七十
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思い出した事を一通り話し終え、一真はふうっと息を吐いた。そうしないと怒りで視界が霞んでしまいそうだった。陰の界は月も太陽もにない暗い場所だが、目の前に誰かがいればその姿ははっきりと見える筈だ。だが、今目の前にいる「影」は気配と声だけで実体が無い。
「沖博人」
一真が呼びかけると、それに答えるようにして一人の男が姿を現した。上から下まで紫の狩衣と袴で統一され、顔には鬼の面。今、目の前にいるその人物と叔父が同一の人間であるとは、俄かに信じがたい。だが、同時にその姿に何の違和感も感じないのも事実だった。いつだか感じていた宗教者というイメージそのものだ。
むしろ、今までスーツを着、会社の社長をやっていた頃の沖博人が、偽りであったと言う方がしっくりくる。それ程までにぴったりとくる空気だった。
「その剣はよく手に馴染んだようだな」
博人は口だけで笑い、一真の手にある破敵之剣を見た。気のいい叔父が自分が買い与えた物を使ってくれる甥を見て喜ぶような、そんな笑みが浮かんでいる。その奥にどんな感情を抱いているのか。
「これもあなたの目論み通りてわけですか? 俺がこいつの使い手になると読んでの? あの会社の近くで襲ってきた術者もあなたの手下か何かですか?」
「いや、あの術者は私の部下ではない。ただ、利用してやっただけだ。君なら彼など問題ならないと思っていたのでね。結果として君は彼を打ち破った」
期待されていたわけだ。一真は唇を噛みながら皮肉にそう思った。月がゆっくりと立ち上がる。後ろでは日向と刀真の殺意めいた気配を放っており、背中が日に当てられたようにちりちりと熱い。対する博人は一人にも関わらず、舞台上の俳優のように手を広げ余裕綽々と語る。
「おめでとう。君はあの頃と比べ、強くなった。そして、更なる高みを目指せる。君の中の恐怖を完全に自分の力としてね」
「何が狙いなんです。あなたは」
一真は身を守るように破敵之剣を構えて問う。博人の言葉は決して単なる戯言ではない。一真自身の身体に憑いている何かに気が付いている。
「一真。君は自分の中に強力な力が眠っている事に気が付いているのかい? 怒りや憎しみに駆られた時に目覚める力に」
やはり、はったりの類ではないか。こちらを知っていることをもしくはそれ以上を知っている。この場にいる者の中の誰よりも。質問に答えるべきか、否か。しかし、博人は答えなど待たずに続ける。
「十年前のあの日。月の巫女と君は祭具殿から逃げ出した物の怪を追っていた。が、そこで物の怪に囲まれてしまい、月の巫女は君を守ろうとしたが数で圧倒された。一匹の物の怪に君は襲われた。だが、その後君の身に起きた事は陰陽師の諸君にもわからなかったようだね。私にしかわからない」
そうして、博人は笑みを浮かべた。その先を聞くまで誰も動けない。その状況を楽しんでいる。
「物の怪に取り憑かれたのではない――君が物の怪を取り込んだのだ」
その言葉は余りにもあっさりとしていた。故にその重みに、異常だという事に一真の思考は追いつかず至らなかった。それが相手に更につけいれられる隙となるとわかっていても、だ。
「物の怪は君の心に憑こうとして失敗したのだよ。いかに古代の物の怪といえども、君の特質に気が付けなかったのは仕方がない事と言えるがね」
物の怪を取り込んだ……その言葉に一真は今まで考えていた物の怪に憑かれたという恐ろしい可能性が消えたことを知った。更に恐ろしい可能性が、得体のしれない何かが背筋を凍りつかせる。紫電が茫然とする一真の目の前の空間を駆け抜けた。
「耳を貸すな、一真君」
刀真が雷を纏った太刀を構え、横にいる日向へと目配せした。月もどうにか立ち上がったが、まだ完全に体力が戻っているようではない。
「耳を貸さないとは、罪だぞ」
博人の袖が地面を向いた。左右のそこから飛び出したのは、短い杖だった。金と黒で装飾の施されたそれを、バトンのように手の中で回す。何かをさせる前にと、踏み込んだのは刀真。紫電に鍛えられた刃が博人の面上に襲い掛かる。まさしく稲妻が落ちた時と同じ衝撃と轟音が響き渡った。その稲妻と刃の両方を博人は杖で受け止めていた。いや、ただの杖ではない。杖の先端から血で濡れたように緋色の諸刃が出現していた。先端から杖に掛けてその色がまるで血管のように力強く脈打っては、流れる。
――この刃生きている……。
そう思わせる程に不気味だった。
「心地のいい剣戟。陰陽師よりも剣客の方が合っているのではないかね?」
紫電の太刀を二つの刃で受け止めた博人が腕に力を込める。緋色の剣が一層、力強く脈を打った。たったそれだけで、太刀が弾かれる。しかし、それも予想の範疇だったのだろう。一真の目には留まらなかったが、だらっと剣を持った腕を両脇に垂らした博人の横から、日向が襲い掛かった。その腕が明るい赤橙色の羽毛に覆われ、先端が鷹の爪へと変貌する。それを博人の喉元向けて電光石火の如し迅さで突き立てようと迫る。
「素早い身のこなし。圧倒的な力。相手にするものに卑怯と思われても仕方のない程の強さだな、式神よ」
