一
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雨は降り頻る。絶え間なく窓を叩いては、零れ落ちていく。五月のゴールデンウィークの残り三日は、ずっとこの天気が続くと、つけっぱなしにしたテレビから流れる予報は語っている。永田未来はじっとそれを見つめ続けるが、その内容の細かい所は聞いていなかった。
雨は元々嫌いだったが、今は憎悪すら感じる。五月の休日の前半は、あんなに晴れていたのに。家族と旅行に行った。列車からの風景を楽しみ、春の風と日を楽しみ、美味しい物を食べた。満喫し、生きているという実感をこれでもかという程に味わった。
そう。そうする必要が未来にはあった。
この世界には物の怪――人の心の負なる部分が生み出した、邪気の権化が存在する。
そんな漫画か何かに出てくるような存在が、現実にいるのだということを、未来は一週間程、前に知った。いや知った等という生易しい物ではない。確かにいるのだという実感を、頭の中に捻じりこまれた。火に包まれた少女の姿、伸びてくる手、体の温度が指先から奪われていく感触。
夜、辺りが暗闇に包まれる度に、暗闇を通る度に。考えまいとしても、考えてしまう。心の中で、未来の恐れの部分が勝手に問いかけてくる。
――今、そこの影から物の怪が出てくるに違いない。
未来は必死に自答する。
――いるわけないじゃない。
――本当にそう?
声は木霊のように返り、別の言葉へと置き換えられる。あの時も、ちょうどこんな風に、家でぼーっとしていた時に、影から手が伸びてきたではないか。闇に引きずり込もうとしたではないか。そう、そして危うくそうなるところだった。でも、彼が助けに来てくれたおかげで……。
沖一真。クラスではいつもどこか皆と距離を置いていた、無気力な感じの少年。そんなイメージしか今まで抱いてこなかった。
剣道の部活では、いつも未来や先輩達よりも実力が下で、その事をいつも気にしていた。そんな一真を未来は、からかったり慰めたりした。そう、どこか心の中で、自分よりも一真のほうが下であるような感覚があった。
だけど、あの時に来た一真は。あんな一真はこれまで見た事が無かった。威風堂々と、あの怪物を相手に、一歩も引かずに戦った。全てはあの幼馴染の為だと、そう言っていたような気がする。未来は自分の手を見下ろした。何故、この手は震えるのか。恐怖か?
それとも、一真とあの幼馴染が一緒になるのが気に喰わないからか? 前者を認めるのは嫌だが、後者はもっと嫌だ。そもそも自分は、彼を好きなのか? 好きだとして、一体彼の何を知っているというのか?
――あいつ、今日も神社にいる、ね。
直感的に分かる。あの怪異の後、何度もメールや電話が来た。直接会いもした。だけど、それは友達として心配なだけ。彼は今も神社にいる。
それから、未来はしばらく拳を開閉させて、自分の気持ちを抑制させた。何故、こんなに高揚するのかも、わからない。が、気が付くと未来は立ち上がっていた。部屋を抜け出し、玄関へと向かう。
「出かけてくる」
返事を待たずに未来は出かけた。外は当然ながら雨。傘も差さずに雨を浴びれば、この鬱々とした気持ちも洗い流されるだろうか。
が、止めておいた。ビニール傘を差して神社への道を進む。途中にはあの公園もあった。
初めて物の怪に襲われたあの場所。思わず未来は立ち止まる。あの炎に包まれた少女の姿はない。それでも、未来はそこを迂回するようにして、避けた。
分かっている。
あの戦いの後、何度か一真から聞かされたから。物の怪と出くわしたのは、こことは違う世界に、未来と一真が迷い込んでしまったからだと。ここと似て異なる世界、形無き物が集まる世界に。
未来も自分がいたあの世界が自分の住む世界である事は、言われる前から分かっていた。一真があの幼馴染と共に戦いに行ってしまった後、日向と名乗る少女の力を借りて、自分もそこに向かった。一真を助ける為に。
一度は偶然、二度目は自らの意志で。
どちらも自分の無力さを知っただけで終わった。一真にはそうじゃないと否定されたが、それでもあの光景を前にして、自分がいかに小さな存在だったのか。
