四
†††
この世の写し鏡。形無き物が存在する世界。邪気の溜り場。物の怪の生まれ出づる場所。言葉遊びは様々だが、陰陽師達はそこを「陰の界」と呼称している。
此の世の負の気、行き場を失った人間の感情が、ここには集められ鎮められる。が、鎮まる事なく、彷徨い続けた気は、邪気となり物の怪が生まれる。
一面、光一つない世界に来た所で、ようやく一真は解放された。踏鞴を踏んだのも、刹那。
一真は体勢を立て直しながら、さっと海馬から距離を取った。同時に竹刀袋から懐剣を一本引き抜く。金色の光に包まれ、長剣へと姿を変じたそれを、正眼に構える。海馬はにやっと笑って、籠手を嵌めた腕を構え応じた。
「一真、待って! 海馬も!」二人の間に入り、月は必死に叫んでいた。彼女にしてみれば、どちらにも争って欲しくないのだろう。
「どういう事なの? 私と一真の事で話をしに、来たって」
「言葉通りの意味さ」海馬の後ろに立った服部が口を開いた。加勢をする気はないらしく、両手は身体の前で組まれている。
その横にいる火龍に至っては、地面で胡坐をかいている。その瞳だけが、興味津々というように目の前で対峙する二人に、向けられている。
一真には大体、彼らが何をしようとしているのかが、分かった。一真自身が今まで悩んでいた事、その物を問おうとしているのだ。月と共にある資格が、彼にあるのか、どうか。
一真はこの事を正確に予測していたわけではないが、いずれ、問われる事になるだろうと思っていた。だが、こんなにも早く来るとは思ってもみなかった。
「月の傍にいる人間として、俺がふさわしいか、どうか。それを確かめに来たってわけですか」
一真は三人を順々に視線を向け、最後に海馬を見た。巨大な籠手の先端は獣の前脚を思わせる形をしている。
先端から伸びているのは、三つの刃だ。籠手の周囲には光が渦巻いていた。能力の程は分からないが、真っ向からの近接戦闘を仕掛けてくるつもりだろう。
「話が早くて助かるのぅ。そういう事だ。ひとつ手合せ願いたい」
「俺が負けたら、月と離れろとか言うつもりですか」
海馬は面白がっているように、口元を綻ばせた。
「離れる、か。そんな事、要求した所でおんしは、受け入れるかいな?」
「出来ません」はっきりと一真は答えた。
それは一真が、彼女を欲しているからではなく、彼女を本当の意味で助けたいと思っているから。
だからこその言葉だった。その気持ちの深い所が、海馬に伝わったのかどうかは分からない。そんな事は重要ではない。
返事は拳で返ってきた。内側から膨れ上がり巨大化した虎の籠手が、一真を叩き倒そうと迫る。破敵之剣から流れ込む気の力が、身体の中で脈打ち、一真は左へと跳んだ。
拳が、一真の頬を焦がす程近くを通り過ぎた。一真は剣を振りかぶり、海馬の体目掛けて振り下ろそうとして、思いがけもしない方向からきた攻撃に、身体をくの字に、曲げて吹っ飛んだ。腹に足がめり込んでいる。
いや、ただの脚ではない。それは、真っ白な装飾を施された脚具に包まれていた。猛獣の後ろ脚を思わせるような形状。
身体の芯にまで、痛みが広がるよりも先に、皮膚の表面を霊気の膜が覆う。即興で張った「身固め」はどうにか功を奏し、海馬の脚蹴りを弾いた。その隙に飛び退り、一真は腹に手を当て膝をつく。後一瞬遅ければ、あばら骨を折られていたかもしれない。
数合、ぶつかっただけで、一真は海馬の方が自分よりも強い事を認めなければならなかった。海馬の四肢はあの奇妙な防具で覆われており、それ自体が強力な武器だ。
対して一真は破敵之剣一本。霊力を使った術は、「身固め」しか覚えていなく、それすらも付け焼刃でしかない。
「成程のぅ。これは碧の仕込みがいいのか。素人にしては、強いの。お前」
「お褒めの言葉どうも」笑って答えたが、声はかすれている。
「だが、素人は所詮素人じゃ。対応が遅い。次の動きに繋がっていない。そんな動きでよく、霧乃を倒せたなというのが、率直な感想。手加減していたとはいえ、奴も現陰陽寮では、十指に入る強さじゃぞ」
心の底から驚いているようだった。或いは挑発だろうか。もっと、何かやってみせろという。すると天が呼びかけてきた。
「だったら、見せてやればいいさ」
敵を打ち破る事こそが本領である、天はそう提案してきた。そう、以前の物の怪との戦いでもそうだったが、斬るというよりも破るという方がしっくりと来る。破砕するのだ。物の怪の攻撃も、物の怪の邪気も、物の怪その物すらも。
海馬のあの防具とも武器ともつかない装備を、それだけを破砕する事は出来ないか?
