十五
†††
――あなたには何か悪い物が憑いている
そう言われて、信じる人間がどれだけいるだろうか。それを言ったのがインチキの紛い物の陰陽師か、本物の陰陽師であるか等、関係なく多くの人間は信じないと答えるに違いない。
では逆に、信じる人間がいたとして、それはどんな人間だろうか。身内に不幸があったもの? 立て続けに恐ろしい事が起きている時? 或いは単なる怪奇現象を見聞きして、信じてしまう者もいるかもしれない。ともかく、何か悪い物が憑いているのではという疑いが主観的に――時には客観的にも――認知出来る時であろう。
しかし、例外もいるものだ。「本物の陰陽師」による卜部で、自分には明らかに悪い物が憑いていると分かり、主観的にも客観的にも、何か悪い物が憑いているのだなと、認知出来てなお、彼はそれを信じなかった。
彼の名前は中原影夜。年は十七。肩の辺りまで伸びた髪は、一糸も乱れずに整えられており、その顔もまた、細面で誠実な青年を絵に描いたかのようでもあった。但し、顔の印象のままに、彼に付き合うととんでもない目に遭う。
彼が立っているのは、もういつの代かも分からなくなる位、昔の代より受け継がれてきた屋敷の三階。そこの障子窓から覗くのは、森林とその影ばかり。父と母は既に他界。ここに住むのは影夜とその後見人のみだった。そもそも、両親はここに中原家の館があるという事すら知らなかったのではないだろうか。
古来より陰翳の美が日本では追及されてきたが、この中原邸もその例には漏れなかった。仄暗さ故の美、しかしながら闇が渦巻くこの屋敷においては、美よりも先に不気味さを感じ取る者の方が多い。
――この家には何か悪いものが憑いている
そんな曖昧な事を言う者もいるが、彼自身はそれを否定している。
「それで?」
部屋の片隅から語りかけて来たのは、赤の僧衣に身を纏い、純白の頭巾で顔を覆い隠した不気味な僧だった。障子から仄かに挿す光が、彼の体半分を照らし影の暗さを、彼の奇奇怪怪とした存在を確かなものとしていた。
芸術に疎いというよりも、興味の無い影夜だが、流石にと思う。中原家は化け物屋敷では無い。化け物は一匹いれば十分過ぎるのだ。
僧はこちらを見たまま、それ以上を言わない。黙っていると百年でもここにいそうな雰囲気だったので、影夜は溜息一つ吐いて、障子に背を向けて、僧へと向き直った。
「陰陽寮の連中は時期、ここを嗅ぎ付けるだろう。僕は、ここで彼らを仕留めるつもりだ」
「その自信があるか。君はあらゆる手を尽くして陰陽少女を始末しようとした。しかし、失敗した」
「……不名誉な戦歴を思い出させてくれてありがとう。だが、心配はいらない。あの陰陽師の小娘も、そのお付きのあの少年も、まとめて魂を吸い出してしまえばいい」
影夜の意気揚々とした言葉に、僧は少しも感心していないようだった。手に持った錫杖を軽く打ち鳴らし、再度問う。
「出来るかな、君に?」
「なんだい? あの小娘は僕らの計画にとって、最大最凶の障害だと、だから僕にその排除を頼んだんじゃなかったのかい」
「お前の不手際さに驚かされたのでな」
人の傷に塩を捩じりこむ事など、彼はまるで意に介していないようだ。いや、そもそもどうすれば人が傷つくのか、それすらも分かっていないのかもしれない。仮にも僧であるのに、それはどうなのか。
「沖博人。実を言うとね。僕は彼を心の底から信頼していたってわけじゃないんだ。色々とあの師には教わりはしたものの、肝心なことは何も教えてくれない。得たいが知れなかったなぁ。だけどお前はその上を行くね」
」
影夜は反論のつもりで、言ったが御覧の通り……彼は表情どころか、声の調子すらも変えなかった。
「我々の願いと君の願い、合致したものと思っていたが、私の勘違いであったかね?」
この質問はほんの一瞬、彼らの間に緊張を生んだ。この僧の物言いは、妙に腹が立つ。だが、怒りのままに立ち向かい殺し合いを始める事には何の意味も無い。影夜は鷹揚に手を振り、この質問を回避する。
「ふん、今更裏切っても孤立して討たれるだけさ。で? 討てるかどうかだけどね。正直言って、無理じゃないかとも思っている。初手で奴らを片づけられなければね。それなら、それでいい。勝てはせずとも、見せつけてやるさ」
「君の存在意義をか?」
この質問は、影夜の頭の中で常にされてきたものだった。そして、出される答えは常に同じ。
