十二
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最後の階段は、以外にも短かった。首を出して覗き込んだ瞬間、一真は思わず息を呑んだ。最上階には襖も部屋も一つも無かった。
ただただ、床が四方に広がっている。暗くて奥は見えない。この広大な空間を照らすのは中央に円状に並べられた燭台の明かりのみ。そして、その燭台の中心に長く太い柱が立っていた。いや、そうではないのかもしれない。
この柱を中心として、この建物が建てられたのではないのか。
目を瞬かせる。床にいくつもの傷がついている。まるで、短刀でつけたかのような雑多な傷が。後から上ってきた月が、一真の袖を引っ張る。一真は頷いた。柱に縛られて座している人影がある。
未来。頭の天辺で留められた長く真っ直ぐな髪は、乱れてボサボサと垂れている。
彩弓。左右で二つに結った髪の輪が、力無く垂れ、その頬は上気したようにほんのりと赤い。笹井。体全体をぐったりとさせ、面皰の目立つ顔を青ざめさせたまま、気絶している。
「未来!!」
真っ先に駆け寄る一真の後ろで、月が息を呑んだ。
「待って! 一真!! 触らないで!!」
その警告の意味が分からず、一真は未来を縛っている縄に触れた。瞬間、掌に力が流れ込んだ。濃い熱が肌を溶かし、爛れさせる。血管を熱気が駆け抜け、体の奥にまで入り込む。肚の底まで焼き尽くすような悍ましさに、一真は手を放した。金切声をあげて、膝をつく。大きく開いた口から火が噴き出るのではないかと思った。
掌をちらっとみると、ガクガクと震えていた。触れたところが真っ赤に腫れ、血管が何かの紋様のように浮き上がる。
見つめた掌の合間、床に刻まれた傷が唐突に光を発し始める。光は傷口に沿って左右に広がる。ハッと一真は息を呑んで立ち上がる。床に幾つも刻まれた傷――否、それは傷ではない。
凹凸のあるそれは、しかし出鱈目に描かれたものではない。全ては計算されたもの。
光の一条と一条、それが繋がっていく。歪な曲線は、一周して円と成る。そうして浮かび上がったのは、五芒星と円形の紋様。
光り輝くそれは、美しくも醜い。
その紋の中心部には小さな台が置かれていた。
それは人が神に神饌を捧げるのに使う三方、そこに長い髪が載せられている。
生糸のような優美さと漆のような艶やかさは、光を受けて際立つ。
光は、屋根にも紋章を映し出していた。だが、それだけでは終わらない。屋根は光が当たると同時に、蜃気楼のように揺らめいて消え、陰の界の明けない夜の中に光の柱が、伸びていく。
「沙夜」
不意に言葉が聞こえ、一真は戦慄する。声は反響し、不快なまでの余韻を残す。しかし、その姿は見えない。
「沙夜っぉおお――!!」
再び、声。咆哮にも似た獣じみた叫喚。
「誰だ!?」
一真は、怒鳴り返したが、返事は無く、世界は再び静寂に沈む。
月がすぐ傍に立ち、ぎゅっと口を固く結んで、三方に載せられた髪の毛を見つめ続けている。まるで魅せられたかのように。とり憑かれたように。
そして、一歩を踏み出す。
「……血が足りない」
誰かの声と月の足音が、今にも朽ちそうな床を軋ませる。
「肉が足りない、骨が足りない、臓が足りない、魂は呼びかけに応じぬ……」
三方の前に立った月の目の前に、風に吹かれるようにして、一人の男が霞のように浮かび上がる。
「来た……沙夜の血縁の者、これで……」
酷く不明瞭な声。皮膚も肉も朽ち果てた、その髑髏は、双眸のみに不自然に生気がこもって爛々と煌めく。
「あなたは、誰?」
抑揚の無い声で月は虚ろに尋ねる。答えたのは一真だった。
「そいつが常社だ。違うか?」
常社は肯定も否定もしない。ただ、譫言のように呟き、震える拳を握る。
「……止められはせぬぞ、既に儀式は整った。贄は捧げられる、肉を引き裂き、骨を潰し、血で杯を満たして、沙夜を地獄から呼び戻す!!」
一真はちらっと柱に縛られている彩弓を見る。やはりと言うべきか、常社の狙いは彩弓ではなかった。