「じゃあ、見せてあげますよ」
宣言した直後、一真と天は、一直線に跳んだ。霊気が身体の底から湧き上がり、天の霊気と混ざって一つの霊力と成る。金色の光が刃を覆った。海馬の表情から微笑が消えた。拳に向かって突き出された光刃は裏拳で払われた。続いて回し蹴りがとんでくる。
それを予測していた一真は身を屈めてその攻撃を避けた。続け様に今度は左の拳が迫り、構えなおした一真の剣を後ろへと弾き飛ばし、そのあまりの力に跳ね返った刃が一真の頭を打った。守っていては駄目だ。
だが、海馬の動きは一つ一つが洗練されたもので、とても隙を見出せない。相手は手足の全てを武器に戦う。対してこちらは腕一本だ。しかも、相手の攻撃はますます、精度を上げていく。
この男は自分の力量加減を誤りはしないだろうか。ふとした拍子にあの拳が、自分の頭を粉砕し、はしないか。そんな不安が頭を擡げた、その時だった。二つの真っ白な拳が頭上で一つに組み合わされる。
その影の下で、海馬は爽やかな笑みを浮かべた。さぁ、どうする。そう問いかけてきている。
頭上に感じたその凄まじい圧迫感に、一真は硬直した。両の拳が振り下ろされる。
永遠とも思える一瞬、静寂の中で、月が息を呑むその音を確かに聞いた気がした。その顔に浮かぶ表情を。
「こんのおおお!!」
一真は半ばやけくそになりながら、後ろへと転ぶように跳んだ。凄まじい轟音と衝撃波の嵐が、辺りを吹き飛ばす。膨れ上がるようにして迫るその衝撃に抗うのではなく、乗る事で、一真は大きく後ろへと下がった。海馬はしてやられたかという顔を浮かべている。
が、怒りは無い。ただただ、面白がっているような顔。距離を取ったのも、一時の凌ぎでしかなかった。
クレーターとなったその地に、海馬は獣を思わせる装飾の足を沈ませ、間髪入れずに伸ばし、突っ込んでくる。上半身を捻り海馬は巨大な猛獣の腕を振り上げた。一真にはそれと激突して、耐えられるだけの力が無かった。身固めで、強化した腕であっても。だから、一真はその身固めで強化した腕を、体の前で垂直に振り上げた。丁度、海馬の腕の真下で。拳の一撃は、一真を捉える一瞬前で少しだけ持ち上がり、宙を駆け抜けた。
必然として、海馬の右脇に隙が出来た。一真には今から起こる事が予測出来た。浅黒い肌を突き破り、その分厚い肉を斬り裂き、骨を断つその光景が。それが出来るという確信がある。自分がどんな気持ちで、月と共にいる事を知りもしないこの男に、見せつけるべきだ。
その間隙に向かって破敵之剣を、その切っ先を滑り込ませようとして、一真は硬直した。
――一体、俺は何を。
下から迫った右脚の蹴りが、一真の顎を強かに打ち上げた。続く左足が一真の胸を蹴り飛ばす。受け身も取れないまま、一真は地面を転がる。
集中が途切れたせいだろうか、破敵之剣の光は消え、長大な刃も無くし、懐剣へと姿を戻していた。その柄を最後まで手放さなかったのは、一真の意地だ。
「っつ」
「一真!」
顎に喰らった蹴りのせいで意識が混濁する一真の瞳の中で、月が三つに分裂しては一つに戻る。ふらつきながら、一真は手を横に振り、月を払いのけようとしたが、触れることすらできなかった。
「まだ、終わってない」
「そうじゃな」
海馬が目の前にまで、迫っていた。月は袖の中から懐剣を抜いた。護身之太刀だ。海馬は一真の力量を計っているのだ。月に介入させるわけにはいかない。
霊気に再び意識を集中させると、破敵之剣は再び光を取り戻し、一真の中にある霊力と同調した。まだ立ち上がれる。身体の節々に傷がある事がまるで、他人事のように認知できた。痛みはない。
突然、海馬は地面を見下し、舌打ちした。
「と、言いたいところじゃが――」
「海馬さん!」服部が叫び走ってくる。彼の周囲には火の玉が揺らめいていた。その後ろからは火龍もついてくる。ゆったりとどこからか伸びた真っ赤な煙が、蛇のようにその身体を渦巻いていた。