「行き着く事の無い魂――その矜持、さ」
「よかろう、影夜殿。君に全てを任せよう。もしも――」と僧は言葉を区切り、嫌悪を覚える間を作り出した。
「もしも、敗れた場合は逃げるが良い。君は、貴重な存在だ。我々は再び受け入れるとも」
「それは、魅力的だな」
心とは裏腹に影夜は薄く薄く笑んだ。その笑みは月夜に照らされ、彼の存在意義を示すかのように、鈍く黒く光った。
†††
神社を出る頃には既に夜が始まっていた。陽の界にある常社神社は相変わらず、荒れ果てており、あの戦いが終わった後もそれは変わらない。ここで戦いがあった事をこの世界の誰が知るだろうか。
ここでの戦いは、歴史にも記録にも刻まれない。少なくとも、表向きは。そう思うと、あの戦い自体が幻想の中の出来事であったのではないかとすら、錯覚してしまう。しかし、あれが幻想だとすれば、今ここにいる自分は何者なのだろう。
先程、双子の巫女に対して言った事が頭をよぎる。双子のうち一人は、一真が実際に戦い、言葉を交わした――霞だ。
彼女達の気持ちも考えずに、知った風に言葉をぶつけてしまったという罪悪感が、心にはあったが、それでも一真は言わずにはいられなかった。
自分の存在に誇りをもっての言動だったのだとすれば、猶の事。ふと陰陽寮、そこに属する人間の考えと自分の考えは、真っ向からぶつかると一真は思った。この先、月と共にある事で、何度も対立する事になるかもしれない。その時、迷いを持ったまま向き合う事は出来るのだろうか。
「ほら、迎えだ」
海馬が、指差すその方向を見て、闇に慣れた目にライトの光を受けて、一真は瞼を半分閉じる。現れたのは黒塗りの乗用車だ。どことなく年代を感じさせる作りで、気品さがある。ドアが開き、中から現れたのは狩衣姿の男。その所作はどこか機会染みていて、その顔ものっぺりとしていて、一見すると平凡で、街中にいたらまず目立たないだろう。が、その眼光に宿す意志の強さが、彼の存在感を主張する。
が、続いて出てきた少年の姿に、一真は思考を停止させる。
「や、一真。今回もまた、妙な事に巻き込まれているみたいじゃんか」
「霧乃!?」
藤原霧乃。沖一真の友人にして、栃煌高校の高校一年生というのは、表向きの話。現陰陽寮に属する陰陽師だ。霧乃は、久しぶりに会った友人に対し、変わらない気さくさで接してくる。
「で、今回は何? ハーレム主人公の如く、巫女を新たに三人落としたとか、そんな波乱な出来事が起きたと、俺は予想しているんだけど」
あるわけないだろと、反論しようとした一真の後ろで、ミシッという音が聞こえた。耳の感度が壊れているのでない限り、それが穏やかな音でない事は誰にでも分かる筈だ。恐る恐る振り向く。先程の「ミシッ」というのは、月が道の端に生えていた木の根っこを足で踏みつぶしたのだと分かった。いや、起きた事象としては分かったのだが、どこからそんな怪力が生まれたのかは分からない。いや、分かりたくない。
「まさか、そんなつもりであんな言葉を……」
「あんなってどんなだよ……いや、待て。俺はただ、あいつらに、もっと自分や周りの人を大切にしろと言いたかっただけで……」
腕に円状の結界をされて、車の方へと歩んでいた双子はその言葉に立ち止まる。双子のうち、肩ほどの長さの髪の少女――八鹿と言ったか――が訊ねた。
「それ、本当?」
月が放つ圧力を必死に抑えようとしながら、一真は頷く。
「そ、そうだよ。別に説教を垂れたかったわけじゃない……悪かったな。お前達が信じているものを踏みにじるような言い方になっちまって」
八鹿は言われ、袖で口を覆った。その頬がほんのりと赤くなったのは気のせいだろう……と見過ごそうとしたのは一真だけだ。
「一真……」
虚ろになる月の声に、一真はじりじりと後退る。困った事に、海馬や日向や笹井は笑うばかりで、手を貸してくれないし、未来はそっぽを向いている。彩弓に至っては、何が起きているのかもよく分かっていないようだった。
「あぁ、なんだ口説く手前だったのか?」
「お前は黙ってろ!!」
霧乃に向かって怒鳴る一真の横を、双子の巫女が通り過ぎ、陰陽師が車へと乗せる。
「フン、あんな男のどこが良かったの?」
「べ、べ、別に何も言ってません。聞いただけですー」
双子が交わした言葉には、先程のような機会染みた調子は無かった。一真はその事に少しだけ安堵する。ふと、横を見ると双子と同じように腕に環状の結界を張られた橘花が、何か言いたそうにこちらを見ていた。