その視界をふわっと広がった黒髪が遮る。
月が放心したような足取りで、常社へと歩み、近づいていた。
「月!?」
一真がその手を掴むと、月はゆっくりと一真の方へと振り返った。思わず息を呑んだ。目は大きく見開かれて瞳孔が収束し、口は力なく小さく開いている。一真を見ているようで、見ていない。常社が背後からその肩を掴んだ。
「月――、贄としての役目を果たす前に、命じる。その男を手に持った太刀で斬れ」
何故、名前を知っている? 月はどうしてしまったのだ? 混乱と恐怖で一真は動けない。何よりも信じられなかった。月がゆっくりと片手に握った護身之太刀を振り上げたのを。
「馬鹿野郎!! 避けろ!!」
天の声が頭に響くが、身体を後ろに下げるのがやっとだった。光り輝く刃が振り下ろされる。一真は避けられない事を知り、だが目を閉じる事も出来なかった。結果として、彼は自分が何故助かったのかを知る。
刃は光を失い、太刀は懐剣へと姿を変える。常社は黙ったまま、何も言わない。髑髏の顔からは表情がまるで読めないが、何が起きたのか分からず、きょとんとしているようにも見えた。
一真もまた、不審に思った。月は未だ正気に戻っていない。何らかの術で常社が操っているのだろう。護身之太刀黒陰月影は、月の意志に反応して刃を形成する。それが消えるという事は、彼女の霊力が底をつくか、あるいは殺されるかだ。
それとも、何か別の要因があるのか、そこまで考えて一真はある意味では当然の考えに行きつく。
「聞こえてはいないだろうが……」
月影の声が、頭に届く。皮肉っぽくも、芯のある声。
「私をそこらの、有象無象の霊具と一緒にしてもらわないで欲しい。私が月の意志に同意する。そして初めて、私は力を貸す。操り人形に力を貸すつもりはない」
月は何も見ていない。刃を振り下ろしたまま、ここではないどこかに目を向けている。
途端、一真の気配は変わる。
「常社ぃいい!!」
叫びつつ、一真は破敵之剣を振り上げる。怒りのままに振り下ろしたのは、常社の髑髏頭――ではない。三方とその上に載せられた髪の毛が真っ二つに裂けて、宙に飛んで砕け散った。同時に、月が膝から崩れ落ちる。
一真は振り返ってその体を支えた。背後に常社が立っている、その事にすら気を留めずに。月が、ぱっと一真の顔を見る。
透き通るような瞳、形の良い唇、全てを包み込むような温かみを感じさせるその表情を見て、一真は安堵の溜息をつく。無事のようだ。
「あ、あれ? 一真……、私?」
「……下がってろ」
ぽかんとしている月を立ち上がらせ、一真は振り返った。底冷えする寒気が、内から湧き上がる熱にとって代わる。実に一週間ぶり。それまで抑えていた力が、心の臓を突き破るように、溢れ出てくる。博人はなんと言っていたか。
――あぁ。「闇に囚われる、喰われる体質――内の幽闇」だとか、言っていたか。あの叔父らしい回りくどい言い方だ。
だが、この男を引き裂けるのであれば、どんな力でも構わない。今や頭蓋の中にまで、熱くどろりとした感触が流れ込み、抑えきれない。床の印が、五芒星の光が乱れ、狂ったように輝きを増す。
破敵之剣から霊力が流れ込んでいるのか、一真から霊力が流れ込んでいるのか。
あるいは、一真が力を操っているのか、力が一真を操っているのか。
瞳の中で常社は燃え上がっていた。常社が震えるような声を出した。
「おおおお……」
しかし、それは恐怖故のものではない。
「怒りを感じるぞ、お前の……お前も……そうか、そうか」
譫言のようなその言葉に、月はついていけないようだった。
「あなたは……常社?」
一真は頷き、首肯する。
「こいつの狙いは彩弓じゃない。月、お前だったみたいだ。そうだろ?」
余りにも落ち着いた、成熟のとれた声に、今度は月の方が、懸念が込み上げるような顔になる。
「一真、抑えて」
「抑えられるか。こいつは、お前を妙な術で操ろうとした!!」
剣の柄をより強く握り、一真は叫んだ。自然、足が一歩前へと出る。常社は嗤った。骨と骨が震えているかのような、不気味な不協和音が部屋に響く。