碧の特訓のおかげか、足元の地面が微かに動いたのを一真は見逃さなかった。
「下!?」
月が一真の襟首を掴み、跳躍した。アスファルトの地面を突き破り――というよりも、通り抜けて黒い影が飛び出してきた。腕を上に向かって突き上げ何かを求めるように。
人間だ。少なくともその形をしていた。身体全体が黒い炎に包まれているが為に、はっきりと見えるのは、突き出された腕と土気色の顔のみ。
その顔もぼやけてしまって、どんな表情を浮かべているのかまでは分からない。その口から苦痛の呻きが、黒い霧とともに吐き出される。
「物の怪!」
月が叫んでいた。その手から伸びる一本の太刀。
刀身黒く、刃の輪郭を金色に輝かせるは、物の怪の邪気を浄化し自身の霊力と為す護身之太刀、黒陰月影。
太刀を顕現させると同時に、月は上から下に向かって太刀を振り下ろした。飛びかかってきた物の怪が左右真っ二つに切り裂かれて、地面へと倒れる。どす黒い霧が、吸い寄せられるように護身之太刀へと取り込まれた。
横から、飛びかかってきた別の物の怪。その突き出された小手を一真は斬り落とした。切り離された掌が粉々に砕け、斬られた本体の腕には、割れかけた窓ガラスのように罅が走った。
怯えたように下がる物の怪の背を、真っ白な虎の牙が貫いた。
「やるやないか」
その牙は虎の頭から、その頭は海馬の腕の籠手から生えていた。まるで生きているかのようにその虎頭は、物の怪の背を食い破りどす黒い邪気を嚥下した。
「なんなんですか、こいつらは」
「見て分かるやろ。物の怪じゃ物の怪」
その投槍な返答に違和感を覚えつつ、一真は周囲を見渡して、思わず口をあんぐり開けた。辺り一面が真っ赤に染めあがっていた。霊力で造りだされた炎の色に。その中心にいるのは、二頭の蛇だ。いや、それを蛇と称していいのか一真には自信が無かった。一頭は、一週間前に戦った一軒家程の大きさの巨大な蛇だ。が、もう一頭は、一真が戦った蛇の数倍は長い。しかも外見が大きく違った。
蛇の尾に巨大な男の裸身、その背からは真っ黒な翼が生えていた。男の両腕には鎖が巻き付けられており、肌は焔と同じく真っ赤だった。地獄に住むという閻魔を思わせるような外見。だが、その閻魔の頭の上で仁王立ちしている男は、一体何に例えればいいのだろう。
「あれが、本物の方の騰蛇だな。火龍自慢の式神だ」
破敵之剣がそう教えてくれた。それが味方であるという事を認識するのに、一真は数秒掛かった。余りにも巨大でどこか邪悪なもの。周りに群がり、薙ぎ倒されいく物の怪に同情すら感じてしまう。
気が付くと月が一真の腕を取っていた。「怖がることない」彼女はそう言いながら、二頭の炎の蛇が辺りを蹂躙する様を見続ける。
「大きさも強さも関係ない。自分の強さを正確に受け取る事が出来れば、そうしたら、一真はどんな強敵にも立ち向かえる」
普段は何を言うのにも、説明下手なのに、人を慰める時、力を与える時の月の言葉はとても強くそして温かい。その様子の何がおかしかったのか、海馬は苦笑した。
「ハハハ、そりゃ俺がお前に言った言葉じゃないか」
「え?」一真が思わず聞き返すと、海馬は炎へと視線を戻した。
「こいつが京都にいた頃、俺は彼女の指南役、つまりは師匠役を引き受けていたんじゃ。その頃のこいつは、しょっちゅう泣いておったの。それでな――」
その先を続けようとする海馬に、月は顔を真っ赤にして抗議した。
「か、海馬!」
「――まぁ、つまりそんな時には俺や他の奴が、慰めてやるわけじゃよ。今の言葉は月が初めて火龍の騰蛇を見てしまった時に投げかけてやった言葉じゃな」
「そ、その時は泣いてないから!」
「泣きそうだったのを止めたんじゃろうが」
反論する月を軽く受け流しつつ、海馬はどこか懐かしむように、燃え盛りながら戦う蛇を見つめ続ける。一真は驚いて声も出なかった。戦いの中での月はいつも強く、臆する事などまるで無かったように思える。恐れる事はあった。自身の母を取り込んだ影女と対峙した時。
