十六
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時は来た。一真達は、宿の中でも一番広い部屋に集まり、円状のテーブルの周りに座って影夜邸強襲の作戦について話し合っていた。この場にいるのは、一真以外に月と日向、海馬や霧乃は当然として、未来も何故か加わっている。
それを海馬も霧乃も咎める事はしない。彩弓と笹井は別の部屋で待っている。彩弓は彼女の意図とは関係なく、目に通したこちらの様子を影夜に伝えてしまうからだ。だが、それならばいっその事彩弓だけでも栃煌神社に送り届けるべきではないかとも思う。
まさかとは思うが、また戦場にまで連れて行くつもりではないだろうなと、一真は訝しむ。常社神社での出来事は事故――に見せかけた周到な計画だったのだが――であり、同じ轍を踏むわけにはいかない。
しかし、それについて切り出すよりも先に霧乃が地図を広げた。それはどこかの家の内部図のようだった。一階、二階、三階、そして気になるのは地下。それは家の真下に通っているらしいのだが、地下の部屋というよりは、地下に通っている道、有体に言えば洞窟のようなのだ。曲がりくねった道が続くのは、外の井戸。もっと気になるのは、その曲折した道の途中に、開けた空間があるということ。
部屋のようにも見えるが、何か嫌な予感がした。
「一階から堂々と突入しても、ええんやけどな。向こうは向こうで霊具で武装しているそうやからな? 霧乃」
「えぇ。火龍さんからの情報だと、影夜は人形の式を屋敷内の警護として置いているらしいです。勿論、霊的な存在からの警護ですが」
地図の上に霧乃が写真を何枚か置いた。屋敷内の写真なのだろうが、どれもピントが合っておらず、酷く不鮮明で分かりにくい。ただ、それが顔のような物である事は分かった。これは一体、誰がどうやって撮ったのだろうか、戦いにはならなかったのかと疑問に思いながら見ていると、霧乃が補足した。
「これは、ここに侵入したとある霊媒師が撮影したものです。姿がはっきりとしていないのは勘弁してくださいね。連中は情報を取ったら、殺される前に逃げるのを心情としているのでね」
どうやら情報屋の類の者によって撮影されたもののようだ。それならば戦わずして、逃げると言うのも理解できる。アメリカのスパイのようなものが頭に浮かんだが、この想像を口にするのはよした。
「厄介なのは数くらいなもので、このメンバーで負けるとは思えません。が、気になるのは地下ですね。やはり」
「死した者を蘇らせる為の魂呼ばいの術やからな……死んだ者は、地の底、黄泉の世界へと誘われる、と言われているからのぅ。奴は、屋敷の地下で儀式を行っていたんやろう」
常社神社にいた常社、そして数多の死霊、神霊まで。呼び出された霊は数知れない。一真はその事に妙な違和感を覚える。影夜がただの異常者であるのならば、この一貫性の無い無造作な霊の呼び出し――と表現していいのか、分からないが――も分かる。だが、相手は月の命を狙っていた。用意周到に準備された舞台、陰陽寮の術者すらも取り込んでこちらを追い詰めてきた。ただのサディストとは思えない。
「さてさて、どうしたものかの。こちらは四人。相手が仮に一人であるとすれば、楽勝なんやけどな、そうも行かんだろうな。道は二つ。四人で一気に押し掛ければ、どちらかが空く。一方が囮であった場合、最悪敵を逃がす恐れがある」
「え、だけど……」と、未来が思わずというように、口を滑らした。全員の視線を受け、慌てて続けそうになった言葉を呑み込む。だが、海馬は生徒に問いかけるように聞いた。
「なんや? 最後まで言ってみ」
「はい、では」と未来は言うと、人が変わったように歯に衣着せぬ物言いで、疑問をぶつける。
