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きつねまつり

作者: 葵 くるみ

 ――すぐにもどってくるよ。

 あたしがそのひとの言葉を聞いたのは、それが最後だった。


 もう十年ちかくも前の、暑い夏のことだった。あたしは母さんの実家に帰省していて、おばあちゃんの家のそばに住んでいるいとこたちとしょっちゅう遊んでいた。その中でも特に拓也お兄ちゃんはいつもあたしと仲良くしてくれた。拓也兄さんはこども心にも頼もしく思える人で、あたしより八つほど年上。加奈子、と言うのがあたしの名前だけど、その人はかなちゃんと呼んでくれた。

 あたしは一人っ子で、父さんは単身赴任で海外に住んでいた。それがたとえばアメリカなどならば一緒に行ってもよかったのかもしれないけれど、名前も聞いたことがないような小さな国だったから、母さんとあたしは日本にある自宅で留守番。母さんもわざわざ危険な場所に行くのをためらっていたらしい。

 でも住まいは手放したくなかったので、団地街の一角にある、ローンで買ったばかりのマンションの一室に住んでいた。あたしも小学校に入ったばかりだったから、学校の友だちもたくさんできたし、この場所から離れるなんて考えたこともなかった。年に一回は、父さんも帰国してくれたし。

 そんな、小学校に入ってすぐの夏休み。

 あたしは母さんと一緒に、おばあちゃんのおうちにお邪魔したのだ。


「やあかなちゃん。よくきたねぇ」

 おばあちゃんはしゃんと腰を伸ばしたすてきな人で、よくマンガにありがちな『いなかのおばあちゃん』ってかんじはあんまりしなかった。まあ、実際いなかとはとうてい言いがたい場所におばあちゃんは住んでいた。おじいちゃんは早くに亡くなったのであたしは覚えてないんだけれど、その遺産とそれまで住んでいた家を売ったお金で、ずいぶん便利な場所にマンションを買って、そこで悠々自適の生活をしていたのだ。

 その近所に、拓也お兄ちゃんたちの一家も住んでいた。

 拓也兄さんは三人きょうだいの真ん中で、さらに年上の和美姉さんと、拓也兄さんのすぐ下の妹のゆかり姉さんがいた。和美姉さんはそのころはもう大学生でひとり暮らしをしており、実家にいることのほうが下手すると少ない人だった。ゆかり姉さんもちょうどそのころは中学生になったばかりだったと思うのだけど、ちょうど部活動とかで忙しかったのだろう、その年に限ってあまり顔を合わせた記憶がない。

 あたしはたいていゆかり姉さんになついていたから、それはすごく残念だった記憶があるのだ。

 三人きょうだいの両親は母さんのお姉さんに当たる伯母さん夫婦で、いつもあたしたち一家のことを気にかけてくれていた覚えがある。

「おばあちゃん、こんにちは」

 あたしはそういってぺこんとおばあちゃんにお辞儀をする。おばあちゃんからみると一番年下の孫だったあたしは、よくかわいがってもらっていた。あたしはそんな自覚は少なかったけれど、でもおばあちゃんにはよくなついていた。おばあちゃんのつくるジャガイモいっぱいのコロッケとか、遠縁からよく送られてくる新鮮なくだものとかは、おばあちゃんの家でしょっちゅうごちそうになっていて、あたしの大好物のひとつだった。

「かなちゃん疲れたでしょう。冷たいジュースがあるよ」

 あたしはその言葉にこくこくうなずいて、あわててサンダルを脱ぐ。

「こら加奈子、そんなにあわてないの」

 母さんの声が後ろから聞こえるけれど、そんなのは聞こえないふり。のどがからからだったあたしに、冷たいジュースはとても魅力的だったのだ。そしてあわてて居間にお邪魔して、そこで拓也兄さんに会った。

「おや、誰かと思えばかなちゃんじゃないか」

「あ、たくやおにいちゃん!」

 きょうだいのいないあたしにとって、拓也兄さんはいちばん親しい男の親せきだった。父方のいとこに男の人はいなかったし、いちばん歳の近い男の親せきは拓也兄さんだったからだ。男の人だけど物腰はやさしくて、いつもあたしを笑顔で迎えてくれる、そんな人だった。ほんのり憧れていたのも、たぶんうそじゃない。

 海外にいる実の父さんとあう機会も少なかったけれど、拓也兄さんには長期の休みのたびに会いにいける。電話もしてくれる。そんな気安さのせいか、あたしは拓也兄さんにもよくなついていた。

「ゆかりおねえちゃんは?」

 あたしがオレンジジュースを飲みながらたずねると、拓也兄さんは苦笑した。

「あいつはね、最近忙しいらしいんだよ。中学に入ったばかりだしね」

「おにいちゃんはいそがしくないの?」

 あたしがそう尋ねると、その人は苦笑を浮かべた。

「うーん……忙しいのは忙しいんだけどね。でも、ちょっと休憩」

 そういって、びんに入ったコーラをラッパ飲みする。それがひどくおいしそうに見えて、ほんの少しうらやましくなった。もっとも、あたしは炭酸飲料を飲めなかったんだけれど。