「その、ごめんなさい。あなただけではないけど」
「別に気にするな……とは、流石に言えない。だけど、お前は常社を助けたかったんだろ?」
「その想いが強すぎて、逆に憑かれてしまったようです」
橘花は自嘲気味に笑う。一真は顔を曇らせた。強過ぎる想いが、人を誤った道に導くとは。先程の陰陽師が早くするように、と促す。もっと話を聞きたかった。彼女がどうして、常社を助けようと思ったのか。いずれ分かるだろうか。
「私が言うのもなんですが、この怪異を裏で操る者、必ずや捕えてください……それでは」
しずしずと、鹽らしい足取りで車へと乗り込もうとして、ふと橘花は足を止める。
「その、もしもまた、会う機会があれば……そして、もしもその時、その……月に飽きたら、いつでも言ってください」
……何を? 一真が問うよりも先に橘花は乗り込んでしまっていた。その口元には悪戯を仕掛けた子どもみたいな笑みが浮かんでいたのは気のせいだろうか。車は物凄い速さでバックすると、方向転換すると元来た道へと消えていった。
しばし、その跡をぽかんと眺めていた一真の後ろで、何かが砕けるような音が聞こえた。
「一真ぁ……」
ハッと振り返ると、虚ろな表情のまま近づいてくる月の姿があった。
「待て、今度は何だ? 何をそんなに怒ってんだよ!」
「怒って……なんかいない」
……確かに。彼女の目には涙が浮かんでいた。だからといって、事態が良くなったわけではない。むしろ悪化している。
「あぁ、お姉ちゃん泣かせたの?」
彩弓が顔を真っ赤にして問う。即座に否定したいところだが、それが自分を更に崖っぷちへと追い込むことは分かっていた。
「本当、最低よね……」
未来が彩弓の耳元で言う。冗談の気がまるで無いのが怖い。
「約束……したのに」
「いや、待て待て」
これ以上放っておくと、本当に亡霊になってしまいかねない。彼女の肩にそっと手を置き口を開こうとして、一真は溜息をついた。ここでは言えそうに無い。今日一日を振り返ってみても、一真は自分自身の力、覚悟というものに、疑問を持たざるを得なかった。
自分は余りにも様々な要因に振り回され過ぎる。……だが、一点だけは決して揺らがない。
「その、俺が……」
言いよどむ。
「一番好きなのは月なんだ」
「――!!」
悲劇の涙は感激の涙に代わる……それを尻目に一真は式神の頭に拳骨を落とした。
「……俺が言おうとしたことを勝手にねつ造するな」
「ひどーい……、一真君が自分で言えないだろうと思って代弁したのにぃ。式神虐待!」
「本当、自分で告白も出来ないような男って最低よねー」
彩弓の耳元で囁く未来。四面楚歌とはまさにこの事かと、一真はぎりぎりと歯ぎしりする。
酷く気まずい状況――主に一真にとって――を尻目に、霧乃がすっと懐からあるものを取り出し、海馬に渡した。
「影夜の居場所は火龍さんから聞いておきましたよ。尤も、既に逃げ果せている可能性が大ですが」
「ここから近いな……とはいえ、このまま突入するのも無謀ってもんやね。俺らはあの神社の騒ぎですっかり消耗してしまってる。あ、それとも、他に戦力が?」
海馬の期待は、かぶりによって呆気なく打ち砕かれる。
「即座に回せる戦力がありませんね。他の所でも無視するには、大きすぎる怪異が頻発してますし。それにほら、例の奴が目撃されてますからね。そっち追う方に皆、血眼になっているわけです」
例の奴? 月に詰め寄られながらも、一真は耳を傾ける。月もハッと我に――後一歩で一真の首に手を掛けるところだった――返る。
「ここに一番近くて、今すぐ動けるのは俺達だけって事です。ただ、相手が相手だけに消耗しきった状態で戦うのは得策ではない、と。で」
「休息が取れる場所でも確保してくれたんか?」
霧乃は頷いた。いつもの通り、何を腹に抱えているのか分からないような笑みを浮かべて。
「休息場所として、宿を二時間だけ借りましたよ」
†††
霧乃が言う休息所とは、ログハウス仕立ての宿だった。丁度、常社神社があった山の麓の方にぽつりとあった。周りは木に囲まれて……というよりも木しか見当たらない。行き当たる道は狭い道路が一本のみ。車がやっと一台通れる程。