「中原影夜が、逃げ出すとしたらもうとっくに逃げていると思います。もしも、彼が余程の自信家なら逃げないだろうし……だから、二手に分かれる意味ってあるんでしょうか」
海馬はその質問をこそ、待っていたというように笑んだ。次いで、一真を見る。こちらは失望したというように口の端を引き下げる。
「お前がすべきだったぞ、今の質問。あんまし失望させると、月に会える日を年に一度にすんぞ」
「どこの彦星と織姫ですか」
初めて彼女と会った日も夏の夜ではあったが、星よりも月の方が輝いていた――なんてことを考える一真の横で、月が机を叩き割らんばかりの勢いで手を突いた。
「待って!! 次から私が答えるから!!」
いや、そういう問題じゃないだろと、身を引きながら海馬が呟いた。隣に座る霧乃が、たまらずというように吹き出しながら、首を振って説明を引き継ぐ。
「……で、だ。今の未来の質問だけど、確かに逃げるだけだったら、影夜はとっくに逃げているだろうね。ま、身一つで逃げるんだったらの話だけど」
「きっと、色々と持ち出さなきゃいけないものがあるだろうねー。なにせ、禁忌とされていた死者の魂呼ばいをしていたような奴だし」と、日向が茶化すような口ぶりで付け足し、ようやく一真も未来も、事の複雑さが見えてくる。
迫りくる月をどうにか押し戻し、海馬がまとめる。
「つまりやな、影夜と俺達が戦っている間に奴が呼び出した霊魂なり、その術を記した資料なりが別のルートで持ち運ばれる可能性がある。影夜一人が逃げるんやったら、とっくに逃げてどこぞの町の人混みにでも紛れる事は出来るだろう。が、こちらは違う。呼び出した霊魂はその制御が難しいし、術を記した資料は、それ自体が一つの霊具として機能する事もある。それら抱えて逃げ出したりしたら、霊気の流れから、俺らに見つかり、一網打尽にされるやろう」
だからこそ、少ない戦力を分断し、影夜が残した――彼の罪の痕跡を逃さないようにする必要がある。向こうは向こうで、機を計ってくるであろう。だからこそ、油断が出来ない。これは個人レベルの戦いでは決してない。
戦略、駆け引き、いかに相手の裏を掻くか。将棋やチェスのようなもの。だが、一真はそういった駆け引きやそれを利用したゲーム、戦いというものが得意ではなかった。――だからこそとでも、言うべきか。今、一真の頭には頭のいい軍師が考えないような事が浮かんでいた。
「だけど、敵も馬鹿じゃないでしょう。こちらが二手に分かれる。その事も見越しているんじゃないですか?」
未来が訊ねると、海馬は肩を竦めた。
「ま、敵も寝ぼけてはいないやろう。だから、屋敷内を通るルート、地下を通るルートのうちの一方に影夜が当たり、もう一方はありったけの戦力を投入するはず。まさか、それで俺らが負かせると思っている程、敵も甘い考えはしていないじゃろうが、どさくさに紛れて魂呼ばいの術に関する情報を、逃すことくらいは出来ると考えておるかもな」
「とすると――」
皆の視線が、一真へと集中した。まず浮かんだのは当たり前の予測。そして不意に、碧とこの休みに取り組んだ鍛錬が脳裏をかすめた。全体の流れと一つ一つの動きと思考。その同調こそが戦いの神髄であると言うのが、碧の口癖だった。
「影夜は俺達がどのように戦力を分けるかが、気になる筈ですよね」
海馬も霧乃も相槌を打たない。月と日向は不思議そうに顔を見合わせる。未来は何か言いたげそうに口を開こうとして止めた。
これは単なる質問ではなく確認に過ぎない。皆、次の一言を待った。
「だったら、敵が考えもつかないような一手を投じてみるのはどうだろう?」
一真は机上に置かれた鉛筆を手に取ると、地図に自分が考えた配置を書き込んでいく。誰がどのように動くか、最終的にこれは何を狙ったものなのかを。海馬達は最後まで黙って、聞いてくれた。無論、それで話す緊張が解れたかと言うと逆だった。