「妙な技だと。無知めが。魂呼の術を使ったに過ぎぬ。引き寄せられたのは、そこの小娘の魂ぞ。現世に未練があるのならば、そんなことにはなるまい?」
魂呼の術。その単語を聞いて、一真は眉を潜めた。それは一体何なのか。どこかで聞いた覚えがある。そう、笹井が言っていた。ここ、常社神社の別名だ。
破敵之剣――天が答える。
「魂呼ばいの術はな、身体から出ていこうとする魂を呼び戻す為の術だったんだよ。病やお産、負傷、或いは物の怪に憑かれた時に、人の魂は身体を遊離しようとする。魂呼ばいそれを防ぐ。しかしな、この術を使ってやっちゃいけない事、禁忌が存在する。例えば」と、天は一拍置いた。
「既に死んでしまった人間の魂を呼ぶとか、な」
その答えに一真は息を呑んだ。「地獄から沙夜を引き戻す」と、常社は叫んでいた。つまりは、魂呼の術を使う事で、沙夜の魂を蘇らせるつもりだったのだ。術の発動に必要だったのが、贄として捧げる為の血縁者――月なのだろうか。
「常社、お前は沙夜の事を知っていた……いや、知っていたなんて安易な言葉で表現しちゃまずいな。お前にとって沙夜はかけがえのない人だったんだろ?」
天は、魂呼の術を死者の復活に使うのは、禁忌であると言った。常社は恐らく、沙夜を蘇らせようとして、ここに追放されたのだ。追放されて、なお常社は沙夜を蘇らせる事を諦めきれなかった……。
「無知にしては頭が回るな……一真とやら」
「なんで、俺の名前を知っている?」
一真が訊ねると、常社はちらっと、柱の方を見た。柱に縛られ未だ気を失っている童女へと。
「彼女を通じて、お前の事は、否、お前達の事は見ていた」
「そんなことも出来るなんてな……だけど、これで確信が持てたぜ。お前が彩弓と笹井さんを“わざと”逃がしたのは、この為だったんだろ? 大方、お前は橘花達から月の事を聞いていた。彩弓たちを栃煌神社に逃げるように仕向けて、後は月が怪異に乗り出すのを待つだけ」
常社は心底感心したように、唸った。
「驚異的だ」
「何故だか、こういう火事場の方が、頭が回るんでね」
一真は、素っ気なく答えたが、何故ここまで頭が回ったのかは、予想がついた。今もなお彼を蝕んで止まない「内の幽闇」のおかげだ。
こうしている間にも、一真であって一真でない何かが、一真の口を借りて喋る。
「お前にとって沙夜は、かけがえのない人だったのだとしても、同情の余地も無い。お前は月を殺そうとした。世界を救う為の犠牲として殺された女の復活の為に、別の女を殺そうとしたんだ。所詮、お前も沙夜を犠牲にした連中と変わらない!!」
叫ぶと同時に怒りのままに、剣を振り下ろそうとした時、月が一真の身体を抱え、床に向かって転がり込む。
崩れ落ちる一真の頭上を焔の光矢が飛翔した。真っ赤な残像を残しつつ、それは燭台の一つを貫いた。月と一真は床を転げる。奇襲から救ってくれた月を覆うように、一真は自分の身体で彼女を庇う。
二の矢が、掲げた破敵之剣に当たって砕ける。膝立の態勢で、一真は襲撃者の鮮やかな焔矢を破壊する。剣が焔を捉える。真っ赤な呪いは、刃を焦がす事無く、逆にその存在――源である霊気を破壊され赤い煙を残して、無残にも散る。
月が背後で立ち上がるなり、太刀を煌めかせ跳んだ。焔矢が飛ぶ。月の艶やかな頬を掠め、肌を火照らせる。
月の太刀は、次の矢が番えられるよりも先に、その弓を捉えていた。真っ二つに切り裂かれ、宙で火を発して消滅する緋色の弓。が、その巫女は更に後ろへと下がり、月の追撃を許さなかった。ゆがけを即座に捨て、彼女は嗤った。
一真は、ちっと舌打ちする。彼女の存在を、無意識の内に消し去っていた自分自身の愚かさを呪う。
「橘花、お前なんで、本当の事を常社に話さないんだ?」
一真は立ち上がりながら尋ねた。橘花は鼻で笑う。指と指の合間に矢を挟む。
矢はたちまち燃え上がり、焔矢と化す。同時に右手を翳した。燭台が宙に浮かび、一真目掛けて飛翔する。月が前に出、叩き斬る。焔が掻き消え、残滓が月影へと取り込まれた。