そこまで気付いて、一真は霧乃がどうして、ここを借りる――というよりも借り切った――事が出来たのかに思い至った。誰もここに泊まろうとしないからだ。実際、ここは広さに反して従業員は、調理人を含めても、三人。手入れが行き届いていないのか、所々の床が傷んでギシギシと音を立てた。ある意味で幸いだったかもしれない。
巫女が三人(日向含む)に狩衣姿の青年二人に高校生二人という非常に奇妙な組み合わせでも、宿の人間は疑問を何一つ挟んで来なかった。霧乃は「二時間だけ借りた」と言っていたが、果たしてどんな交渉を行ったのか気になる。
海馬はここで与えられた時間の内、一時間を休息、残りの一時間を作戦会議の為の時間とした。一真はしばらく一人で広い宿の中をぐるぐると歩き回っていた。彩弓とは何度か遭遇した。彼女は広い宿を大層気に入ったようで、燥ぎ回って休む気配すらない。それを言うならば、一真も休めそうな気がしなかった。今日は朝から戦い、戦いの一日だった。それが突然「休息だ」と言われても落ち着かない。
頭では少しでも休まないといけないと分かっているのだが、身体が言う事を聞きそうにない。少しでも動いていないと気が済みそうにない。
下に降りて、何か頼もうか。食事を注文するには、食券を買わなければならない。客が殆どいない現状では食券をいちいち買う意味はあまりないだろう。ぼんやりと歩いていると、ふと扉のない部屋を見つけた。青色の暖簾が掛かっている。中は暗くぼんやりとしていて、何も見えない。なんだろうかと思っていると、どんと腰の辺りに衝撃が走る。
「一真お兄ちゃん、また見つけたよ!」
腹の辺りに埋めた顔を上げて、微笑む彩弓。背中を掴んでいる手が汗ばんでいた。額も汗だくで、結った髪までもが、弛んでいた。
「はしゃぎ過ぎだぞ、彩弓。汗だくじゃないか」
小さな手をさりげなく、剥がす。彩弓は今まで見た事の無いくらいに喜んでいた。心の底から生を享受している。蛹から放たれ、空を飛ぶ蝶のように。考えてみれば無理も無い。今のいままで、あの薄暗い神社に監禁されていたのだから。そして、それ以前の事は一真にも想像がつかない。親戚を盥回しにされる。家族が何度も変わる。聞くだけでは、俄かに信じられない。だが、事実。この先もどうなるか分からない。
「へへ、だって楽しいもん」
出来る事なら彼女を助けられたらと思う。だが、どうしたらいい? 一介の高校生にどうにか出来るようなものではない。家に泊めるのとは訳が違う。彼女の居場所を見つけなければ。
「わかったわかった。だけど、汗流さないとな」
「お風呂入るの?」
「……俺と、じゃないぞ。一応言っておくが」
念のために予防線を張っておく。彩弓はさっと目の前を指差した。暖簾の掛かった入口を。
「ね、これ温泉じゃない?」
「いや、こんなオンボロな宿にそんな大層なもん……」
あるかもしれない。温泉だけが売りの宿――というよりも、温泉があるから宿にしようとした場所なのかもしれない。考えている間もなく、彩弓は暗い部屋の中へとサッサと入って行ってしまう。
やれやれと思いつつ、後を追う。部屋が暗いということは、今はまだ入浴時間ではないのだろうか。或いは、電気代の節約の為だろうか。壁についたスイッチを押してみるが付かない。単純に、蛍光灯が切れたのかもしれない。
壁沿いに置かれたロッカーは所々のペンキが剥がれている。扉や鍵のような物は備え付けられておらず、籠が置かれているだけだ。不用心なとも思ったが、そもそも客がいないのだから犯罪が起きる筈も無いかと、酷い事を思う。ふと奥の方から声が聞こえ、一真はそちらを見た。ガラス張りの扉の向こうで影が動く。ぎくりとして、一真は辺りを見回した。籠の中に三人分の服が畳まれて置かれていた。うち二つは、巫女装束、もう一つは制服だ。
そして三着とも服の上に律儀に畳んで置いてあるあれは――……下着のようだ。洞窟を歩いていたら、虎の巣に行き当たったような気分になりつつ、一真は半身になりながら後ろに下がる。
月と共にあるという覚悟はあるが、それはつまり男女の壁を容易に飛び越える材料にはならない。
だが、勿論、男女の壁についてまだしっかりと理解していない彩弓は、この緊迫した状況を理解出来る筈も無かった。
「あ、お姉ちゃん達こんなところにー!」
一言で言えば不可抗力であった。ガラッと横に空いた扉から現れたのは、月。
「彩弓……、どうしたの?」
頭に巻いたタオルの下から覗く艶が掛かった黒髪に一真はどっきりとする。