一真が共に戦おうとした時。彼女は失う事を恐れていた。失わない為に戦い続けようとした。
本当は。心の底では、物の怪と戦う事を怖いと思っているのではないか。少なくとも今の話を聞く限りでは、月自身も未熟な時期があった事が分かる。
「一真? い、今のは何と言うか……」
少女の今まさに泣き出しそうな顔が迫ってきた事によって、一真は思考を中断した。
「そんなに恥ずかしがる事じゃないだろ」
月はますます顔を赤らめた。急に一真は笑い出したい衝動に駆られた。だが、それはいくらなんでも酷いだろう。一真はホッと息をつくと、なるべく真実味があるように落ち着いた声で話す。
「ちょっと安心したんだよ。月も怖いって思う時期があったんだなってさ」
「一真……」
円らな瞳に涙を浮かべ、満面を朱に染め上げながら、月が言葉を返そうとしたその時、最後の物の怪が断末魔を上げて消滅した。
†††
塵も残らないとは正にこの事なのだろうか。浄化された物の怪は、少なくとも肉眼の上では跡形も残らず消え去っていた。
だが、霊気の流れを少しでも知る事が出来た者ならば、分かった事だろう。この場を流れていた霊気の正常な流れが、大きく乱れたことに。それを一真もなんとなしにではあるが、感じる事が出来ていた。空気の淀みとでも言うのだろうか、氾濫を起こした川を間近で見、乱れた調律の音楽を聞いているかのような感覚。
これが物の怪が怪異を起こす時、物の怪と陰陽師が戦う時に起きる乱れだと、一真は月や碧から聞いて分かっていた。この乱れを察知して、陰陽師は物の怪の居場所を探り当てる。
海馬もその乱れた流れを追うように、辺りに視線を巡らせていたが、やがて一真に視線を戻した。ふとその妙に落ち着いた態度に、一真は違和感を覚える。
「やれやれ、ちょいとした邪魔が入ったが、どうする沖一真? 俺はまだ続けてもいいんじゃけどな」
「さっきの襲撃は、完全な想定外の出来事だったんですか?」
ひゅうという口笛を上げたのは、火龍だった。「坊主、一体いつ気付いた?」
全く意外な人物からの称賛に一真は戸惑ったが、それでも自分の予想が間違っていなかった事に自信を得て、先程よりもしっかりとした声で続けた。
「一番初めに引っかかったのは、さっき俺と戦っていた時に、物の怪が乱入した時です。海馬さんの口ぶりは、予想外の出来事が起きたというよりも、いつか来るだろうと予想していた戦いが、都合の悪い時に起きてしまったという感じがありました。倒した後の反応も余りに素っ気なかった」
そう、戦って、敵を倒してお終いというのは、ゲームによくあるような事だが、相手は物の怪だ。
物の怪とは人の怨念、負の気が集まる事で生み出される物。弱小の物の怪が一体二体出現するのは珍しい事でもないし、大した脅威にはならないらしいが、――だが、これも捨て置けば、あっという間に強大な物の怪へと成長する――今しがた出て来たのは数も多く、どれも同じような、姿形をしていた。
「同じ姿形をした物の怪が、複数出た場合は、“怪異”が起きている可能性が高い……私が教えた事きちんと覚えていたんだ」
月のその意外そうな顔に一真は、苦笑した。どうやら記憶力は当てにされていないらしい。もう少し驚かせてやろうと一真は続ける。
「怪異は物の怪単独によって行われる事件の他に、ある一定の空間を歪めて、そこを特殊な場所にする超常現象もある。そして、その怪異はたいていの場合、複数の物の怪によって起こされると聞きました。倒したから終わりとするのは、余りにも楽観的です」
一真の指摘に、海馬達は頷いていた。もっと感心されるかと思ったが、三人の反応は妙だ。前もってその質問が示し合わせてあったかのように、服部が口を開いた。
「どうです? こいつ使えますかね? 俺の見立てでは使えないと思うんですけど。今のだって単に勘が良かったってだけで」
「お前、ちょっと黙っとれ」