「そうだ。かなちゃん、この近くの神社にあとで行ってみるかい?」

 そんな提案をされて、あたしはすこし目を丸くした。

「じんじゃ?」

「うん。ちょうどもうすぐ夏祭りなんだ。今はそのしたくとかでわいわいやってるよ」

 あたしの住んでいる街には神社がない。正確に言えば、あるけれど子供の足では遠い。埋立地にある新興住宅地に住んでいるのだから、多少は仕方ないのだけれど。

 そのせいもあって、あたしはそれまで祭りらしい祭りに行ったことがほとんどなかった。町内会の盆踊り大会などには行ったこともあるけれど、本当の神社のお祭りには行った記憶がない。

「おまつりっておもしろい?」

 あたしはおそるおそる尋ねる。

「おもしろいよ。いっぱい夜店もでるし、みこしなんかもでるしね。かなちゃんはこういうお祭り、経験ないのかな」

 尋ねられて、あたしは小さく頷く。

「じゃあ、せっかくだから行ってみよう。おばさん、かまわないよね」

 拓也兄さんはあたしの母さんに念のための確認をとってから、あたしの手を取って玄関へと向かった。

「大きい神社じゃないけどね。でも、きっと気に入ると思うな」

 拓也兄さんは笑顔を浮かべる。あたしよりもうんと年上なのに、まるで子どものようで。そんな拓也兄さんの行動がなんだかおかしくて、あたしもちょっとだけ笑顔を浮かべる。手を引かれていくのは少し恥ずかしいけれど、それでも慣れない土地で迷子になってはいけないという心配りだとわかるから、あたしは素直についていった。

 やがて見えてきたのは、決して大きくはないけれどきれいな神社だった。真っ赤な鳥居がいくつも連なっていて、まだまだ幼いあたしにはそれがひどく大きく感じて、真っ赤なトンネルをくぐり抜けるのはなんだか胸がわくわくした。

 鳥居を抜けるとふっと目にはいるのは、こぢんまりとした神社。でも、その空気はとても澄んでいて、あたしは思わず深呼吸する。

「すごい、きれい」

 そういうと、拓也兄さんは嬉しそうに笑った。

「僕のお気に入りの場所なんだ。最近はちょっとごぶさたしているけれど、ね」

 だから、あたしが素直に喜んでくれたことがうれしかったらしい。まだ小さかったあたしはきょろきょろと神社の中を見回して、そして狛犬を見て、思った。

「あれ? ここの神社、わんちゃんじゃないね」

 狛犬というものは実際には獅子をあらわしているらしいのだが、神社とほとんど縁のなかった当時のあたしは当然そんなことを知らず、「こまいぬ」と言う単語でなんとなく(神社には犬の像があるのだ)と思っていた。

 でもこの神社で待ち構えていたのは、ほっそりとした体型につりあがった瞳――狐だった。そのあたしの言葉に、拓也兄さんは苦笑する。

「ここはお稲荷様だからね。狐が神様なんだ」

「きつねがかみさま?」

 あたしが昔読んだ童話の狐はわるがしこいイメージが強かったので、神様といわれても一瞬何のことかわからなかった。

「きつねってわるいことするんでしょ? 絵本でよんだよ」

 そう尋ねると、拓也兄さんはすこし困った顔で、

「そんな、わるい狐ばかりじゃないんだよ。ここの狐は、畑を荒らす悪いけものを食べてくれたんだ。だから、たぶんいい狐なんじゃないかな」

「ふうん……」

 あたしはあいまいにうなずく。いい狐と悪い狐がいるといわれても、やっぱりすぐにはわからないし、そのときなんで彼が困った顔をしたのかもわからなかった。狐は人を化かすというから、そのせいもあるかもしれない。

「お稲荷様は油揚げがすきなんだ。ほら、いなり寿司ってあるだろ? あれも好物だって言われてるよ」

「おいなりさまのこうぶつが、いなり寿司?」

「そうそう。油揚げがすきなんだってさ」

 そのときあたしの頭に浮かんだのは、狐の神様がこっそりいなりずしをつまみ食いするという姿で、思わずくすっと笑ってしまった。

「どうしたんだい?」

「え、えーっと、なんでもない」

 あたしはあわててごまかすと、神社の中をぐるっと見回した。小気味いいリズムでかなづちをふるう音がときどき聞こえる。よくわからないけれど、なんだか胸がどきどきと高鳴っているのがわかった。

「お祭りの準備をしているんだね。明日から始まるから、まだ今日はあわただしい感じだけど」

 兄さんがそう解説をしてくれる。でもあたしはそんな神社の様子ですらひどく楽しそうで、だんだんわくわくしてきた。

「ねえ、あしたもきていいのかな」

 尋ねると、兄さんはほほえんでくれた。

「当然だよ、加奈ちゃん」

 その返事を聞いて大喜びしたのはいうまでもない。


 翌日。

 おばあちゃんはこんなときのためにと準備してくれていたのだろう、かわいらしいトンボ柄の浴衣を用意してくれていた。ちょうどあたしの身長にぴったりで、おばあちゃんはそれを着付けてくれながら、

