように我武者羅に働いていた。俺が会社に入って一年後に後輩として入ってきたのがこいつだった。お互いに慣れない職場で、一年、こいつより働いていた俺は仕事の基本をこいつに教えることになり、それでもたった一年、有利なだけの俺だと至らない所が出てくる。そんな所をこいつと俺は二人三脚で支えあいながら仕事をこなしていった。
何時の間にか同僚から友人に変わり、恋人に変わり、夫婦になった。ドラマでやるねっとりとした恋愛や学生時代の正に青春と言ったような恋愛でもなく、何時の間にか隣にいるのが自然で、支え合わぬ事のほうが不自然になっていた。そんな俺達の関係は、友人も恋人も夫婦も、結局は名前だけで、あの時からずっと、特別何か変わったわけではないのだ。
結婚式は身内と友人たちを少し集めて慎ましく行なって、新婚旅行で奮発して若干高めの温泉めぐりをして、そこからまた、発展途中の日本での忙しい日々、思えばようやく落ち着くことが出来たのはこいつと結婚して三十年以上たった最近の事だったのかもしれない。それ程までに、激動の日々を送っていたのだと実感する。不満があるとすれば、頑張って生きてきたこの日本が今、かなりの瀬戸際に立たされている所だろうか。若者は政治に加わることを放棄するものが後を絶たず、お国はアメリカにベッタリで離れようとしない。全国の日本人の財布の紐は固くしまってお金が回らず、行くも戻るも地獄になってしまったことか。
そう思うとこいつが死んだのはちょうどよかったのかもしれないな。原発は爆発して放射能が駄々漏れ、お国の政治は迷走中、そんななかただしぶとく生きるよりかはここらで死ねたほうが楽でいい。俺も長生きするつもりもなしにすっぱり死んでしまいたいが、どうも身体が丈夫過ぎて何時死ねるかわからんしな。
考えてみればこんなにも過去を見返して、こいつとの事を思い出したのは初めてかもしれない。ついぞここまで思うとは思わなかった。こいつが先に逝くとも思わなかった。出来ればもう少し、もう少しだけ、落ち着いた時間が欲しかったと、改めて思う。何だか思うことばかりだな。それだけにこいつの存在は、俺にとっては欠かせないものとなっていたのだ。
何度溜息を空に投げただろうか、宴会の終わった静かなこの場所で、一人だけというのはどうにも広すぎる。どこか寂しいような、落ち着くような、そんな気持ちを胸に抱きながら依然としてただぼーっとしていると、横から襖を開ける時に出る、擦れた音がした。呆れ顔をしながら、やってきたそいつに言った。
「随分と遅いな。今日は来ないんじゃなかったか?」
「上司に頼み込んだら何とか許してくれたんだ。遅くなったけど別にいいだろ。」
顔に苦笑いを浮かべて、若干の疲れを見せながら一人でやってきたのはドラ息子だった。
「来るにしたってお前さんの嫁さんや、俺の孫達はどうしたんだよ。」
「今日は一人だよ。無理してきたから彼奴等には言っていないんだ。明日には来るよ。」
「なんだ、孫共の顔は明日まで拝めないのか、残念だな。」
俺は少し露骨に顔を歪ませて、息子の目の前で息を付く。
「なんだよ、せっかく息子がいち早く此処に来てお袋の顔を拝みに来てさ、一人じゃ寂しいって夜も眠れない親父に会いに来たってのにさ、そんなに残念がるなよ。」
息子はケラケラと咲って俺に言った。
「無理に明るく気を持とうなんて思うんじゃねえよ。悲しかったら泣くのが人間だ。無理に咲っても、顔が不気味に歪むだけだぞ。」
咲っている息子の顔は、明らかに無理をして、今にも涙を流そうとするのを抑えて、気丈に振舞おうとしているのが目に見えた。
「今ここで泣いたらみっともないだろ。泣くのは明日で今は咲うって決めてるんだよ。」
「そうかよ、まあ、泣きたくなったら言えよ、俺の胸くらいは貸してやるさ。」
「野郎の胸に飛び込むなんて真っ平御免だよ、ましてや親父の胸に飛び込むなんて気持ちが悪くて出来るもんかよ。なんなら親父、俺が胸を貸してやろうか?」
「それこそ御免だな。何が悲しくてこんなドラ息子の胸に飛び込まなきゃいけないんだよ。俺が次に飛び込むのは墓石の中って決めてるんだ。」
「縁起でもねぇこと言ってんなよ。」
軽口を叩き合っていたのが、何時の間にか二人の中に湿っぽい、感傷に浸るようなそんな空気が包んだ。
「なあ親父。」
少しの沈黙の後に息子が口を開く。