短く海馬はその言葉を制した。彼の四肢を覆っていた白虎の防具が輝き、消えた。狩衣の袖口から、白玉の飾りのついた組み紐が覗いている。
「ま、お前さんが足手まといにはならない事は分かった。月にとっても、俺らにとってもな。だが、一つ勘違いしているな。あの物の怪はタイミングよく、正に俺が望んでいた時に、来てくれたんだ」
よく分からないというように眉を寄せる。すると、服部がたった今、海馬から聞いた命令を忘れたかのように、口を挟んだ。
「馬鹿め。海馬さんがお前の言ったようなヘマをする筈がないだろうが。物の怪は戦いに引かれ寄ってくる性質を持つ。海馬さんは、お前が物の怪とどれだけ戦えるかを量っていたんだ。どんな反応を示すのかを」
「全部言ってくれてありがとうよ、剣」
海馬はそう皮肉で返しながら一真をまじまじと見た。だが、意識は一真自身に向けられていない。
どこか遠くの過去の思い出と、今の一真自身に宿る何かを重ねあわせているようだった。それから彼は、溜息をついた。
「そう。俺達は量ったのさ。お前さんの力。そんで、その洞察力もな。今ので、それは大体量れた。中々のもんやったと思う。少なくとも陰陽寮が要求するだけの実力はありそうだ。しかし、それだけでは量れない事もあるんや。これはかなり個人的な事じゃがな」
「俺の覚悟がどれ程の物か、ですね」
一真は殆ど反射的に、その答えが予め与えられていたかのように、答えた。そう、一真が逆の立場だったら、恐らく同じことを考えただろう。月を誰か、自分の知らない他人に任せるとしたら。海馬にとって月は大事な教え子なのだ。
だが、月と彼自身の関係について知っているのであれば、当然沙夜との戦いの事だって知っている筈だ。あれだけの戦いをくぐり抜けたというだけでも、一真自身にどれ程の覚悟があったか、推し量れそうなものだ。ただ、一真はそれを口にはしなかった。極めて主観的な事だったからだ。
海馬は頷くだけで、この問題を留めた。
「で、お前さんの質問じゃがな。俺らは確かにあの物の怪共が暴れる事を、知っていた。何が原因で、現れたのかも、何を起こしているのかも」
「怪異ですか」そのものずばりを言うと、海馬は頷いた。
「そう。それも中々に厄介な類のやつの、な」
真っ先に思い出されるのは、“巫女殺し”の怪異。悍ましいその姿、引きずり込まれる感覚というような単純な恐怖だけではない。
その怪異を引き起こした物の怪達には、どこか人間らしさという物があった。いや、少なくとも、沙夜は元々人間だったのだ。月の先祖にもあたる彼女は、陰陽寮の命令に従って、強大な物の怪を地下の異世界へと導き、自分諸共封じ込めた。
しかし、そのような運命を辿ることを強要した者達を、彼女は許す事が出来ず、物の怪と化して現世へと這い出した。
沙夜が生きた時代の陰陽寮と今、月がいる陰陽寮は違うのだろう。それは分かるが、沙夜に起きた事が月に起きないとは限らない。
海馬が一真を完全に信用していないように、一真もまた、彼を完全には信用していなかった。
「京の封印が解かれて以来、怪異が急増していてね」
「“俺の叔父のせいで”ですね」一真は、あえて省かれた部分を補足した。海馬は特に驚きを示さなかった。
「そうじゃな。で、その怪異なんだが、場所は常杜神社。ここからだと、二つ街を超えた先の町の更に先にある山の上にある。中々遠い所じゃが、おんしはもう長期休暇に入ってんじゃろ?」
突然の問いかけに一真は困惑した。その問いかけの意味が分からなかったからではない。何故海馬が自分を巻き込もうとしているのか。まるで当然の事のように。
「休暇はありますけど、俺もその怪異を解決する戦いに加えて貰えるんですか?」
「勿論。俺とお前そして月の三人じゃ。火龍と剣は、別の仕事があるんで、参加できへんからなぁ」
どうやら、加わらないという選択肢は始めからないらしい。少し意外だったが、月が戦うのであれば、一真はたとえ許されなくとも、ついていくつもりだった。
「わかりました」一真がそう答えると、隣では月が何やら表情の込み入った顔をした。