「よく似合ってるよ、かなちゃん」

 そういって笑ってくれた。母さんもわざわざカメラを取り出して、あとでお父さんにメールしようね、と笑っている。

 そして、拓也兄さんは。

「うわ、こりゃあかわいいなあ。うちのゆかりなんかよりもうんとかわいいじゃないか」

 そういわれて嬉しくないはずがない。特にそのころはまだ幼かったのだから。あたしはビーチサンダルをあわててつっかけて、

「お兄ちゃん、行こう行こう!」

 そう腕を引っ張った。兄さんはやさしくうなずいてあたしの手をとり、歩調を合わせるようにして歩き出した。

 ――てんつくてんつく、てんてんつく。

 町のあちこちにちょうちんがぶら下がっている。それがほんのりと赤く光を放っていて、あたしの胸の中にもその光があたたかく降り注いでいるかのようだった。しぜんと歩くスピードが速まっていく。同時に、胸の高鳴る音も。

「おにいちゃん、こっちこっち!」

 あたしはいつの間にか彼の手を振りほどいて、軽い足取りで昨日一度だけ行った神社に向かっていた。慣れない道だったはずなのに覚えていたのは、きっと人の流れの行き着く先や夜店の香りや、祭囃子の心地よい音の源がわかったからなのだろう。

 やがてたどりついた神社は、まるで異世界のようだった。

 剣と魔法の世界とか、そういう意味じゃなくて。

 こども心に、ここはまるで別世界だと思ったのだ。たとえていうなら……そう、竜宮城。もっと適切なたとえがあるのかもしれないけれど、当時のあたしはまだ幼くて、そう思ってしまったのだ。

「きれい……」

 くるくるまわる風車。

 じゅうじゅうと、ソースの焦げるおいしそうな音とにおい。

 屋台は食べ物に限らず、定番の金魚すくいやヨーヨーつりも店を出している。でもあたしは今までなかなかそういうものをみる機会がなかったから、どれもこれもひどく珍しく感じていた。

「あ、わたあめだあっ」

 ふわふわのわたあめ。あたしはたぶんそれまでわたあめを食べたことがなかったのだと思う。母さんが夜店の食べ物はあまりよくないと、なかなか買ってくれなかったからだ。目をきらきらさせてじいっとわたあめ作りの様子を見ていると、それに気づいたのであろう拓也兄さんが、

「買ってあげようか?」

 とポケットから小銭入れを取り出した。そして一見ガラのよくなさそうなお兄さんに必要なだけの小銭をちゃりんと渡す。

「いいの? おかあさんにおこられない?」

 あたしはまさか本当に買ってくれると思っていなかったのでびっくりしつつも、まるで雲のようなふわふわのわたあめを受け取って口に運んだ。それを口に含んだときの甘さといったら、今でも鮮明に思い出せる。口の中で小さくとろけて、そして消えてしまう。まるでホンモノの雲みたいだ。もちろん雲を食べたことなんてないんだけれど。

「ふわふわだね、おにいちゃんもたべる?」

 あたしはうれしくなって、わたあめを兄さんに差し出してみる。兄さんは照れくさそうにそれを一口含んで、

「うん、あまくておいしいね」

 そう微笑んでくれた。その微笑みがひどくうれしくて、あたしは思わずぎゅっと兄さんの手を握る。そして兄さんを見上げると、兄さんもあたしのことを見てにこっと笑ってくれた。そして顔をあげて、ふっと虚空を見つめる。

 そのときの兄さんの顔がひどくまぶしかったのを今も覚えている。

 わずかに遠くを見て、そして今にも泣きそうな複雑そうな表情を浮かべていて。

 でもあたしは幼くて、兄さんの顔を不思議そうに見上げることしかできなくて。

「おにいちゃん?」

 私が声をかけても、まるで心ここにあらず。

 もう一度呼びかけると、彼はまるで金縛りがとけたかのように瞬きを繰り返し、そして微笑んでくれた。

「どうかした?」

 その問いに、あたしは答えられなかった。

 まるで兄さんが消えてしまいそうだなんて、いえなくて。


 と、そこで声がした。

「おうい、矢野じゃないか。久しぶりだな」

 矢野、というのは兄さんの名字だ。呼ばれたことに気づいたのだろう、兄さんはふと顔を上げて視線を巡らせる。あたしは頭にクエスチョンマークを浮かべて、その様子を見守っていた。