「残念だけど、何を言っても無意味よ。彼には聞こえない。自分で、沙夜を蘇らせる事しか頭にないの。誰の声も聞こえはしない」
橘花が間合いを測るように、ぐるっと弧を描いて歩く。一真はその先に未来達が縛られている柱を見てとる。一気に間合いを詰めようと足を踏み出した時、一真は見た。横合いから常社が手を伸ばすのを。
骨しか残っていないその掌には文字が刻まれていた。そこだけが不自然に不気味に生気が通ったかのように白く輝く。一真はそれが何だかわからなかったが、横跳びに躱した。
「赤の焔、焼かれて残るは白と灰。魂の色は夜の帳の色」
譫言のように呟くそれは霊術を発動する為の言霊の詠唱。霊力を術として発動させる最も初歩的な方法だ。常社は宙に九字を切る。そうして生まれたのは、焔を宿した剣だ。一見すると、骸骨が火柱を素手で掴んでいるかのようにも見える。土と腐敗した骨の匂いが焔に煽られてより強烈な異臭へと変貌する。
一人の少女への執着を力とし、墓場から這い上がってきた生きる屍――いや、何かが違う。
「去ね!! さもなくば、消えろ! お前達に邪魔立てはさせぬ。私はァア!!」
振り下ろされる焔の色に輝く刃を躱し、逆にその鳩尾目掛けて突きを返す。そうしている間にも、一真は考えた。この怪異についての不可解な事を。
常社は、この神社で復活を果たした。橘花を味方につけた。沙夜を地獄の底から蘇らせる為に。だが、何かがおかしい。そもそも、常社はどうして彩弓を攫った? 月を誘きだす為だと、一真は予測した。常社自身は自白はしなかったが、一真の言った事については、認めている。だが、そんな事をせずとも、橘花や他の巫女達を罠として使えば良かったのではないのか。
剣が弧を描き、常社の面上に叩き下ろされる。が、届かない。刃の側面に常社の拳が叩きつけられ、あらぬ方向に下された。逆に頭をその不気味な手で掴まれそうになり、一真は慌ててバックステップを踏んで躱す。指の先が服を引き裂いた。血が雪のようにパッと舞った。
「一真!」
月が叫ぶ。戦闘から目を背けたその瞬間を狙って、焔光陽炎が飛んだ。寸前で月は一真の方へ飛び、焔の矢は彼女がいた場所を焼いた。
「捉えた」
常社が呟く。その言葉の意味を推し量るよりも前に、それは起きる。
「あ……?」
あまりにも間の抜けた声と共に、力の抜けた指の合間から剣が落ちる。
破敵之剣は、地面に当たると同時に、懐剣へと戻る。
意識を強制的に奪われるような感覚に、一真は膝をついた。心臓を素手で、鷲掴みにされているかのような痛みに、一真は瞳と口を大きく開いて喘いだ。しかし、その苦痛の叫びすら声にはならない。
肺の中の空気がすっかり空っぽになったようだった。月が傍に駆け寄ろうとして、何かに阻まれる。視界の端で見ると、薄い灰色の雲のような結界が、月と一真、常社の間を隔てていた。
月が何事かを叫んでいる。頬が涙に濡れていた。その姿がかつて幼かった頃の月の姿に重なる。何度も何度も謝って、泣く彼女の姿に。
泣かないように、彼女が笑顔のままでいてくれるように。その為に一真は強さを求めるようになった――。
頭の中が割れるような痛み、床に刻まれた五芒星が回る、常社が回る、記憶が回る、柱に縛られた者達が回る、全てが回って混じり合い、その中でふと一真は何かが変わるのを感じた。この結界の中に? いや、一真の思考の中に? 違う、この痛みで繋がる一真と常社の“線”の中に何者かが割り込んでくる。
「あなた、あの人に似てる」
それは声という形で割りこんできた。苦悶はまだ続いている。自分が今どこに立っているのかも分からない。だが、その声だけは、やたらとはっきりと聞こえた。
「だから、嫌い」
その声は常社に向かって話しかけているようだった。常社の喉に異物を詰まらせたような声が静かな空間の中で孤独に響く。
「今のあなたは、誰かを助ける為にその力を使っているんじゃない」
皮膚も肉も腐り落ちた掌は、信念も感情も失くした彼自身の心のよう。
