終 契は言霊と共に
頭に柔らかな枕、胸の上に厚い布団、背中に包みこまれるような温かみを意識的に感じて一真はゆっくりと瞼を開けた。なんで、自分はこんな所で寝ているのだろうと考えて、「あぁそうか」と間抜けな声を漏らした。物の怪との戦い。影女が最後に漏らした言葉。沙夜の語った真実。黒幕との戦い。そして、神卸……どれ一つとして現実にありうる事ではなくて、あれは全部夢だったのではとすら思えてくる。しかし、もしもあれが夢だとすると今の状況はどう説明すれば解明できるだろう。
一真が寝ているのは自分の部屋のベッドではなく、蒲団。少し手を伸ばして床をさわってみると畳のざらざらとした感覚が伝わってくる。それに目の前に見えるのは木造の天井だ。上半身を起こして見ると、自分がさっきまで着ていた私服ではなく、着物を着込んでいるのが分かった。元の服がどんな状態になっているか、改めて見たいとは思わなかった。制服でなくて本当にラッキーだ。
畳の上には湯呑と重箱が置かれていた。起きた時に何か食べたいものがあればどうぞということなのだろうか。一真が寝ている部屋に置かれていたのだから、食べてはいけないなどという事はないだろう。無意識のうちに蓋を開ける。
「一面黄色の大地……」思わず呟いてしまった。卵焼きが重箱のそこかしこに、以下略である。
部屋の隅で笑い声が上がった。びっくりして振り向くとそこにいたのは敵として立ちふさがった筈の少年だった。腹を抱えて「アハハハ」と呑気に笑っている。彼がなぜ、ここに?
「霧乃!? お、お前……」遅まきながら反応し立ち上がろうとしたが、足がまるで人形のようにふにゃっと曲がり、体勢が崩れて布団に背中を打ち付けた。
「あー、あー無理すんじゃねって。それと、心配しなくても襲ったりなんざしないからさ」
よく見るとその手には箸が握られていた。ぱしぱしと動かしながら狙うのは重箱の中身。
「ま、気が付いて、最初に目をするのが自分の彼女じゃなかったというのは謝るけどさ」
「おい待て、どういう認識してんだよ。後、それお前の卵焼きじゃないから」
注意したのは箸が重箱に伸びる前。しかし、勢い衰える事無く、箸は卵焼きをさらい、霧乃の口の中へと無残にも運ばれていく。
体は動かないが、頭だけはどうにか働く。そうだ、他の人は無事なのか? 一真が勢い口を開こうとすると、霧乃は片手でそれを制した。
「ストップ。皆無事だよ。未来も、蒼さんもね。後神社の連中も。碧は俺を殺そうとするくらい元気だったから」
冗談なのか、どうか。月の着替えに直行しかけた時のあの顔は未だ脳裏から離れそうにない。あの静かな顔の後ろには鬼神でもいるのではなかろうか。
「それはさておいて、一真。まずは謝らないとね。君を騙さなければならなかった事とか、大怪我を負わせていたかもしれなかった事とか」
卵焼きを含む霧乃の頬は腫れていた。よく見ると体のあちらこちらに傷を負っている。一真と戦っている時にできたものだろう。しかし、彼はそれを気にしている風ではない。
「あの時、俺は独自に沖博人を追っていたんだ。とある組織の命令でね」
「組織?」
そうだ、前に月とそれについて話した事があった。今回のこの事件は組織同士の抗争みたいなものなのかと。その時、月は何も言わなかった。彼女が話さなかったのは、一真を争いごとに巻き込みたくなかったからなのかもしれない。もしくは、一般人に話してはいけないことだったか。そういえば天は、自分たちは京都に呼び戻されたと言っていた。では、呼び戻したのはだれか。
「そう、現・陰陽寮。それが俺たちの所属する組織」
「あ、でも、陰陽寮って廃止されたんじゃなかったのか」
一真自身の知識としてもそうだが、何より日向からそう聞いていた。
「そ、明治時代に政府によってね。公式には、だ」
「公式には、ねぇ……」
『公式には』その言葉は、日向が夜に語ってくれた話の中にもあった。それをつけるだけで、真実味の湧く魔法の言葉。霧乃は複雑な顔をする一真を見て、笑う。
「ハハハ。で、だ。俺はいわゆる間者として、君のおじさんのところに送り込まれた。情報を引出、可能なら博人を抹殺――この事を知っているのは刀間さんだけだったな」