「お袋、死んじまったな。」
「そうだな。」
「俺、お袋に何かしてやれたかな。」
「……十分してやってたじゃねぇか。こいつが死ぬまでお前が生きてその成長を見せてきたんだ。それに前に旅行まで連れて行ってもらったんだ、不満なんてなかっただろうよ。」
「でも、お袋が死ぬ時、立ち会えなかったし、それに旅行を連れて行ったのだって結局たったの一回だったじゃないか。それで良かったのかな、それで本当に良かったのかな。」
「男がうじうじとするなよ気持ちが悪い。」
「だって、お袋や親父とだって、休みを使えばもっと一緒にいれたし、もうちょっと何か出来たかもしれないだろ?」
息子は俺の隣で床を向いて、しなくてもいい後悔を口からぽつりぽつりと落としていく。
「なあ、勘違いしてるようだからよく聞けよ。」
黙って聞いていたら、何だか苛立ちが心を占めて、久しぶりに叱るような口調で言葉を投げる。
「俺やこいつはお前に何かを期待していたわけじゃないんだよ。俺とこいつの間にお前が生まれて、お前が成長して行く姿がたまらなく嬉しかったんだ。昔は泣き虫だったお前が、今ではいっちょまえに会社では部下を引き連れて、家には嫁さんと子供がお前の帰りを待ってる。それにこいつは孫達に会えた時、そりゃもう喜んでいたさ、お前も覚えているはずだ。」
「覚えてるよ、あの時のお袋、何時にも増してはしゃいでさ、子供達を甘やかしすぎるから少しこっちが怒ったくらだった。」
「そうだったな、それにな、お前が俺達を旅行に連れて行ってくれた時、俺もこいつも泣いたんだ、知らなかっただろう?もう満足だったんだよ、胸がいっぱいでさ。だから気に病むな、後悔するな、今、この時間だけは明るく過ごすんだろ?」
熱く語って、何時の間にかどこかを向いていた視線を息子に向けると、目尻に涙をためながら、それでも無理やり笑顔を作ろうとする息子がいた。俺はそっと肩に手を回して言葉を続ける。
「やっぱりお前は泣き虫だよ。お前の嫁さんや子供達がここにいなくて良かったな。泣けよ、泣くのが自然だ。それに、今なら俺も一緒に泣けそうだ。」
「はは……親父も泣くのかよ。いかつい顔で泣いたって気持ち悪いだけだぜ。」
「そうだな……。」
俺も息子も黙りこんで、無言のままに泣いた。俺は今頃になって、こいつがいなくなった悲しさが押し寄せて、息子は母の死が悲しくて、鼻を啜って泣いた。
時間が経って落ち着いた頃、ようやく時刻が深夜二次を二時を回ろうとしていることに気がついた。息子は奥からもう一つ布団を持ってきて、俺は息子が布団を敷き終わるのを待たずに毛布の中に身を包んだ。
「なあ親父。」
目を瞑ってから少し後、隣の息子が呼びかけてくる。
「こやってさ、親父とお袋と俺で、三人で寝るのは何時ぶりかな。」
「わからんよ、ずっと、ずっと前の事だったからな。」
「そうだよな、ずっと前の事だったよな。」
「懐かしいのも分かるが、もう寝ろよ、どうせ明日は今よりももっと、泣くはめになるんだからな。」
「あゝ、わかってるよ、なあ親父、明日俺が、さっきよりもずっと沢山泣いたらさ、親父も一緒に泣いてくれよ、流石に一人じゃ恥ずかしいからさ。」
「そうだな、子供の恥は親の恥って言うからな、泣いてやるさ。」
「……有難う。」
「……おい、嫁に先立たれた一人の男からアドヴァイスだ、ちゃんと聞けよ。自分の嫁さんを大切にしろ、俺は、今の今まで、大切だった自分の嫁を思ったことは、嫁が死ぬまで一度もなかった。死んでからやっと、思い出すように嫁のことを深く深く思ったんだ。本当に遅すぎるぐらいにな。だから何時とは言わない、でも時々思ってやれ、じゃないと後悔する、絶対に後悔するからな。……何も答えるな、何も話すな、寝ろよ。明日は早いんだ。もう寝よう、何だか凄く疲れたんだ。」
言いたいことを言い切って、気づかなかった疲れが身体を襲った。親として、子にこんなにも恥ずかしいことをいうことはもう無いだろう。息子の方からは何も聞こえない、ならさっさと寝てしまおう。夜が明ければやることが沢山あるんだ。 ーー了ーー
pixivに投稿しているものをこちらでも投稿させて頂きました
ここ最近、この小説家になろうで活動をしていなかったので
何かしなければと思い立った次第です
拙い文章ですが
温かい目で読んでくだされば幸いです