 声の主は神社の奥、さい銭箱の近くにいた。拓也兄さんと同じ年頃の青年が数人、そこで笑いながら手を振っている。

「何だ、アツシ。受験勉強は今日はいいのか?」

 兄さんに手を引かれてそちらへと向かう。少年とも青年ともいいがたい年齢の数人の男子は、あたしを連れた兄さんに、笑みを投げかけた。

「ん、まあな。息抜き息抜き。ところで。おまえにこんな小さな妹、いたっけか。さらってきたんじゃないだろうな?」

「うんにゃ、こいつはいとこでね。ちょっと年は離れてるけど、本当だぞ」

 兄さんも軽口をたたいて応じる。あたしはほんの少しだけがっかりした。ウソでも恋人とか、そんなことをいってくれればいいのに、と。


 そう、あたしは兄さんが好きだった。

 幼いながらに、なまいきにも恋心を持っていた。

 もちろん、そんなことは誰にもいわなかったけれど。

 

「おにいちゃん、こっちのひとたちは?」

 あたしが尋ねると、兄さんはほほえんだ。

「ああ、小学校のころからの仲間たちだよ。学校が違う連中も多いけどね」

 年上なのに、なんとなく好感を持てる人たちで、あたしはあわてて

「拓也おにいちゃんのいとこで、加奈子って言います。はじめまして」

 ぺこっとお辞儀をする。

「かわいいなあ。うん、拓也に似なくてよかったな」

 アツシと呼ばれていた男の人はそんなことをいって、あたしの頭をわしゃわしゃしてきた。いわゆるスキンシップなのはわかるのだけれど、何となく恥ずかしい。

 ほかの人たちにも確かにこれはべっぴんさんになるぞ、なんていわれて、あたしはちょっとうれしかった。べっぴんの意味はよくわからなかったけれど、ほめられているのはわかったからだ。

「ところで、ジュケンベンキョウって、お勉強?」

 たわいない会話に出てきた、耳慣れない単語にあたしは首をひねった。

「ああ、そっか。拓也は私立だから受験しないんだよなー」

 誰かが悔しそうにそんなことをつぶやく。

「そのぶん中学受験で必死こいたからな。それに私立っていってもピンキリだぞ……っと。加奈ちゃんは一人っ子だし、あまり今まで聞きなれない言葉だったのかもな。ふつう、中学を卒業したあとで高校にいくにはテストを受けなきゃいけないんだ」

 兄さんが言葉をかみくだいて教えてくれる。

「拓也の場合は例外だけどなー。中学のときに大学まである私立のエスカレーター校に入ったから、こいつは基本受験勉強はもうしないんだよ」

「ふうん……」

 小学校一年生にとって高校なんてまだまだ先の話で、なんだか聞いていてもふわふわと実感がない。

「じゃあ、たくやおにいちゃんはお勉強できるの?」

「少なくとも俺らの中では一番できてたな。テストでも百点連発だったし。俺たちの仲間で私立いったの、こいつだけだったしな」

 いがぐり頭のお兄さんがそういって兄さんの肩をぽんとたたいた。そのしぐさが面白くて、あたしもちょっと笑ってしまう。

 それにしても、兄さんは頭がいいんだなあ。あたしは改めて尊敬のまなざしを兄さんに向ける。

「加奈子ちゃんだっけ、いまなん年生?」

「えっと、いちねんです」

 問われるままに答えると、兄さんもその友達もニコニコ笑った。

「ほんっとうにまだちびっこなんだなー」

「矢野にいじめられたら、ここにいるお兄さんたちに言えよ? ちゃんと仕返しするから」

「おいおい、俺はちゃんとかわいがってるって」

 はははは……

 そんな笑い声が響く。とはいえ祭囃子にかき消されていたけれど。


 そのときだった。

 兄さんの視線が、ふっと動いたのは。

 すこしだけ、その顔が泣きそうにゆがんだのは。


「あ……ちょっとごめん、用事思い出したわ。祭りのほうに、いってくる。すぐに戻ってくるから。かなちゃん、悪いけどここで待ってて」

 兄さんはあたしのことを仲間たちに任せて、ダッシュで神社の奥のほうへと向かっていく。何がなんだかわからないあたしたちはきょとんとするばかり。

 だけど、あたしはなんだかいやな予感がした。恋をしていたからか、特に敏感になっていたのかもしれない。

「たくやおにいちゃん、いつかえってくるかなあ」

 そう不安そうにつぶやくと、さっき髪をわしゃわしゃしてくれたアツシさんが

「だいじょうぶ、きっとだいじょうぶ。こんなかわいいいとこを置いてったりしないって」

 そう励ましてくれた。こんなちびっ子の初恋を見抜いていたのかどうかはわからないけれど、その言葉がずいぶん気持ちを楽にしてくれたのは事実だ。


 だけど夕方になっても、夜になっても、兄さんは帰ってこなかった。

 さすがに友達たちもおかしいと思ったのだろう。兄さんの仲間たちに連れられて、あたしは泣きじゃくりながらおばあちゃんの家に戻った。おばあちゃんも今回の話にはたいそう驚いたらしく、もっとパニックになっている伯母さんをなだめるのが精一杯と言う感じだった。