腕の立つ陰陽師二人を相手に、自分が戦略を語る等、本来ならば失笑に付されてもおかしくはない筈。しかもこの作戦は、相手の心理をいかに揺さぶるかが要となる。そう考えると、これは酷く博打的な考えなのではないかと一真は思う。
果たして、海馬はどのような反応を示すのだろうか。一真が話し終えて暫く、誰も何も言わなかった。各々の表情は様々で、一言では表現し辛い。特に海馬は何を考えているかまるで読めなかった。腕を組みつつ地図をじっと凝視したまま口を引き結んでいた。
次の瞬間にどんな言葉が出るのか、まるで予測がつかない。いきなり怒鳴られるか、それとも笑い飛ばされるかもしれないとすら思った。が、海馬の口から出たのは、これまでにない程に冷静な分析だった。
「確かに、敵にしてみれば不気味な事この上ない筈やな。故に動揺も誘える。こちらを迎え撃つ計画を乱せるかもしれんな。ただ、同時に俺らが如何に動くかが重要となってくる。気取られでもしたら、おしまいや。いや、違うな……その気取りすらも奴の不安材料として使う、か」
最後の一言は、自分に言い聞かせるかのようだった。いつもの飄々とした調子は抑えられているが、何故だか、彼は嬉しそうに見える。その隣の霧乃は相変わらず何を考えているのか、分からない微笑を浮かべていた。少なくとも、一真の案に反対ではないようだった。
懸念を表したのは月だった。一真の方を見、彼女はうーんと唸っている。ただ、これは一真の案に反対というよりも、一真自身の身を案じているかのようだった。
「心配性だねー、月は。大丈夫だって!」日向がいつもの、何を根拠にしているのか量りかねる明るさでもって月の肩を叩いた。
「……うん、そうじゃなくて――」と、月は目を伏せた。何か戦略として致命的な矛盾があるのだとしたら、彼女はそれを指摘するはずだろう。これは彼女個人の気持ちの問題なのだろうか。「役不足」と言いたいわけではないだろう。彼女自身が今否定していたし。
――だとすれば
なんだろうか。一真には想像もつかなかった。だが、未来は違ったようだ。何かを察したような顔になり、次いで睨むように一真を見る。日向もまた、無言で一真を見た。やがて、一真は女性陣全員が自分を見ている事に気が付いた。各々がそれぞれ複雑ながらも、個性的な表情を浮かべているのを見て、一真は何か言うべきかと考える。が、海馬の号令が全ての者の思考を断ち切った。
「よし、その作戦で行くとしようや」
その一言で皆の視線が、彼に移る。助かったと思いつつも、月のあの表情が脳裏から離れなかった。だが、月はというと、既に感情を覆い隠してすっかりと心を閉ざしていた。それが任務だからだろうか、それとも怒っている? 後者はありえないように思えた。
だが、先程の僅かな間の間に、答えられなかった事。それが、何か致命的な事、取り返しのつかないような事のように思えてしょうがなかった。
――後で、なんて言われるだろう
いや、今は目の前の敵に集中すべきだ。そう自分に言い聞かせるものの、完全に気持ちを自制するのは、――いつものことだが――彼にとっては難題であった。
†††
やっと出てきたと思う程に、彩弓は待つ事に退屈していた。何度か、皆のいる部屋に行こうと、笹井を誘ったり、或いは一人で行こうとしたのだが、その度に笹井に阻まれた。彼は見かけに寄らず鋭く、彩弓のどんな小さな挙動も見逃さなかった。観察力が問われる仕事に就いているせいだろうと、大人であれば見るだろうが、彩弓はそこまで考えが及ばない。
とにかく鋭い人だ、とだけ思っていた。それに皆は気が付かないが、とても勇気のある人だとも感じていた。初めて会った時は怯えていたけども、とても正義感があり、彩弓を逃がす為に全力だった。