「一真は、陰陽寮の人間じゃないのに」
「それでも、おんしが戦うと分かれば、ひょいひょい付いてくるじゃろう。なら、最初から一緒にいた方が幾分マシや。思いがけない時に、横やりを入れられるよりも、ずっとええ」
その物言いに、月は顔をしかめた。心の底から怒っているというよりも、単に理解して貰えない事に対しての不満なだけのようだった。
一真がどれ程の力と勇気を持っているか。彼女と共にあるというその言葉にどれだけの強さがあるか。だが、月の自分に対する評価は高すぎると、一真は思っていた。一真自身は、自分にさほどの力があるとは思っていない。あるのは彼女と共にあるという決意のみ。
それだけが自慢だ。だから、海馬に、いかに厳しく評せられても凹む事は無かった。それを月に伝えようとしたその時だった。
「一真!!」
聞き慣れた少女の、切羽詰まった声が、耳に届いた。ぽかんと呆けた顔で、一真はそちらに顔を向けた。何故、彼女が? 思わず浮かんだ疑問は、驀進の勢いのまま、抱き着かれた衝撃で吹き飛んだ。
「おわ!? み、未来ぅ!?」
吃驚して声も出せない陰陽師達の前で、一真は同級生である未来に押し倒された。
「な、何してんだよお前!? なんでこんなところに?」問いかけると、未来は今にも泣きそうな顔で、一真の胸を拳で叩いた。
「あんたが、また危険な目に遭っているせいよ!」
未来はさっと顔を上げて、海馬達を睨んだ。それから後ろを振り仰いだ。誰かいるらしいそこに向かって、叫ぶ。
「日向! 何してんの!?」
日向? 彼女は神社にいた筈。何故、ここにいるのだろう。いや、それ以前に何故、未来がここにいるのか。今のこの状況を何か勘違いしている事だけは確かだ。まずはその誤解を解かなければならない。
「あー……、いやね、未来ちゃん。その人達はワルい奴らじゃないよ」
一真からは、未来の身体が邪魔で見えない位置にいる日向が端的に、そう説明していた。未来は「へ?」と何とも間が抜けた顔で、三人の陰陽師達の顔を順に見て行く。陰陽師達は、順に顔を逸らした。
「助けようとしてくれたみたいだけど、こいつらは敵じゃないんだ。月と同じ陰陽師だし」
一真が補足すると、ますます未来は混乱した。そして一真は思い出した。あの喫茶店には未来もいた事に。
恐らく彼女は、自分達のやり取りの一部分だけを見てしまったのだろう。それは当然、誤解もして当然だ。それにしても、彼女が率先して助けに来てくれるとは思いもよらなかった。あの戦い以来、未来はいつもどこか上の空で、一真とも月とも、あまり話をしていなかったから……。
「ご、ごめん」一真の身体の上に覆いかぶさっていたことを、今更のように気が付いて、どいた。謝るような事じゃないと一真は思う。
むしろ、謝りたいのは此方の方だ。ふと横を見ると、月が瞳を細め口をへの字に結んでいた。目の前でじゃれついているように見えたのだろうかと、一真は思い、別にやましい事をしているわけじゃないと言おうとした。
「月、今のはだな……」
しかし、日向に邪魔された。
「月は焼きもちさんだねー。そんなに抱きつきたいなら、すればいいのにー。ほら、こんな風に……て、うわ!?」
「す・る・な」
後ろから伸びてくる手を一真は気配だけで、感じ取り避け、――おぶさるつもりだったのだろう――日向は前のめりに倒れた。
日向には、一日に十回も背後から忍び寄られていたのだ。いい加減に慣れる。
月の式神日向はどこか残念そうな顔をしながら、立ち上がった。だが。
「痛てて、ひどいなーって、うわ!」
自身を構成している符を、月に抜き取られ、一瞬にして消えてしまった。月の手は妙に震えていた。その符に向かって、まるで童のように舌を突き出しつつ、短く告げる。
「焼きもちなんかじゃない」
「落ち着け、落ち着け。日向はただ、からかっているだけや」海馬がその肩を優しく叩き、宥めると、月はますます落ち込み、肩を落とした。