 男の孫が拓也兄さん一人だったから、おばあちゃんたちも余計に期待していたのだろう。

 状況を聞いた伯母さんも、

「あの子はとつぜん家出をするような子じゃないんです。絶対に帰ってくるはずです」

 といって何度も涙を流していたし、姉さんたちもおろおろしっぱなしだった。

 その日のうちに警察に届けを出したけれど、何しろ人の多いお祭りの中での出来事だ、目撃者はなかなか現れなかった。あたしのところにも何度かおまわりさんがやってきて、

「きみが最後までお兄さんと一緒にいたんだよね。おじょうちゃん、お兄さんの行き先に心当たりはあるかい?」

 みたいな事を聞かれたけれど、もともとこのあたりに住んでいるわけでもないし、心当たりはちっともない。

 兄さんが何かを見たような気はしたけれど、それもいまから思うと夢だったかもしれないし、正直わからないことだらけだ。

 兄さんはどうしているんだろう。

 まさか死んだりはしていないよね。

 そんなことをもごもごつぶやきながら、あたしはその夏休みを暗い気持ちですごした。

 兄さんの顔がちょっぴりゆがみかけていたことは、誰にも――おばさんたちにも、警察にも、言わなかった。それを言ったらいけないと、なんとなく思ったからだ。


     ***


 それから数年、あたしはおばあちゃんの家に行くのをためらっていた。

 お兄ちゃんはまだ、帰ってこない。

 もし死んでいたのだとしても、死体すらでてこない。

 そんなおかしな状況で、安心して夏休みを過ごせるはずがない。実際母さんがとても心配したのだ。よくわからない誘拐犯にさらわれるのではないかと。拓也兄さんみたいに、とつぜんいなくなってしまうのではないかと。

 涙ながらに行かないでくれ、と頼まれてしまっては、いくと言うこともできなかったし。

 それでも、なぜか信じていた。

 兄さんに、またいつか会えるのだと。

 

 そんなふうに十年ほど過ぎたある夏の日、おばあちゃんが逝った。大往生だった。


 久しぶりに訪ねたおばあちゃんの家は、みょうにがらんとしていた。家の主を失ったからなのかもしれない。

 伯母さんと母さんは葬儀や形見分けの準備をしていて、もう高校生になっていたあたしもそれを手伝おうとした。でもまだほかにも頼りになる親類はいるし、無理に手伝わなくてもいいのよ、と伯母さんは言う。

 あたしはぼんやりと、それなら近くを散歩してくるといって家を飛び出した。

 家の中はどこか薄暗くて、『死』の匂いがして、本当のことを言うとちょっと苦手だったのだ。

 とはいってもこの近所に詳しいわけではないし、拓也兄さんがいなくなった因縁の場所でもある。本当はあまりぐるぐるするのもいやだったのだが、辛気臭い家を逃れるのに適当な口実を見つけることができなかったのだ。

 熱中症対策の麦藁帽子にここいらのものではない学校のセーラー服姿。正直、珍妙な組み合わせだなと自分でもちょっと思う。でも日焼けするのもいやだったし、このままとぼとぼとなんとなく重い足取りで、街中をひとり歩く。

 見慣れない町並みは、なんとなく不安をかきたてる。あたしは祖母の家を出てすぐに帰ってこれる範囲内でぶらつくことにした。

 ……そういえばあの夏も、このあたりを歩いた気がする。

 心がふっと十年前にさかのぼった。いまのあたしは当時の拓也兄さんよりも年上で、本来ならば予備校の夏期講習などで予定がめいいっぱいだったはずなのだが、忌引と言うことで連絡を入れてある。

 おそらく帰宅したら山のような課題が待っているのだろうな、と半ばげんなりしつつも、いまはおばあちゃんの葬儀を無事に終わらせることが先決だと理解はしていた。おばあちゃんはおじいちゃんが残してくれた遺産を丁寧に扱っていて、資産管理もちゃんとしていたらしい。しっかりしていたんだな、としみじみ思う。

 とはいえ、もうおばあちゃんはこの世にいない。おばあちゃんはもうすぐ荼毘に付され、あの柔和な笑顔は二度と見ることが出来なくなってしまう。

 ……さびしい。

 あたしはそう思いながら歩く。

 と、景気のよさそうな祭囃子がふと聞こえてきた。笛や太鼓の、賑々しい音。顔を上げると、赤い鳥居がいやでも眼に入った。神社だ。

 その瞬間、あたしの心はざわついた。

 拓也兄さんを見失った神社。拓也兄さんを奪った祭り。

 だけど、そんな過去なんてまるでなかったかのように祭囃子はにぎやかに響く。耳に残る。

 あたしは引きよせられるかのようにふらふらと、鳥居をくぐった。財布も携帯も一応持っていたし、何よりもう護られるだけの子供じゃない。この鳥居の向こうは異世界だったらいいのに、拓也兄さんに会えたらいいのに。そんなばかげたことを思いつつもじっさいのところはあのときの祭りがなつかしくなったのが本音といえば本音だ。