抹殺。その物騒すぎる言葉にではなく、さらっと出してきた霧乃に対して戦慄する。舞香や日向の時もそうだったが、どうも彼らの感覚には慣れそうもない。
「だけど、凄かったよ。君の叔父さんは。一体、どんな人生を歩んだらあんなに強くそして賢くなれるんだろうね。正直言って正体ばればれだったと思う。あえて泳がされていたような感じだよ」
「叔父……博人は陰陽師にとっては最重要ターゲットだったてわけか?」
「いーや、最近だね。目を付けられたのは。彼、色々な霊的な道具を所有してただろう? 最初はそれで目を付けられた。で、陰陽寮が調査をするうちに正体がわかっていったってところだね。詳しい事は俺は教えられていないけど」
その言葉を果たして信用していいものか悩む。なにしろ、今のいままで騙されていたのだから。一真だけでなく神社の殆どの人が。あの戦いで感じた葛藤はなんだったのか。……そう感じながらも心のどこかでは安心していた。霧乃が本気で殺しに掛かってきたのではないということ、自分達を裏切ったわけではないこと。もしもここで嘘をついていたとしても、それは多分一真達を傷つける為のものではない筈。
「わーったよ」
「あ、なんだ、その信じていない感じの声は!」
霧乃がおどけて言う。当たり前だ。信じていない風を装う位はいいだろう。
「破敵之剣は?」
傍にいれば勝手に話に入ってきそうなあの剣の声はどこにもない。一真の身を守り、共に戦ってくれたのだから、礼はきちんと言わないといけないと思う。
「あぁ、こいつ? ずっと黙ったままだよ。どうもしょぼくれてんな」
そう言って背後から取り出したのは古びた懐剣だ。
「天、どうしたんだ?」
「よぅ、少年」
天の声は暗い。その理由に至るのにそう考えることもなかった。沙夜のことだろう。彼女はあの戦いの場から逃げおおせたと刀真は言っていた。結局彼女の言った事は真実なのか、真実だとすれば天はどういうつもりであったのか。
二人の合間に誤解はなかったのか。等々、疑問が次々にわいてくる。それでも、一真は天が何を言おうとも彼を見損なったり、見捨てたりしないと決める。昔の天がどうであったのであれ、天の力によって一真が救われ、月を助け出す事とは関係ない。それに刀真と交わしたという契を信じるなら、天は人間想いの剣である筈だ。だからこそ、自分の発言で沙夜が物の怪諸共、千年以上もの間封印されてしまったことを悔やんでいる筈なのだから。
「戦いが終わった後からずっと相棒と共に考えていた。お前や月の嬢ちゃんに力を与え続けるべきか、と」
「どういうことだ?」
一瞬の沈黙、そして天は溜息をついた。
「沙夜には俺が力を与えていた。戦うのが運命だから、と。だが、あいつは戦い続けた結果、何を得た? 彼女の結末は幸せとは程遠かった。たとえ、最後にあいつを守れたとしても……」
あいつ? 一真は眉を潜めた。守る者などいなくなったと彼女は月に聞かれ答えていた筈だ。怪訝を読み取ってか天は付け加えた。
「あいつの弟だ。彼女の血縁の者だ。他の親戚は皆死んだから唯一の家族だな」
「だけど……」
「そう、沙夜のやつはな。自分の決断で弟と縁を切った。自身の運命、陰陽寮が弟を陰陽師として取り込もうとしたのも大きな原因ではある。弟は沙夜の知り合いの貴族の養子になった」
しかし、今も春日家は陰陽師の家系として残っている。ということは、彼女の願いは絶たれたのだろうか。
「弟はその後、貴族として成長した。が、彼の息子、娘は陰陽寮へ入れられ名前も春日に改められたんだ」
「つまり、一応沙夜の願ったことだけは叶ったんだな」
一真はぽつりとつぶやいた。が、それを天は否定した。
「いや、あいつは自分の後の者が二度と陰陽師にはならないようにと願ったんだ。弟だけの事を考えてではない」
部屋は再び沈黙に包まれた。こうして聞かされると沙夜がいかに大きな存在だったか、そして自分が小さな存在なのかを思い知らされる。一真は目に見える者を守ることしか考えられない。「今」という時間にしか頭がいかない。だが、沙夜は自分の子孫の事まで考えていた。自分が死んだ後の子供が、そしてその子供の子供の運命をも抱えていた。
「だけど、あいつは月を殺そうとした」