一真が気が付いた時には博人は剣を縦に立ててその攻撃を受け止めていた。日向は諦めず右の腕で剣を掴んだまま、もう一方の腕も変化させて博人の顔面に叩き付けるように振るう。が、その顔を叩き潰すよりも前に、掴まれていない方の剣が振り子のように襲い掛かり、日向の腕を叩き落とした。刃が翼に覆われた腕に喰いこみ、日向は悲鳴を上げた。
「その猛き霊力、少し分けて貰おうか」
冷やかに博人が言ったその時、日向の体がびくっと震えた。刃が赤みを深く増し、激しく脈打つ。
「日向!!」
一真と月の二人は同時に叫んで駆けた。どうすればいいのか月のこれまでの戦いの記憶が破敵之剣を通して、頭へと流れ込み、四肢がそれに従って動く。
月が正面から、一真は左から同時に飛び込む。護身の太刀が白銀色の光を帯びたまま、振り下ろされる。先程の戦いで得た霊力がまだ残っている。光の衝撃波が放たれ、その先にある博人の左腕へと向かう。博人は緋色の剣を日向の腕から離し身を引いた。一瞬だけ見えたその剣の反りの部分に獣の口のような物が見えた。そこから日向の肌に向かって赤く細い糸が引いているのも。その光景が僅かにだが、一真の動きを鈍らせた。
「どうした、これがそんなに怖いかな?」
銅を狙ったその薙ぎ払いはあっさりと受け止められた。目の錯覚ではない。博人の持つ剣の刃が破敵之剣に喰いこんでいた。酷く濁った獣のうなり声が血を啜るような音と共にそこから聞こえてくる。
「ぐ!! こいつぁ……!!」
天が苦悶の声を上げた。同時に一真の体にも変化が出た。それを感じる。物の怪に取り憑かれる感覚は、頭の中に異物が入りこんでくるような物だが、これはその逆。頭の中にある物を吸い出されてしまうような感覚。頭蓋に穴を開けそこから脳髄を啜りだされるかのような激痛に一真は膝をついた。
「かっは……!?」
剣が音を立てて落ちるが、それに気を配る事も出来ない。頭を抱えたまま一真は地面に倒れた。月の悲鳴、刀真の怒号、日向の呻き声がどこか遠くでぐちゃぐちゃに混ざって聞こえてくる。その中で一つの声だけが鮮明に聞こえる。
――剣を手に取れ。この男を殺せ。お前の恐怖を断ち切れ。
その声は流れる血のように生温かい。悍ましくて吐き気がするのに、同時に惹かれる。暴力的なのに、包み込むように優しい。そう、物の怪の声みたいだ。心の中で物の怪が孵化し産声を上げる。しかし、これは紛れも無く自分の心だ。何か得体の知れない物が心に入り込んだのではなく、自分の心の中に最初からそれはあったのだ。
物の怪にとり憑かれていたという話を刀真から聞いた時、一真は恐ろしいと思ったが、同時に安心感も生まれていた。この黒い感情は物の怪のせいであって、自分とはまるで無関係の物なんだと。だが、その偽りの答えは脆くも崩れた。これが、これこそが真実。
――ようやく知ったか。俺はお前の欲望その物だよ。お前が望むものを俺は挙げているに過ぎない。
心の中の影が頭を割って脳に直接甘言を注ぐ。受け入れれば、この痛みは引くだろうか。何も考えずに済むだろうか。囁く声は実体を持たない。それを倒すには一真自身を殺さなければならない。
――死ねば楽になる、か。お前がそれを望むならば、俺は何も言わないがな。死にたいならその前に、お前が今まで積み上げて来た物の全てが無意味だったとここで認めろ。そして完全に私の下僕となれ。
迫る影から逃れるように一真は身を捩り、足を動かした。どこを走っているのか分からない。逃げるなど不可能だ。語りかけてくるのは一真自身の声なのだから。闇が徐々に、徐々に心を満たし、血管を流れて四肢に行き渡る……。
「一真」
名を呼ぶ声が聞こえた。触感が麻痺した肌を優しい温かさが包み、足音が鼓膜を叩く。瞼を開けるとそこに見えたのは月の顔だった。
「一真!!」
瞳から流れ落ちる涙が一真の頬を濡らす。両手で身体を包まれる。彼女の手に握られていた護身の太刀が地面に刺さっていた。
――戦いを投げ出したのか。ぼんやりと一真は思った。戦いは終わっていない。博人は二人の前、月の背後に立ったまま声を立てずに笑っている。
その姿が視界に入った途端、反射的に立ち上がろうとしたが力が入らない。しかし、博人はまるで攻撃するつもりがないようだった。杖の先端のあの恐ろしい刃も消失している。
「貴様、何をした」
刀真が聞いた。その肩口が雨を浴びたように血で濡れ狩衣に朱の色が滲んでいる。あの刃に斬られたのだろうか。だとすれば、どうして博人は一真や日向にしたように彼の霊気を吸おうと思わなかったのか。
「神卸の儀の為に必要なのだよ。心内に闇を飼う物、天に照りし陽の神の力を分け与えられた物、二つの血がな」
陽の神……ぼんやりと一真の頭の中でその言葉が空々しく反芻される。確か神話に出てくる神ではなかったか。それもかなり高位の。心内に闇を飼う物とは一真の事だろう。とすれば、もう片方は日向か。
「霊気を少し取った程度でいい気にならないでよね。神にでもなるつもりか!」
そう吼えたのは日向だった。轟っと彼女の周囲に赤橙色に輝く燐光が浮かび上がり、収束する。しかし、博人はそれを一瞥しただけだった。