 ――拓也兄さんは十年たった今でも、あのときの姿のままで時折夢に出てくる。今ではあたしのほうが年上なのに、いつも目線は拓也兄さんを見上げていたころのままだ。

 でもそのほうがきれいな思い出でいられるかもしれない。そんなことも、ほんのり思う。

 ソースのこげる匂いがふっと漂った。今も当時と変わらず縁日が開かれているのだろう。

 焼きそば、りんご飴、金魚すくいにヨーヨーつり。

 さすがに今のあたしなら、祭りだからといって興奮することも減った。中学にあがるころから、祭りに行く機会が増えたからだ。ほとんど見知らぬ土地の見知らぬ祭りでは、せいぜい縁日を冷やかしていく程度だ。なんだか、そういうのをみているのも十年前を思い出しそうで、すこし切なかったけれど。それでも、祭りと言うものは好きだ。賑々しい空気がすきなのかもしれない。


 ――と。

 あたしの目の端を、何か、いや誰かが横切った。本当に一瞬だけ。

 何気ない恰好をした少年だ。たぶん、どこにでもいるような。

 でもそれを見た瞬間あたしは立ち止まり、足元ががくがくと震えだした。手も震えている。とっさにもう片方の手で震える手をおさえようとしたけれど、そのつかんだ手も冷や汗でわずかに湿っていた。


 ……うそ。

 いるはずがない。あるわけがない。

 あれからもう十年が経過している。

 法律では失踪して七年たったら死亡扱いになるって聞いている。

 だから、あたしたちもそう思っているのに。

 だから、あれがそのはずはないのに。

 でも、ちらりと見えた横顔は……十年間とぎれとぎれに夢に出てきた、あのなつかしい面影。

 震える声で、あたしは思わず叫んでいた。


「拓也兄さんっ!」


 その叫びが緊張を解いたのか、身体がふっと軽くなった。足の震えもとまる。小さな神社の中だ、すぐに見つかると思ってあたしは足を動かしだした。といっても、祭りの賑わいの中を見せる神社の中で走るのも危険だし、すぐに見つかると思っていたから、まずはきょろきょろと辺りを見回した。あたしの身長は平均よりもすこし高い程度だけれど、それでも何もしないよりうんとましだ。

 そうしていたにもかかわらず、あたしはそのとき、兄さんを見つけることができなかった。

 やっぱりあれは見間違いだったのだろうか?

 あたしの頭の中にいくつも疑問がわいてくる。

 十年前にいなくなった、そのままの姿の兄さん。

 背格好も服装も、そして顔立ちすらも。本当ならもう大学を卒業して社会人になっていてもおかしくないはずの年齢になっているその人らしき人は、どう見てもあたしより年下だった。

「どう言うこと……?」

 あたしは一人ごちた。誰にも言うことはできない。伯母さん一家は拓也兄さんをもう死んでしまったものとして扱っているし、大体いまはおばあちゃんの葬儀の直前だ。へんなことを言って、またパニックを起こしてしまってもいけない。

「拓也兄さん、どう言うことなの……?」

 あたしの唇が、その名前をつむぐ。……あたしもパニックしていたのかも、知れない。

 あれは違う、別人に決まっている。そう思いつつも、口に出してしまう。

 十年前のあの日、消えたそのままの姿で現れた、拓也兄さん。もうあいまいになっていたはずの面影のはずなのに、ぼやけていた思い出のピントがはっきりとあう。

 あたしは比較的静かな境内の裏手に回って、肩で息をついた。

「……そんなこと、あるはずないのにね」

 口から零れた言葉は、自嘲めいている。あれが本当に兄さんだったのか、すこし不安になるけれど、まぶたの裏に残る面影と先ほど見た少年は、確かにだぶっていた。

 あたしは涙目になるのを必死でこらえながら、小さくつぶやいた。

「どうして、いまさら、」

 今になって現れたの?

 いままでどこでどうしていたの?

 聞きたいことは山のようにある。でもさっきのが本当に拓也兄さんか、少し時間を置くとわからなくなってしまう。


 と、一陣の風が通り抜けた。

 風は目もあけられないほどに強く、周囲の木立がざわざわと音を立てる。まるで、何かの前触れであるかのように。あたしは思わず目をきゅっとつぶる。すると、

「ないちゃダメだよ、かなちゃん」

 耳元で、声がした。やわらかく優しい、少年の声。もう聞くこともないだろうと思っていた、なつかしい声。

「ないたら、折角の美人がもったいないよ」

 聞き間違えるはずがない。何度も何度も夢に出てきたのだから。

 ゆっくりと目を開ける。見間違えるはずもない。何度も夢で出会っていたのだから。

「……拓也、兄さん……?」

 あたしが恐る恐る尋ねる。目の前の少年は、懐かしい微笑みを浮かべたまま、こくりとうなずいた。

「どうして」

 あたしがうまく言葉をつむげないままでいると、兄さんがすこし困った顔をして、でも再びほほえんだ。

「おばあちゃんが死んだから。街に行ってもいいといわれたんだ」

 おばあちゃんの葬儀を影から見るつもりだったのだと兄さんは言った。

「今までどこで何をしていたの……?」

 あたしは一瞬ためらったけれど、その質問を投げかけた。お兄ちゃんはうーん、とうなると、ゆっくりと説明を始めた。

「山人、といってわかるかい?」

「……やまびと……?」

 聞きなれない単語に、あたしは問い返す。拓也兄さんはすこし笑った。昔のままの、やさしい笑みで。

「山に住むといわれる、異人だよ。確か柳田國男の『遠野物語』などに記述があったはずだ。宮澤賢治の童話にも山人は出てくるね。しらない? それによると山人は、体格が常人よりも優れていて、正直者で、そして純朴な人たちだ。……難しい話は省くけれど、山人は全国の山々を渡り歩いていたとも言われている」