――裸ではない。ちゃんと前をタオルで隠していた。だからと言ってこの場の救いにはならない。
普段は、月光を浴びたかのように真っ白な肌は、熱を帯びているように所々ほんのりと赤く、艶めかしい。そしてタオルがその体の大部分を覆い隠しているとはいえ、否、むしろだからこそと言うべきか、身体のラインははっきりとしていた。
身体全体はほっそりと、だが痩せすぎもせず、二の腕や殆ど剥き出し状態の白い太腿はしなやかで力強い、それでいて女性的な柔らかさもある。
――そしてなんと言うか。普段は狩衣だの巫女装束だのやたらと、身体全体をすっぽり覆い隠すような服を着ているせいで、気付かなかったのだが――。
「え……?」
そこまでじっくりと思考出来てしまったのは、月の反応が余りにも遅かったからかだろう。
――あ、あれ? 思考まとめている間に逃げれば良かったんじゃ、いやしかし、逃げた瞬間に八つ裂きにされたかもしんないし……。
等と考えている内に、月の顔は見る見るうちに耳まで赤く染まっていく。長湯で逆上せたせたから、とかめでたい現実逃避は出来なかった。月がはにかみながら、とんでもない事を聞いた。
「え、え、え、え、え、っとと――一緒に入りたいの?」
一真は両手を振って、全力で否定しようとし――舌がもつれた。
「い、いや違う、彩弓が」
「ま、さか――」
月の瞳孔が徐々に開いていく。実にコワイ。突き方を間違えたが最後、浄化されかねない。影夜との決戦を前にそれは困る。
「違う違う、彩弓が入るって言うから……」
「な、にも、違わない」
「違う! 俺と“一緒に”じゃ――」
「一緒に……!」
「最後まで聞け!! じゃなくて、彩弓が一人で入るって言うから……」
月はちょっと考えてから、ハッとした表情になる。ようやく理解してくれたかと、一真はホッと胸を撫で下ろす。――瞬間、月の瞳孔が一層見開かれる。
「後を追って……こっそりのぞこうと!!」
「違――!」
「……何してんのよ、あんたは」
ゆらりとその後から出て来たのは、未来。こちらはタオルをしっかりと巻いていた。しっかりとした、しなやかな筋肉と細く長い素足。ただ、それに対して意識を向け――なぜそうする必要があるのかは分からない――ている暇は無かった。
「い、いや、誰もいないと思って」
「そーう、じゃあ、これは事故ってわけね」
「そ、そうだ……はい、そうです」
ほっとしたその隙を狙い澄ましたかのように、未来は手に持った桶を投げつけた。
「だったらぁ、なんでいつまでもそこに突っ立ってんだ、この色欲ボケェエエエエ!!」
見事なフェイント。そして木の桶は予想していたよりも硬く、未来の投げのキレは鋭い。ゴーン! というやたらと良い音を立てながら、一真は部屋の外へと吹き飛ばされた。
後頭部を床に打ち付け、意識が落ちるその直前にふと聞こえた声、「え? 一真君? なんだぁ、皆で一緒に入ればいいのに」というのは、自分の色欲故にでは無い事を、一真は祈りつつ闇の中に落ちていった。
女湯騒動(この騒動で、一真はその後、宿を出るまでの間“破格のドスケベ”との二つ名で忌み、呼ばわれる事となる)から十分後、一真自身も汗を流す為に宿の温泉へと向かう。勿論男湯である。
未来が投げつけた木桶にはお湯がたっぷりと入っており、その分、威力が高かったらしい。勿論それだけでなく、一真は身も服もびしょ濡れにされてしまった。気を失ったのはほんの数秒だったが、後頭部が未だに痛い。変な後遺症でも出ていたらと思うが、それを盾に未来を問い詰める事は出来ない。
女性陣(日向と彩弓除く)のあの怒りの妖気渦巻く中でそんな勇気を発揮出来る筈がない。
男湯は二階にある。青色の暖簾だ。男湯とも女湯とも書いていない。これでは事故が起きて当然だろう。その唯一の事故犠牲者が自分だけというのが、一真にはどうにも納得が行かないのではあるが。
びしょ濡れの服を脱いで籠に入れ、タオル――一階で売っていたやたらと高価な――を手にとる。籠は他に二籠使われている。いずれもぞんざいに狩衣が放り込まれており、女性陣と比べるとその差は歴然としている。何となく、自分がだらしない男陣の一員ではないことを示したくて、丁寧に畳んでおく。無論、誰も見てやしないから、自己満足にしかならないのだが。
そうして、一真はタオルを持って、ドアを開けた。途端、むわっと立ち昇る湯気。身体全体を生暖かい湿気が包んだ。