これまでの剣の鍛錬、どんな強敵にも立ち向かう胆力、積み上げて来た勝利の数々。それら全てが泡沫のように消えて無くなった。
神社の天辺の屋根がちらっと見えてきた。栃煌神社は石段を上った先にある高台の上にある。が、目の前まで来て未来は躊躇う。果たして、どんな顔をして行けばいいのか。
一真がいなかったらどうするのか。
他の者――あの一真の幼馴染の顔が真っ先に浮かぶ――と鉢合わせになったら、どうすればいいのかも分からない。
そうするうちに、後ろから足音が聞こえてきた。未来は驚いて振り向き、そこで奇妙な物を見た。
物の怪ではない。
もっと現実的だが、奇妙な光景。
一人の男と一人の少女。
男の方は、あちらこちら泥塗れの、ボロボロなレインコートを着込み、フードで頭を覆い隠しているが、その顔ははっきりと見えた。髭はもう何日も沿っていないかのように、奔放と伸びていて、額の上のニキビが目立つ。二十代後半から三十くらいの年齢だろうか。なんだか、何かに怯えているようだった。
少女はもっと奇妙だ。白衣に緋袴、長い髪と額に白い鉢巻が巻かれている。人形のように整った顔で円らな瞳が、印象的だった。
年は十に達しているか、どうかというところ。折畳用の傘の決して広いとは言えない空間の中に、二人は身体を寄せ合って入っていた。
さて、一体この状況から何が分かるだろう? 探偵ならぬ未来には、全く分からない。誘拐か? にしては奇妙。神社の関係者だろうか?
だが、それならば何故こんな所で立ち止まるのだろう。さっさと入ればいいのに、神社の方を見て男は躊躇うように見つめるばかり。未来と同じように。
「あ、あの」
未来が話しかけると、男の身体がびくっと震えた。まるで、未来の存在に今気が付いたかのようだ。別の事を考えていたのだ。未来には、それが分かった。そしてこれは、勘でしかないが、この人が何に悩んでいるのかも分かった。
その悩みに巻き込まれたら、確実に自分は物の怪か、もっと恐ろしい物と遭遇する事となる。分かっているのに、何故話しかけてしまった?
「どうしたんですか?」
「い、いや……なんでもない」
男が恐々と一歩引き下がったのを、未来は見逃さなかった。こんな時にばかり、剣道で身に付いた動体視力が役にたつ。未来はさりげなく一歩、足を上げずに、音も無く近づく。
「その子、震えてる。神社に行くなら早くした方がいいですよ」
「大丈夫なんだ」
「そんなわけないでしょ」
未来は詰め寄りながら、自分がこのやり取りを楽しんでいる事に、気が付いた。自分よりも下の者を追い詰めて楽しんでいる。
――何、しているんだろう。私は。
自分をどうにか落ち着かせ、それから、もう一度今の状況を見た。もしも、彼が誘拐犯なら神社に姿を現すだろうか。巫女服なんて目立つ衣装の子どもを攫うだろうか。
仮に誘拐したのだとしても、何か余程の事情がある筈だ。
「ともかく、神社が嫌なら、少なくとも暖まる場所に行くべきですよ。ほら」
そう言って、未来は少女の手を取った。少女は驚く程に従順だった。
「どこへ行くの? わたし、ココア飲みたいなぁ」
饅頭のように顔がふやけて、少女の顔に笑みが浮かぶ。未来は思わず頬を緩めた。男はぽかんと口を開けて、その様子を見ていたが、慌てて駆け寄ってくる。
「そ、そんな。こんな恰好でどこかに入ったら、怪しまれませんか?」
「怪しまれると何か悪い事があるんですか?」
渋柿を口に入れられたかのように、男は困惑した表情になった。正にそうだという顔ではない。
そう、例えば、やましい事をしていないのに、そう取られてしまうような状況
下に置かれた者の顔だ。未来の緊張は少し解れた。少なくともこの男は、悪い奴では無さそうだ。たぶん。
「ないんですよね。だったら、いい事を教えてあげますよ」
「な、なんだい?」
「堂々としてれば、小物は引き下がる」
うむ、と男は決まり悪そうに黙った。
「やましい事じゃないなら、教えてください。何か手助けくらいなら出来ると思います」
自分が口にしている事に自分で驚きつつも、未来はしっかりと男の顔を見た。男は考え込むように黙り、それから、ゆっくりと話し始めた。
「私は彼女をあそこから助けだしたんだ。この娘は……彩弓は狙われている」