「茶番ならそれくらいにしとくんだな」
後ろから火龍が短く、にべも無く切り捨て、未来の方へと歩み寄った。
「お前、あの喫茶店にいたやつか」
突然尋ねられて未来は縮縮となったが、火龍が指差した方向を見て、頷いた。陰の界には、陽の界にあった建物もそのままある。
だが、それは単にあるというだけで、中には客もいなければ、店の品も一切ない。火龍は、未来の顔を覗き込むように、わざとらしく腰を折り、下から見上げるように彼女を瞳に捉えた。
「俺達が危険な人間である事は分かっていた筈だ。何故、飛び込んできた。お前自身では何も出来ないのに」
低い声で火龍は尋ねる。穏やかな、とは到底言えない程の威圧感があった。しかし、未来は臆することなく答えた。
「でも、私が出来る事もあります。その……」彼女は言葉を切り、言うべきかどうか躊躇うように、口を震わせた。火龍は言いたいならさっさと言えというように、口の端を歪めると、未来はその先を一気に吐き出した。
「一真を戦いから引き離す事くらいは出来ます」
地面に押し倒された時以上の、衝撃が一真の身体の中で生まれた。全くの不意打ちに、一真は自分の耳を疑った。彼女が勢いのまま、出したその言葉は決意そのもの。
一真が月を想っているように、彼女は一真の事を心配していたのだ――というところまでは、頭が回ったものの、その想いの深さを、一真は未だ知らない。
火龍は、にやっと捕食動物のように、所々ぎざぎざした歯を見せ、凄みのある笑みを浮かべた。
「そいつが自分で決めた事か。成程成程。報告によれば、あんたは“あの戦い”で気を失った。つまり、それだけの恐怖を感じていた筈だが、その恐怖よりも優先するべき物を見つけたってわけだ。おっと、こいつは褒め言葉だぜ」
顔を俯かせる未来に向かって、火龍はついでのように付け加えた。彼女の何がそんなに、火龍を面白がらせるのか。一真には理解出来なかった。
今のいままで、一真が海馬との戦いを受け入れても、まるで関心らしい関心を示さなかったというのに。そして、火龍は明かした。今の未来には言って欲しくない事を。
「こいつと月はまた、新たな怪異に突き進もうとしている。お前はどうする? 奴は恐らく誰に何を言われようと、このチビにほいほい、ついていくつもりだぜ?」
「チビじゃない」
月が巫女服の袖を振り下ろし、物凄い剣幕で言ったが、“チビ”ではない海馬に宥められながら――具体的には、頭を撫でられながら――の文句である為にまるで、威厳がない。
「どういう――」一真が怒り、抗議しようとすると、未来はそれに被せるように言った。
「だったら、私も連れて行ってください! いや、ついていくからね。一真」
一真は言いかけた事を口の中に押し込み、嚥下した。こんなに強気な彼女を見るのは、剣道の仕合で、だけだ。しかも、仕合中は面越しなので、どんな表情をしているかなど、見える筈もない。
「火龍、またいつもの気まぐれか? それとも、何か“いつものように”奇策でも浮かんだのかいな?」
怒りに震える月を置いて、海馬が怪訝な顔で訊ねると、火龍は肩を竦めた。
「あぎひひひ! ご想像にお任せするよ。白虎殿」
喉の奥底から叫ぶような笑い声だ。背筋が凍りつくような思いがする。狂っているのではないかと、一真は一瞬考えたが、周りにいる陰陽師達は、普段から見慣れているのだろう、少し呆れただけで、何も言わなかった。
「で、だ。もう一つ質問なんだがな」と一頻り笑ってから、火龍は遠く、そこにいる者達を通り越して向こう側を指差した。
「あそこにいる餓鬼はなにモンだ?」
一真が振り向くと、そこには二人の巫女が立っていた。一人は今や毎日顔をあわせるようになった――碧。もう一人は知らない――十才位の少女だ。
「あ、あいつは……?」
「ほう」
服部が眉を寄せて、知っているのか知らないのか、曖昧な声を上げ、海馬は殆ど何かを確信したように呟く。
「ようやくか、――見つけた」