 遠野物語と言う本のタイトルは、どこかで聞いたことがある気がする。でも特に興味も沸かず、読んではいない。

「その遠野物語に、子どもや年頃の娘たちがさらわれてそれっきりになった、と言う話が残っているんだ。それが山人のしわざといわれている。いわゆる、神隠しってやつかな」

 あたしよりも幼さの残る顔立ち。今だからわかるけれど、兄さんはそれほど背が高くなかったみたいだ。平均よりもわずかに低いくらいだろうか、目線があわせやすいのはありがたい話だけれども、ひどくふしぎな気分がした。

 そして、兄さんの次の言葉は、あたしをひどく驚かせた。

「ぼくはね、かなちゃん。あの祭りの日、巫女さんについていったんだよ」

 さらわれたのではなく、自分の意思でこの街を離れたのだと、兄さんは言った。

「どうして……っ? おばあちゃんも、伯母さんも、みんなすごく心配していたのに!」

 あたしはつい、語気を荒げてしまう。

「ぼくはね、中学にはいってからいろんな本を読んだ。さっき言った、遠野物語もそのひとつだ。……現実から逃げたかったんだよ」

 私立中学に入学したからといっても生活に大きな変化がない。むしろ、いろんな道が閉ざされてしまったのを感じてしまったのだという。

 このままベルトコンベアに乗って大人になっても、きっとちっとも面白くない。そう考えた兄さんは、空想の海に飛び込んだのだ。つまり、本を読んで読んで、そして現実から遠ざかるようになっていった。

「そんなときにあの祭りの日がきた。あの時、ぼくは見たんだよ……常人ならざる美しさを持った、巫女装束の女の人をね」

 彼女は兄さんのことを慈しむような瞳でじっと見つめたのだという。そして兄さんは瞬時にそのまなざしの意味を理解したのだ。

 すなわち、自分をいざなっているのだと。

「神隠しに遭いやすき気質、と言う言葉があってね。これも柳田國男の言葉だけど……精神的に不安定な時期にそういうものに遭いやすくなるんだそうだ。天狗のしわざだったり、狐のしわざだったり、いろいろ言われているけれど……これも山人のしわざとも言われている」

「かみ、かくし……」

 その言葉はおばあちゃんがよくいっていた。

 ――拓也はできがいい子だったから、神隠しに遭ったんだと。そのことを兄さんに言うと、

「ぼくはそんなに出来のいい人間じゃないよ。ただ、その女性は僕を見てほほえんだんだ。ついてくるならいらっしゃい、って言いたげに」

 そして兄さんはついていった。薄暗い森の中を延々と歩いたらしい。そんな場所はこの神社にはないのだけれど、ふしぎにおもわなかったのだと兄さんはそのときを振り返る。

「しばらく行くと、きれいな泉があってね。その女の人は、それをぼくに飲むように促した。喉も乾いていたから、冷たくてどこか甘いその水がとてもおいしくてね……きっと彼女もわかっていて、その水をぼくに飲ませてくれたんだろうね。山人たちは薬を作るのがうまいとも言われていたから」

 その水を飲むと、まるで今まで心にたまっていた膿が出て行くかのように、すっきりした気分になったのだという。

「……でもそれは、飲んではいけなかったのかもしれない。変若水だったから」

「おちみず?」

 耳慣れない言葉にあたしは目をぱちくりする。

「不老不死の水さ」

 兄さんはわずかに遠い目をした。その瞳には見た目に相応した光を宿している。兄さんの本来の年齢は二五――それよりも若い輝き。

「そして気がついたら、とてもふしぎな場所にいた」

 あまやかな香りの絶えない、常春の郷――兄さんは、そう表現した。

「ぼくみたいな、世界からはじかれた人間もいたし、あやかしの類もいっぱいいた。ヒトの世界では暮らすことのできない山人たちも……でもその中で一番偉いのは人間じゃない。あやかしでもない。金色の目をした神様だ」

 バカみたいな話だ。神が実在する? 神社の祭りにすら現れることがないのに。でもあたしは笑うことができなかった。その言葉は真に迫っていて、笑えなかったのだ。

「この神社の神様はお稲荷さまだけど、もともとは害獣を食べつくしてくれたお礼に神を勧請したのだと言うことでね。ヒトの心の中に潜む闇――ヒトにとって害になるものを、今も取り除いてくれると信じられている。あのころのぼくの心は、まるですすけたみたいにどんよりと暗かった。決められたレールを歩くしかない人生に絶望して、それを変えることの出来ない自分が情けなくて。だから、祭りの数日前に神社にお祈りに行ったんだ、ぼくをこのまま消してくださいって。そうしたら、あの日、あの人がいたんだ。ぼくの絶望を救うためにね」