浴室は想像していたよりも広い。一面に突き詰められた敷石、龍を模った小さな像からはお湯が止め処なく流れている。上を見上げれば、天井はガラス張りで、夜の星空が拝める。
海馬と霧乃の二人は、ぼんやりと上を眺めながら湯船に浸かり、揺られていた。一真は急いで身体を洗い、湯へと足を入れて、そろりと二人に近づく。
「お、来たね。さっきは大変な騒ぎだったみたいだったじゃんか」
一真は怪訝に眉を寄せて立ち止まる。
「えっと、なんで知ってんの?」
「一階下まで聞こえていたのでしたー」
呑気に笑う友の顔を、湯船の底に沈めてしまいたい衝動に駆られたが、実行はしなかった。後、一時間程もすれば、決戦へと向かわなければならないのに、ここで一人潰してしまうわけにはいかない。
海馬はそんな二人の阿呆らしいやり取りには目もむけず、上を向いたまま静かに目を瞑り、ただ流れに任せて微睡んでいる。
これまでの戦いで高揚感も、これから更に戦いに臨むのだという緊張感も全て放したかのように、手をゆったりと広げている。
「なんや? 何か聞きたいことでもあるんか?」
気配だけで察したのだろうか、海馬は目も開けずに聞いた。一真は聞くべきか聞かざるべきかと迷った挙句、他に話題も無いしと切り出す。
「京都での月がどんな様子だったのか、聞いてもいいですか?」
「言わぬが花って言葉が、京にある。謎が多い方が、女性は魅力的だと思わんか?」
一真が黙ったままでいると、海馬は参ったというように口元に微苦笑を浮かべる。
「とはいえ、俺は京都生まれではないんでな。話そうか。何が聞きたい?」
「その、俺が初めて会った頃のあいつは、もっと……なんというか、元気な性格でした。今みたいに内気になったのは、やっぱり京での生活で?」
「あぁ、ま、そうやなぁ。京に来たばかりの頃のあいつは、お前の言う通り、元気でやんちゃな娘だった。思った事は、はっきりと口にするようなタイプで……ま、奥ゆかしい京の住人の性格とは必ずしも合うとは限らんかったな」
京都。実を言えば、一真は中学の頃の修学旅行で一度行っている――道端で月に出会えはしないかと期待もしたが、そんな事は無かった。観光地であるから故だろうが、京の住人はどことなく、腹が読めないような所があるように思えた。
常に当たり障りのない言葉と笑顔、だが本心では何を考えているのか……。
「段々と内気になったのはそういうのも、あるんやろ。だが、勿論、それだけじゃない。それはあくまでも性格の変化を助長した要因の一つに過ぎない。お前も知ってるやろ? あいつが抱えてる物を」
陰と陽、二つの神の加護と呪い。一真はそれを聞いて気持ちが沈む。だが、海馬は表情一つ動かさなかった。何も感じていないわけではないのだろう。
「陰と陽、二つの世界を創世したとも、分けたとも言われとる月或いは、陰の神そして日或いは、陽の神。その加護を給う事が何を意味するのか、それを彼女は物心ついた時から、分かっておった。そのせいで、大切な人間全てから離れようとした時期もあったなぁ」
それは一真自身も経験した。大切な人間を遠ざけなければいけない。それによる心の傷はいかほどの物だろう。遠ざけられた人間以上に、遠ざけた本人が一番辛い筈だ。
一真は俯き、水面にぼやけて映る自分の姿を見る。かわって自分はどうだろう。闇に囚われ喰われる体質、内には深淵のように暗く深い力が根付いている。結局この力の正体を、一真は曖昧にしか把握していない。分かっているのは、強い怒りに駆られた時にだけ発揮するという事と、自分が自分ではないかのような、強い力を得るという事だけ。
戦闘もののアニメにありがちな、ただ強くなるのとは違う。
自分であって自分ではない者の殻の中に閉じ込められてしまうようなあの恐ろしさ。常社の時の戦いでは自分を乗っ取られるまではいかなかった。だが、次は分からない。それを抑える為に、自分は霊力の鍛錬を繰り返している。だが、果たしてそれは抑える事が出来るものなのかという不安はある。
「なぁ、一つ問う。一真よ」
海馬がゆっくりと瞼を開いたのと、彼の声の調子が変わったので、一真は我に返り、彼を見た。海馬の顔からはいつもの飄々とした調子は消えていた。淡々とした、冷たさすら感じさせる表情に、一真は思わず身を引きそうになる。
「お前は同情から、月と共にいることを決意したのか? それとも別の理由か?」