誰かの死を、理不尽な運命を覆そうとした意志をかつて携えていた掌は、今はただ貪欲な本能をのみ握りしめている。
「その人を蘇らせる? でも、その後はどうするの? その人は、魂を呼び出され、此の世にあるべきでない存在に作り替えられて。それが望み? 違う。それは――」
過ち(過去)を正す。それは掌に掬った僅かな水を、枯れ尾花に水をやるにも似た虚無感を生み出す。
既に失われた者を、守れず。
今や幻影となった者に手を伸ばし。
既に瞳を失った眼窩を満たすのは、貪欲な闇のみ。
「あなたの望み。だけど、それすらあなたの本意ではない」
一体、何の話だ。疑問を投げかけようとしたが、声が出ない。喉の奥を引っ掻いたような耳障りな音が続く。常社の体は震えていた。骨が軋み、哀愁を帯びた楽器のように鳴り響く。
「あなたという存在を此の世に魂を定着させる。そのための餌でしかない」
そして、全てが弾けた。高所から突き落とされたように、意識が回った後、一真は我に返った。体が重く、しかし心地の良い感覚。
頭が何か柔らかい物に触れている。枕とは違うしかし、滑らかな布生地そして弾力と飽和力を合わせたような温かみのある感触。ほんのりと甘美な香りが鼻をつき、さらりと清楚なくすぐったさが顔を撫でる。
ぽつりと、雫が頬を濡らし、一真は重い瞼を緩慢に開いた。そして、眼前いっぱいに広がる涙と恐怖でぐしゃぐしゃになった月の顔と鉢合わせた。
「おわ!?」
「痛っ!!」
飛び上がった瞬間、頭を思いっきりぶつけた。ふらっと後退りながら立ち上がる月。目尻に新たな涙が浮かんでいる。
「あ、ご、ごめん」間抜けにもそんな言葉を出した一真は、月の顔を見て息を呑む。
「死んじゃったかと……死んじゃったかって思った」
雫の粒を押し流すように涙が後から後から零れる。一真はようやく自分が置かれている状況を把握した。立ち上がり、天を拾い上げる。結界は既に消滅していた。月の後ろでは橘花が横たわっている。月が倒したのだろうか。
手足が変な方向を向き、起きる気配が無い。胸が浅く上下している為、生きている事は分かるが、それが安心していい基準なのかどうか、一真にはわからない。彼女の身に何が起きたのかは想像がついた。
一真が意識を結界の中で失った事で逆上し、怒りのままに橘花を壁に叩きつけてしまったのだろう。その手には護身之太刀が握られている。いや、その原身である懐剣を、だ。今の彼女は心をかき乱されている。
沙夜を蘇らせようとした男の事、一真が生死を彷徨ってしまった事によって。
泣き崩れる彼女の顔を一真は、唇を噛んで眺めるしかなかった。あの時と同じだ。十年前のあの夜、力を手に入れる為、身勝手に動いて、物の怪を呼び起こし、自分をそして月を危険な目に合わせた。沙夜の復活を許してしまった。
かつては無謀さから、今は無力さから、彼女を傷つけてしまった。
「私に近づいても、あなたが傷つくだけ」
かつて、彼女が告げた言葉を、身を以て証明してしまった。彼女が再び同じ事を心の中で叫んでいると思うと、心が痛い。常社が魂を掴んだ時の痛み等、比較にならない。一瞬しか感じないような痛みなど。だが、決して涙は流さない。未熟だったかつてと違い、叫びもしない。弱さを認めはしても、屈服はしない。
ただ、月の頭を撫でる。彼女の気持ちを少しでも和らげたくて。
その行為に何か意味があるのかと、一真の心に巣食う闇は尋ねる。答えは出ない。出すことすら罪であるように思えた。彼女を傷つけてしまった自分にその資格は無い。
彼が出来るのは現実を受け入れる事、そして、この先の事態に対応するだけ。
「俺は死なないさ」
一真は月の耳元にそっと囁いた。
月の表情が変わる。それから目を逸らすように、一真は振り返った。
常社が目の前に倒れている彩弓を見下ろしていた。
「私が、私自身が、操り人形であっただと……ククク、屍を捏ねて作った紛い物、あぁ、思い出したぞ、あの男」
頭は未だ割れるような痛みを発し、身体は重い。それでも、一真は剣を構える。