「絶ってしまおうと思ったのかもなぁ。そうすれば少なくとも子孫が苦しむということはなくなる。ま、何百年もの間物の怪と一緒の世界に押し込められていたんだ。歪まない方がおかしい……お前たちはどうだ? こんな悲劇を前にしてもまだ、物の怪と戦いたいとか、何かを守る為に立ち上がることが出来るか?」
その質問は覚悟を問う物でも、こちらを試すわけでもない。純粋な疑問だった。天それにもう一方の方、月影はこれまで何十、何百という使い手と共に戦ってきた筈だ。その中で一体どれほどの悲劇を、死を、傷ついた人間を見てきただろう。それらの事を、沙夜の復活によって思い出させられたがゆえの質問なのかもしれない。そして、一真はそれらを理解した上で少しずつしかし澱みない声で答える。
「俺は月を守る為に戦いたい。強くなりたいと。そう思っていた。だけど、それは傲慢だったんだ。俺には天の助けが無ければ戦えなかった。月の助けが無ければ影女と戦う事は出来なかったし、沙夜を止める事も出来なかった。それに未来の助けが無かったら……」
ちらっと横を見ると霧乃は笑っていた。
「俺を倒せなかった?」
「そう。皆、誰しもが助けを必要としているんだ。何かが何かを守るなんて単純な公式は多分、ないのだと思う。沙夜だってそうだ。あいつは守る為に戦ってきた。だけど、それだけだ。自分自身も誰かの助けを必要としていたのに、それを求めることすら許されなかった」
そう、今も助けを求めているに違いない。そして自分自身ですらそのことに気づいていない。それがわかっていたからこそ、月も彼女と向き合ったのだろう。そして今後も月は戦い続ける。物の怪とだけではなく、自身の運命とも沙夜とも。
「月が助けを必要としているその時、俺はあいつの傍にいてやりたい。その為にはお前の助けが必要なんだ」
「そう、か」
天の声は深みを増していた。一真自身が答えを導き出したその事に感謝または敬意を込めて、返す。
「ますますお前の事が気に入りそうだ。今後も俺を使い続けるがいいさ」
「あぁ、よろしくな」
一真が笑みを返したその時、ずぱーん! という音が鼓膜を引っ叩いた。両側に思いっきり開いた襖の合間には笑顔の日向が仁王立ちしていた。
「よ! 一真君、元気?」
「あ……あぁー、多分」
目を丸くしてどうにか答える。心臓が口から飛び出そうなくらいには元気だ。
「長ったらしい話はおしまいかな? いい加減飽きてきたよー」
「あのね……説明しておけって言ったのは日向じゃんか」
霧乃が呆れた顔で言った。一真が問いかけるように視線を向けると日向は肩を竦めた。彼女にこれを聞くのは酷だろうか。そんなことを思いつつも言葉がついて口を出る。
「なぁ、日向。俺は未だによくわからないんだ。俺とお前がその……霊気を取られた事について。なんで、俺とお前だったんだ?」
何をされたのかもいまいちわからなかった。博人は「儀式の為の生贄」と言っていた。そして、日向は自分の霊気を取った彼に対して「神を気取るつもりか」と叫んだ。
「春日家の巫には月の守り神の加護。そして、巫と契約した式神は日の守り神によって力を与えられる。物の怪を討つための、ね。神によって直接作られた私のような式の霊気は神を強く引き寄せる力があるの」
迦具土を見た時、日向に浮かんだあの顔が一真の頭に浮かぶ。
「あの沙夜が操っていた迦具土は」
「あれは神に成りそこなった者の末路といったところかな?」
神の成り損ない……その烙印を押したのは一体誰なのか。今まで一真は“神様”という存在を信じていたわけではないが、何となく煌びやかで人のようで人でないものをイメージしていた。だが、あれは……。
「それで、一真君。君が私と共に選ばれたのはね。君が私と真逆の存在だからだよ」
「真逆」
一真が問うと日向はうなづいた。
「うん、そう。あなたとわたしは陰と陽みたいな関係なの」
反対。その言葉は彼の心を深く抉る真実だった。一真は自分の手を見下ろした。一体自分は何者なのだろう。
「俺は……邪悪なのか?」
しかし、日向は優しく微笑んだ。
「あなたは自分が悪だと思っているの?」
一真は答えられなかった。ふと、何かが近づいてくる気配に振り向いた。
「ほらほら、それ以上話しこまない」