それに、再び常社の所へ行くと決断した彩弓について来ると言った。結局捕まってしまったけれども、彼は最後まで弱音を吐かなかった。
五度目の脱走を見つかり、ずるずると引きずられて部屋まで戻される途中、皆がいる部屋のドアが開いた。彩弓は、ぱっと立ち上がって笹井の腕から逃れると、スタタター!! と一直線、笹井が怒る間もなく、あっという間に部屋の入口まで走っていき、出てきた未来の腰にしがみついた。
「彩弓ちゃん!」
「待ちくたびれたよ、お姉ちゃん」
待っている間、散々笹井にぶつけていた言葉を未来にもぶつける。ごめん、ごめんと未来は困ったような顔で応じた。出てきてくれた事が嬉しかったので、苛々も一瞬にして消えた。
背後から月が出てくるのが見えた。全くの無表情で。だが、無感情ではない。彩弓には何故か分かってしまう。彼女は多分、一真との関係で何かがあったのだという事が。未来から離れ、彩弓は彼女に近づいた。
「あ、あの月お姉ちゃん。あのね――」
だが、それを口にするのは、どうにか止めた。口にすれば嫌われてしまうかもしれない。彩弓はそれが怖い。口にしたところで、月の悩みを解消できるとも思えなかった。そんなこと無理だ。
「あの人をやっつけに行くの?」
「あの人……」ぽかんと月は考え込んだ。あの人といえばあの人だ。なんで、わかんないだろうと彩弓は少しムッとする。馬鹿にされたみたいで。
「聞き下手に話し下手やな。尤も、月の場合話すのも苦手じゃが」
「……むッ!!」月が眉を吊り上げて唸った。多分、図星なんだろうなと彩弓は思う。思うだけで言わない。海馬は澄ました顔で月の睨みを回避する。
「影夜は捕える。そうすれば、お前さんと奴の関係も断ち切る事が出来るからな」
しゃがんで、彩弓と同じ高さに視線を合わせながら、海馬は言った。彩弓はどうにか頷いたものの、完全に納得は出来ていなかった。
――中原影夜。そう、そんな名前だった
彼はいわゆる他の「家族」とは違った。言葉では言い表せない程の神秘さと、悲哀さが詰まっているような感じ。
彩弓が自分達は家族なのか、そう問うた時に、彼は「そんな物よりも、もっと偉大な繋がりが築ける」とそう言った。確かにこの「繋がり」は家族とは違う。
影夜は彩弓の目を通して、ここにいる人間の事を知ることが出来る。会議に入れて貰えなかったのもその為だと、彩弓は理解していた。
そして、時には彩弓自身を操る事も出来る。いや、あの感覚は全くの操り人形になる事とは違う。どちらかと言えば、お互いの意識が混濁しているかのようだった。だから、彩弓には影夜が頭の中に介入してくるときの記憶もある――そんな素振りは微塵も見せられないが―― 彩弓の言葉、気持ちの上に「影夜」という色を混ぜ込まれるような、あの感覚。それは深夜の悪夢のように、彩弓を蝕む。
それが断てるのならば……と思う一方で彩弓は知っていた。彼がどれだけ寂しい存在なのかも。彩弓と同じように。だから、出来ることならば連れて行って貰いたい。影夜のいるその場所まで。だが、今度は許されないだろう。そんな予感がした。常社神社の時は、そのせいでとんでもない事になってしまったし。
「彩弓は、影夜の事を誰よりも知っているんだよね」
月が彩弓の気持ちを読み取ったかのように、そう訊ねた。彩弓は驚きつつ頷いた。自分が相手の気持ちを読み取る事はよくあっても、その逆をされた事は殆ど無かった。
「彩弓は優しいね」
フッと微笑んだかと思うと、ふわっとした感触が彩弓を包み込んだ。肩に回された腕、そこから伝わる温かい感触、肌をくすぐる髪から漂う仄かな香り。彩弓はゆっくりと目を閉じた。