鋭い眼光は、それそのものに霊力が宿っているかのようだった。肺を鷲掴みにされるような感覚。だが、一真は自分に視線を逸らす事を、答えをはぐらかす事を許さなかった。そう、初めて出会い、戦った時には、結局出さなかった答え。
「同情じゃない」一真は慎重に答える。頭には様々な言葉が浮かんでは消える。だが、どれもしっくりと来ない。言葉を連ねる事は容易い。だが、この心にあるものを言葉として「具現」すると。
「月が好きだったからです。初めて会ったその時から」
長い沈黙が降りた。誰もが黙り、その言葉を頭で噛みしめるように海馬は、目を閉じた。一真の言葉に対して何を思ったのか、彼は話さない。
水面に雫が落ち、波紋が広がる。そして、初めて沈黙を破ったのは霧乃の笑い声だった。皮肉気が無く、純粋に面白がっているようだった。
「本当、面白いよね。クラスに流したらもっと面白い」
「流すなよ? したら承知しねーぞ?」
軽く冷や汗を掻きつつ、霧乃を制止する一真。海馬は軽く口元を緩めただけで、一真の答えに対して口を挟まない。そのまま、何を思ったのか、タオルを取って湯から上がり、更衣室へと向かっていってしまった。何かを問う間も無かった。
一真は少し心配になり、その後に続こうとする。
「なんだ、まだ入ったばかりじゃんか、もっと浸かっていけよ。後、十分くらい余裕がある」
「いや……なぁ、海馬さん怒らせちまったかな?」
言い淀みながら、一真は海馬が出て行った扉の向こうを眺める。霧乃はくすくすと笑っていた。だからといってあまり、救いにはならない。
この少年はいつも口元が笑っている。それこそ、腹に一物どころか二つ三つ抱えていてもおかしくはない。
「怒ってないさ。むしろ感激してるんじゃないかな」
「どうだか」
他人事だから、霧乃は笑っていられるのだと、一真は唇を噛む。ふと、ある事が頭に浮かんだ。これをこいつに聞いていいものか一瞬悩んだが、微妙な表情の変化を読み取ってか霧乃が怪訝に眉を上げた。
「なんだ、俺にも聞きたい事ある? 月の恥ずかしい事ベスト3とか?」
「碧に聞かれたら、八つ裂きにされんぞ……てか、お前も京都にいたのか?」
霧乃は両手を気障たらしく上げて、肯定した。
「あぁ。ここ来たのは一年前だ。尤も、この約十五年もの間、ずっと京都育ちだったてわけではないけどな」
そうなのかと反応する一真に、霧乃は何やら妖しく笑んで見せた。
「舞妓の知り合いも何人かいるぜ。紹介しようか?」
「いい、別に」
――即答。
「フッ、月一筋ってのは間違いないようだ」
「あんまり、からかうと怒るぞ?」
勿論、霧乃の言っている事は間違いではない。ただ、霧乃の思っているような事とは違う。それを一から説明しようとは思わないが。この類の話は、友人とすべきではない。
「現陰陽寮……だっけか。そこはどんなところなんだ」
「どんな所、ねぇ。改めて聞かれると困るが、『今』の陰陽寮はそうだな。お前にも分かりやすく言うと剣道みたいなものだ」
それのどこがわかりやすい例えなのか、一真には分からない。霧乃は星空を仰いだ。
「陰陽師ってのにも色々あってさ。例えば春日の家は、その昔から陰陽寮に属していた名門ってところか。同じく栃煌神社にいる吉備家は、元々は属していない方」
国家公務員と民間企業みたいなものさと、霧乃は言った。
「陰陽寮は一度、明治の時代に潰れた。時の政府によってな。それまで陰陽師として活動してきた連中は納得しなかった。で、自分達で新たな陰陽寮を作ろうって事になったのさ」
それが、今の現陰陽寮。そこに属するのが、陰陽師。陽の界、陰の界、その安定を保つ者達とその拠り所となる場所。
「彼らは、政府に干渉されずに活動を続けられる事を望んだ。政の都合で、物の怪を討てないなんて事があっちゃ困るってね。だから、彼らは政治ではなく、使命でもって仲間をまとめた」
光と影に一線を敷き、その法則を捻じ曲げるものがあれば、滅する。全ては安定を齎す為に。
「組織の内部も大分変わった。元々、陰陽師の主な仕事は卜部――占いや時や暦を司る事だった――本当の狙いは司る事ではなく、時や暦から、世界がどれだけの安定を保っているかを占うか、なんだけどな」
「そうだったのが、物の怪を討つ仕事の方が増えたのか?」
一真が訊ねると、霧乃はそうだ、と肯定する。