「待ちくだびれたぞー」
後ろから碧と舞香の声が聞こえ続いて姿が現れる。二人とも一真達が戦っている合間にも、物の怪と戦っていたというが、目立った怪我もしていないようだった。
そして日向はそれ以上何も語らなかった。一真がなぜ生贄として選ばれたのか。日向とは対の存在とはどういうことか。答えを問い詰めたとしても彼女は答えないだろう。なんだかそんな気がした。もしかしたら――そんなことはないだろうが――一真が悩んでいるその事は些細な問題でしかないのかもしれない。
日向に――天にも――誓った事。それを日向は信じているのかもしれない。彼の中に何が眠っていても、守ると誓ったその時の心さえあれば大丈夫だと。
一真はあきらめて舞香に首を向けた。
「で、何を待っていたんだ?」一真が聞くと何故か、皆驚いたように顔を固めた。その視線を順に見ていくうちに気が付いたこと。それは全員が自分を見ていることだ。
「一真君、それはちょっとばかし罪深い発言だねー」
「いや、今まで寝てたんだから、わからなくて当然だろ」と抗議するものの、誰一人として聞いてくれない。
「未来は? 後、蒼さんは――」
「だあああああ、なんでそこで彼女の名が出てこない! まさか意図的?」
日向の言っている意味がわからない。彼女らの心配が先に来て当然のように思えるが。
「未来さんは家に帰した。まだ動揺してる感じだったけど、君と月が無事だったのを知って安心してた。蒼も無事、以上! 後他には?」
「他には……て。月はどこだ?」
「やっとそこに行き着いたかぁ!」
なんなんだ、このテンションは、と一真は呆れる。しかも日向だけではなく、ここにいるほぼ全員が一真と月の関係に注目しているらしかった。
学校といい、家庭といい、ここといい、なんだってそんなに注目されるのか一真には理解できない。彼氏彼女の関係なんて他に幾らでもいるだろうに。いや、勿論月とは付き合っているわけではないのだが。まあ、今のところは。
――なんて、考えるのは狡いかな。
分かってはいる。月を助け守ろうと決めたのだから、それを半端な気持ちで投げだす事は出来ない。彼女は一生を自分自身の呪いと共に過ごすのだ。一真が諦めるのは簡単だ。やっぱり無理だったのだ、と投げ出すことは出来る。だが、月にはそれが出来ない。
「で、どこにいるんだ」
「外の庭だよ。思い出の地に、ね」
思い出の地。成程、言い得て妙というべきか。言った日向の表情はどこか温かい。指差した襖に淡く紅い燐光が走り、開く。冷えた風が部屋に入り込んだ。闇の向こうにぽつりと立っている少女の姿が見えた。
「さぁ」と日向に肩を叩かれた。途端、四肢に力が灯った。ふらりと立ち上がり、庭を見下ろす。そこには親切にも下駄が置かれていた。
日向達によるお膳立てか。まぁ、悪くはない。十年前と同じような情景だ。ただ違うのは、周りに祝福してくれる仲間がいることか。襖がゆっくりと閉まる。
「月」
夜光虫のように輝く星々、中天高く昇る下弦の月、冴えた夜空から漏れる光が狩衣姿の少女を照らしていた。
「一真、もう大丈夫なの?」
振り返った少女の澄んだ瞳、風に舞う黒髪が随分懐かしく映る。
「あぁ、まあな。皆のおかげだ。俺一人じゃどうにもならなかった」
「でも、一真がいなかったら、私はここにはいない」
一真はそれを指摘された事に驚いた。今のいままで求めていた言葉であった筈なのにひどく意外な気がする。
「私が今もここにいることに、じゃなくて私と一真が今も一緒にいられるその事が私は嬉しい」
月はただ、微笑み、一真も返した。だけど、まだ戸惑いがある。自分にそんな力があったなど。
「俺は未熟だ。力なんてない」
「知ってる? 言葉にも霊力があるの。一緒にいたいって一真は言ったよね。その言葉が一真に力を与えたんだよ」
「そっか」
言葉は力になる。ならば、これから掛ける言葉もきっとそうなってくれる筈だ。
「なら約束したい。俺はどんな時も月を助け支える。お前を一人にはしない」
一真が掲げた手に月の真っ白な手が合わさる。
「うん、私もずっと一真と一緒にいる」
契は言霊と共に結ばれる。陰陽少女月と一真の物語がここから始まる。
清風明月――終