「あの人は寂しいんだと思う。だから、お姉ちゃん。あの人を殺さないで」
あえて、そのはっきりとした言葉が浮かんだのは、何故か分かっている。影夜は、月にとっても許しがたい人であるからだ。それが分かっているからこそ、分かっていてなお、止めようと思う。
「大丈夫。私は……私達は、彼を救う。彼が囚われている闇から」
彩弓はしっかりと目を閉じて、願う。皆で無事に帰って来られるように、と。
「さぁ、行こう」
月の言葉に、彩弓はしっかりと頷いた。
†††
烏羽玉の宵闇は、夜が深くなるにつれてより一層濃さを増す。館はどこもかしこも暗く、月と星霜が時折照らす以外には、光はひとつも無かった。主が寝てしまったわけではなかった。主――中原影夜は物心ついてからこの方、ぐっすりと眠れた試しが無かった。
それでも、こうして起きていられるのは霊薬のおかげだ。その眠れない原因は、聞かせただけでは笑い飛ばされてしまうような馬鹿馬鹿しいものであった。
――悪夢
彼自身にはどうすることも出来ない悪夢。瞼を閉じると同時に、その世界が彼には見えた。
いや、見えた等と言う生易しい表現ではない。その世界に入り込むと言ってもいいだろうか。それは闇に満たされた世界。そこで起きる出来事は夢を見る度に変わるが、最後は必ず、闇に身を蝕まれて終わる。意識はそこで途絶え、気が付くと朝になっている。
この夢を影夜は、物心ついてからずっと見続けてきた。家族で他に、この夢を見る者は父と妹だったが、影夜が毎晩見るのに対して、彼らは半年に一度か二度あるかないか。妹に至っては、年を経るごとに、悪夢を見なくなっていった。
何故、自分だけがこれ程に苦しまなければならないのか。精神科、脳科学者、果ては占い師にまで相談をしたが、この中で一番的確な答えを出してくれたのは、何の皮肉か占い師であった。
その占い師にあったのは彼が十才の時。彼は、自分が何に悩んでいるのかを、彼が何かを言うよりも先に言い当てて見せた。
それが、単なる偶然では無い事を影夜は直感的に悟り、占い師の言う事に耳を傾けた。曰く、彼はかつて追放された陰陽師、中原常社の子孫である事、何故彼が悪夢を見るのか。そして、年の離れた姪が産まれたばかりである事、その姪が影夜と同じ「体質」を持つであろうことを告げた。
言葉だけでは信用できないであろう。そう言って彼が渡してくれたのがこの霊薬。「夢違え」というのは、その占い師自身が付けた名前だという。内なる霊気を活性化させつつ、同時に精神も安定させる効果があるということだった。
今では、影夜自身がこの薬の構造、製造方法まで見つけ出し、自らの手で作る事も可能となっている。それを聞いて、あの占い師は大層驚いていた。もしかしたら、驚いた振りをしていただけなのかもしれない。彼の恐ろしい所はそこだった。芝居か、それとも本音なのかが分からないというのが。真偽はさておき、影夜が天才なのは確かだった。それは自分でも気が付いている。他の術者は自分程、早く言霊を編めない。術を構成出来ないし、出来たとしても精巧性に欠ける。彼はこの七年間、家族の元を去り――彼らの記憶は占い師によって消された――あの占い師の元でひたすらに修行を積んだ。呑み込みは早く、術の出来は他の弟子達の比ではない。
もはや、自分は悪夢に怯える幼い子どもではなくなっていた。今の彼には力がある。――だが、しかし。
時折、聞こえる少女の声。それは囁き声、無視さえすれば空耳程度の事と思える程に小さな声。だが、それは紛れも無く闇に溺れる少女の声だった。影夜は一度だけ、その声に引きずり込まれた事があった。その時は十年ぶりにあの「悪夢」に溺れてしまったのだが……。
師に教わった術を使い、彼は彩弓を操ろうとした。だが、操り、彼の人形とするまでには至らない。せいぜい出来るのは、彼女の意識に介入する事と、彼女の瞳を通して彼女が見たものを見る事くらい。