彩弓は柱から数歩歩いた所で倒れていた。柱の戒めは既に解かれていた。先程の夢に現れたのは、やはり彩弓だったのか。常社の悪意を見抜いて……だが、何かが違う。いつもの豹変したような、意識が隔離したような言葉とも違っていた。
限りなくいつもの彩弓に近かった。
「ようやく、理解したぞ……だが、甘んじて受け入れるつもりはない……私は許さん、貴様を……」
その掌からどす黒い液体が生まれる。怨嗟と狂気を掻き混ぜて塗り固めて抽出したかのような。
「貴様を地獄へ落とす。だが、そこで貴様は長い苦しみを味わうだろう。己の穢れを見せつけられ、己の罪は流血の惨としてお前ん自身に跳ね返るだろう。そして――その後、貴様は再び、地獄の底より引き摺り出される。私の僕として使われるために。魂を呼ばれるのだ」
「よせ!! 常社!!」
常社の言葉に混乱しつつも、一真は叫ぶ。常社の中で何かが、酷く狂い始めている。彩弓の言葉は彼の本来の姿を呼び起こしてしまっていた。
――あなたという存在を此の世に魂を定着させる。そのための餌でしかない。
今、この目の前にいる常社は既に一度、死んだ。そして、何者かの手によって、魂を此の世に呼び出された。魂を此の世に定着させる為の餌……沙夜への想いを利用したという事だろうか。
「どこまでも罪深い貴様は、私の魂だけではなく、沙夜への私の想いをも弄んだ。だが、私は思い通りにはならぬ。貴様への復讐の為であれば、私は何年でもこの地上に留まろう……何年でも、何十年でも、何百年でも!!」
怨嗟と狂気が零れ落ち、床へと滴り落ちる。零れたその場所から、部屋は新たな闇に浸食されていく。
「まずは地獄へと落ちるがいい」
常社の手が振り上げられる。叩き潰し、引き裂き、その厄水で染め上げる為に。だが、不意に、常社の身体が止まる。下を見ると肚から、月光の白銀色に包まれた刃が突き抜けていた。
「あなたは恨む人を、復讐する相手を間違えている」
振り向く事も出来ない常社の髑髏に、息を吹きかけるように月は呟く。その顔には汗が滲み、息は荒い。瞳にはいつもの温かみのある包容力が無かった。月影の光にすら乱れが見えた。
「この小娘は、小娘は“奴”と繋がっている。つまりは同罪ぃい!! 気奴と共に、私の――」
光に呑まれ、なおも腕を彩弓へと振り下ろす。垂れた厄水が、白衣の袖を焦がし、黒煙を上げる。
「日向!!」
月の呼びかけに、床に真っ赤な輪が広がり、膨れ上がる。半秒後、光の柱が厄水ごと常社の掌を呑み込み、吹き飛ばす。
浄化の焔に焼かれ指骨が捻じくれながら分解し、その灰すらも浄化される。
常社は残った腕の名残を振り回しながら、もはや言葉にすらならない喚き声を発する。
それは、現世を引き裂く程の咆哮。
彼を満たしていた沙夜への想いは、復讐心にとって代わり、そして支配されていた。
「貴様っ!!」
無事な左手に厄水を満たし、無造作に月の頭を掴み、握りつぶそうとする。
「もう……、止めてくれ」
いたたまれなくなり、一真は呼びかける。水平にした破敵之剣で常社の左手を貫く。
その手根骨を砕き、常社の右の眼窩を通り抜け、頭蓋の後頭部をも突き通す。
厄水の雫が数滴、一真の腕に掛かり焼けるような痛みに、一真の手元が撥ね上がった。壺を割るように、頭蓋が砕ける。
「ウゥゥ……アアアアアアア――!!」
先を失くした腕の名残で、砕けた頭の残りを抱えたまま、叫ぶ。月が太刀をその身体から引き抜くと常社の身体が支えを失って床へと倒れた。なおも立ち上がろうとして、常社は腕を床に立てる。自分の身体が、胸から下が消滅してしまっている事にも気づかず、ひたすら床に腕を押し付け、引っ掻く。しかし、それもやがて無意味であると知ると、常社は腕を掲げた。
「ハハハ……これで、私はようやく死ねる。二度と、呼び起こされる事も無いのだ、私は――」
全身に罅が入った身体、保ちきれずに砕け散る。言葉の続きを紡ごうと口を開いたまま、常社の全てが塵と化した。