 兄さんは静かな声でいって、ほほえむ。あたしは呆然とするしかなかった。

「神様なんていないと思うだろう? でもその郷にいるひとは、間違いなく神様なんだ。えらい……と言うのともちょっと違うかな。みんなを見守ってくれる世話役みたいなひとだよ。ぼくを郷へ連れて行ったのも、そのひとの意見だったらしい」

 郷への道案内になったのは、そういう役目を帯びた稲荷のお遣いだったのだとも付け加える。

 でもあたしの頭の中はぐちゃぐちゃだ。兄さんが話せば話すほど、遠くに感じる。

「兄さん、帰ろう? 伯母さんもおばあちゃんも、みんな待ってる……」

 もちろん、あたしも。

 そう言った。言ってひきとめようとした。けれど兄さんは静かに首を横に振る。

「だめなんだよ、かなちゃん。ぼくはあの郷に長くいすぎた。変若水も飲んでいる。もう歳をとることはないし、死ぬこともない。そんなのがとつぜん息子です、孫ですって戻っても、不気味に思われるだけだ」

「じゃあ、どうしていまさら戻ってきたりしたの」

 あたしはつい語気を荒くした。

「……役目があるからだよ」

「やくめ?」

 あたしがそう問いかけるようにつぶやく。と、ふっと少女らしき子どもがひとり、兄さんの脇にいることに気がついた。どうして今まで気がつかなかったのかわからないくらいそれは唐突な現れ方で、あたしは驚いて何もいえない。

 そのこどもは小学校の低学年くらいだろうか。白い狐の面をしっかりとかぶり、白地にトンボ柄の浴衣をかわいらしくまとっている。

 ……その浴衣には見覚えがあった。おばあちゃんが十年前、あたしに着せてくれた浴衣に瓜二つなのだ。足元は赤い鼻緒の下駄履きだ。

「どういう、こと……?」

 あたしの声が震える。

「迎えにきたんだ」

「むかえ……」

 あたしはその言葉をおうむ返しにする。誰を迎えに来たのだろう? この少女を? それともあたしを? そう思っていると、兄さんは少女に「面をはずしてごらん」とやさしく声をかけた。

 その少女はそっと面をはずす。……現れた顔は、あたしによく似ていた。

「……かなちゃん」

 少女が、そういう。あたしの名を呼ぶ。

「きてくれてありがとうね。さいごに、顔が見れてよかった」

 聞き覚えのある声。あたしが知っているのはもっとしわがれた声だけれど、優しく包み込むような声。

 ――おばあちゃんの、声。

「おばあちゃんはね、約束をしていたんだ。本当に本当に小さいころ、おばあちゃん自身も忘れていたくらいに幼いころ、いつか神様の住まう郷に行くって」

 けれど、それは果たされなくて。

「でも、魂はそれを覚えていたからね。このままさまようだけの存在になる前に迎えにいってくれって頼まれた」

 ……ああ。

 もう兄さんは、あたしの大好きだった兄さんは、きっとこの世の中で暮らしていけない。

 きっといつまでもこどもの心を持ったまま、世界の狭間をただよって、老いもせず死にもせず、そこにあるのだろう。

 そう思うと、少しさびしかった。泣きたくなった。でも泣いたらいけない。あたしは今、兄さんよりも年上なのだから。

「……兄さん」

 あたしは兄さんにそっと言う。

「兄さんには未練はないの? この世界に」

 最後にどうしても聞きたかった。引き止められるとは思わなかったけれど。

「……ない、なぁ。この世界の息苦しさから、解放されたんだし」

 兄さんはしごくあっさりとそう言った。もう引き止めるための材料は、持っていない。

「……じゃあ、お願い」

 あたしはゆがみそうになる顔を必死にこらえつつ、兄さんに言った。

「あたしのこと、わすれないで」

 兄さんは一瞬驚いた顔をしたけれど、やさしくうなずいてくれた。


 と、風が吹いた。

 すべてを包み込むような、強いつむじ風。あたしは思わず目を伏せて、そして一度だけ叫んだ。

「……拓也兄さん!」

 一瞬、風が緩んだ気がした。でもまたすぐに風は強さを増し、そして気配がふっと消えた。

 もうあの二人には会えないだろう。さびしくもあったが、彼らはすでにニンゲンではない。ヒトの皮をかぶった、そう……山人なのかもしれない。涙が零れる。


 神隠しの伝承は日本各地にある。いつか、彼の言っていた常春の郷も見つかる日がくるのだろうか。

 あたしは、空をじっと見つめる。

 きっとこの空の下のどこかに、兄さんたちがいると、そう信じて。


以前同人誌で発表した作品。

夏祭りの時期が舞台ですが、気にしない。


神隠し、狐、それらは大好きなターム。

大好きな要素を詰め込みました。


――あるいはこの物語も、六道町での出来事かもしれません。

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