しかしながら、それでも彼女が見る悪夢に引きずり込まれないような耐性がついたのは、彼にとっては最高とまではいかないまでも、上々の出来だった。
そして、今もなお彩弓は彼自身に敵の情報を流し続けている。常社神社の戦いでは、かなり楽しませてもらった。敵が、彩弓こそがこちらの狙いであると、ものの見事に騙されてくれた時は思わず笑い出してしまったくらいだ。だが、今回はどうだろうか。
彼らは彩弓の目を通して、自分達が見られている事を知っている筈だ。あのおめでたい少年はともかくとして、白虎に、蛇の使い手ならば何か手を打つ筈だ。いや、もしかしたら、これはそうか。あえて、自分達を見せる事による「宣戦布告」
これから乗り込むという意志表示。それで、この影夜が慌てふためくとでも思っているのだろうか。それとも古臭い仕来たりに則り、正々堂々と戦おうとでも言うのか。
影夜は昔から戦いにおける「礼儀作法」というものが嫌いだった。というよりも、古い考えに固執し過ぎている人間やその体制を憎んでいたというべきか。彼らには、中原影夜流のもてなしで戦いを楽しんでいって貰うとしよう。
――敵が車を止める。
――彩弓、笹井、未来を残して敵は車を出た。
――曽我海馬が、白虎をその護衛として置いていく。
影夜は待った。敵がこの館に通じる道を歩き、館の敷地内へと主の許し無く入るその時を。その先の事をも、考える。彼らは一直線に此方へと向かってくるであろうか。それとも、二手に分かれるか? 出来ることならば“後者であってほしい”。
仄かな光は空中にこの屋敷内の図を映し出す。その中で虫のように蠢くのが、侵入者共だ。館内にいるのは二人。光が図から飛び出し、人の姿を模った。
「白虎殿に、蛇使い殿、か」
影夜はひとりごちる。この若さで、何年も館の中で一人で暮らしてきた彼は、独り言が癖となっていた。そして、青年に似つかわしくない酷く老獪な口調になる事もしばしば。親しい間柄に対してであれば別だが、そうでない者に対しては、等しく冷徹な口調で応じる。
――これ程にまで不安定なのは、もう何年も眠っていないせいだろうか、それとも師から自分の境遇について聞かされた時からか。
だが、それを今、考えるのはよそうと、影夜は図に向き直る。屋敷の地下にも反応があった。光点は二つだ。
――二人だ
「忌人、土人、厄災よ、二人を速やかに討ち、その首を私の元へと持ち帰るべし」
護符を式磐の前に翳して、影夜は命じた。敵は、影夜が自身を囮にして、自分の「作品」を逃がそうとすると読んだ筈だ。その予測はある意味では間違ってはいない。
「力及ばずとも必ず、差し違えよ」
だが、影夜は彼らが思う以上に残忍な性格だった。敵の作戦を知り、予測し、あえて相手の策に飛び込む。そうして、相手を力でねじ伏せるその瞬間が、彼にとっては快楽だった。尤も、今回はそれ程上手くいくかどうかは分からない。なにせ、相手はあの陰陽少女。それに気に喰わないがあの少年も、常社神社での戦いを生き延びた。
彼を殺し、陰陽少女の精神を叩き潰した上で処刑する。それが、影夜の描いた道筋だったが、上手くはいかなかった。詰めが甘かったのかもしれない。或いは、彩弓自身が常社の精神に介入してくるとは思いもよらなかったのだが。そこまで考えてふと、影夜は気が付く。映し出された人影に。
一人は沖一真だ。
だが、もう一人は――
「これは一体どういうことなんだ……」
老獪な口調が思わず消え去った事に影夜自身は気が付かなかった。たった今、戦略の常識が覆されてしまった事に驚くあまり、気にも留められなかったのだ。
そう、そのもう一人の人影は、陰陽少女のものではなかった。