「京を守護する“四神”“化生討滅士部門”ってのは、非公式ながら以前の陰陽寮でもあったんだが、特に“化生討滅士部門”が圧倒的に増えた。それまで官僚陰陽師だけで錐揉みしていたところを、他の隠れ陰陽師だとか、法師陰陽師だとかを積極的に取り入れたんだ。陰陽師の絶対数自体が少なくなっていたからな。もう、果たして陰陽師と呼んでいいのかわからん奴も取り入れていたって話さ」
国という大きな後ろ盾を失ってしまった結果だろう。それまで受けていた支援を全部自分達で、賄わなければならなくなった。
「陰陽師の中には、神道系の霊術だったり、仏教系の霊術だったり、そのほか、山伏やら方術系の霊術だとか色々な術を使う奴がいたわけ。ま、ぶっちゃけると物の怪が討滅出来て、世界が安定を保てればどれが利いてもいい。だから、来る者は拒まなかったのさ」
「わりと適当だな……」
一真が呆れると、霧乃は愉快そうに笑い、湯を叩いた。
「昔からよくある考えさ。神仏の考えがごっちゃになったりとかはよくある話だし。本当、強かと言うべきか。だが、そうした霊術の利点となる部分を全て総合した結果、より効率的で、強力となったんだ。陰陽師は」
成程、確かにそれは剣道が辿った道にも似ている。様々な流派に分かれていたものを一本の道に集約したという意味では。
「だけど、逆を言えば世界の安定を保つ為なら、何でもするってことだよな。多種多様な霊術も、その使い手もその為の道具に過ぎない」
一真が静かに呟く。霧乃は答えなかった。この質問は彼にとってはあまり好ましくなかったものなのかもしれない。彼はゆっくりと息を吐いた。
「そう。実際、良いか悪いかはともかく、使命の為にならなんだってするって奴が多い。ほら、橘花の妹の双子巫女。あれがいい例さ。自分達は使命の為に生きているって自負がある。そういうやつは、力が増すと傲慢になる。年長者ですら、ね」
それは一真自身にも言える事かもしれない。月を護ると決めた。その事を第一に優先し、その為であれば、どんな事でもする、どんな敵とも戦うと決めた。だが、その考えが他の誰かを傷つけるような事になるかもしれない。いや、もう傷つけている。
沙夜という名のもう一人の陰陽少女。彼女も助けを求めていた。だが、一真は彼女を助けなかった。見逃しただけだ。今もなお、彼女はこの世界のどこかを彷徨っていることだろう。見逃した事を、恨まれているかもしれない。月と共にいる事を、妬まれているかもしれない。何かを犠牲にしなければ、一人の少女すら救えない。そんな自分に吐き気を覚えた。
「俺は、だからお前が羨ましいよ。一真」
霧乃の言葉に、一真は思わずぽかんとした。聞き間違えかとも思う。だが、彼の顔に浮かんだ楽しげなだがどこか羨望のある表情に、真意を見る。
「俺達はただ使命の為に使い捨てにされる。どこの世界の神様が決めたんだかも分からないような使命に、だ。手前が生き残るには、現陰陽寮が何を考えているか、望んでいるのか、そいつを理解した上で、どう行動すれば自分にとってどう利益があるか、なんていちいち考えなきゃならない。だが、お前は違う。自分の好きな少女にとって、何が大切かを考えて行動すればいい。実に羨ましいよ」
「それ、褒め言葉か?」
霧乃は目を細め、急に真面目な顔になりながら、頷いた。今までに見た事無い程に真剣であった。或いは、彼がいつも微笑みの仮面の中に押し込めている真実の顔だったのかもしれない。
「いいか、一真。この先お前は、色々と戸惑う事、迷う事があるだろう。それは構わない。だけど、最終的に月に取って大切な事は何かを考えろ。そうすれば、万事上手くいくさ」
霧乃からそんな言葉を聞ける日が来ようとは思っても見なかった。一真はなぜだか笑いだしたくなった。だが、それでは相手に対して余りにも失礼だろう。だから、冗談に留めた。
「……それ、占いでもしたのか?」
「あんまり、からかうと怒るぞ?」
本気で怒っているわけではない。霧乃は口元に元の微笑を浮かべつつ、湯から上がった。丁度、時間だ。戦いが始まろうとしている。その前に、こうして海馬や霧乃と話せてよかった。
――月にとって何が大切か。
たとえば、沙夜を殺さなかった事。
たとえば、彩弓を救った事。
それは決して間違った判断ではなかった。迷いがないわけではない。戸惑いがないわけでもない。しかし、それでも今の一真には、確かに芯となる部分があった。




