六十五
しかし、一真は速度を緩めない。身から湧く恐れに惑わされる事無く、そこへと向かう。
月の心の中での声が護身之太刀黒陰月影へと流れ、それが破敵之剣白陽天ノ光へと流れる。そして、一真の心に響いた。温かく、力強い。導かれるようにして手に持った剣が弧を描いた。
切っ先が金色の光の尾を引きながら閃き、漆黒の槍をその穂先が一真の頭を貫くよりも前に叩き折った。心の中で一真は歌った。
――ありがとう、月。
「でぃいいいえええああああ!!」
裂帛と共に更に前へと進む。影女は咄嗟に身体を庇うように両腕をクロスさせた。今までの戦いでは両腕など傷ついてもすぐに再生できた故に、自然と癖になってしまった行動だろう。
一真の剣が切り裂き、腕が両断されて宙を飛ぶ。鈴が弾けるような音色を立ててその腕は端から煙と化していく。消え入るそれには目もくれず、一真は剣を宙に一瞬飛ばした。そして再び握る。逆手に。
「や、やめろぉお!!」
影女はその意味に気が付き、叫んだが遅い。両手で握った破敵之剣を一真は振り下ろした。しかし、影女の身体にではない。身体の下。影女が浮かび上がってくる空間目がけて。黒い霧が全てを隠すその場所に。
「そこだ――!!」
刃を中ほどまで突き立てる。見た目からして手ごたえが無さそうだが、予想に反して固い。しかしそれだけではない。内側から押し返されるような抵抗を感じる。刃が、腕が意思と関係無く押し返され、踏ん張る足が摩擦を起こしながら下がる。
「触れさせやしないよ!!」
影女の腕は既に中程まで再生していた。伸ばした掌から指が植物の木の再生を早めたように真っ白な骨が伸び、赤い肉が絡みつき、その上を肌が覆っていく。それが今にも一真の咽喉を締め上げようと伸びてくる。
「ならば、吹き飛ばせよ!!」
破敵之剣が心を通して一真に呼びかける。その言葉に頭ではなく、感覚で持って考え、より一層強い力――物理的な意味ではなく――で剣の柄を握りなおす。
他の余計な音、視界が消え去り、今戦っている者との繋がりだけが鮮明となる。
血管を、体の中の路を駆け巡る霊気を剣に注ぎ込み、剣からも霊気が送り込まれてくる。その霊気と一緒に流れ込んでくるイメージ。
黒い霧の下の世界が見えた。辺り一面に立ち込めるのは。一寸先を隠し通す霧のようでもあり、むせ返る程に息苦しい芳香のようでもあった。
人の強い負の感情から生み出される邪気。それに満ち溢れている。それが影女という存在を生み出しているのだ。そこで一真は見つけた。ある物を。黒い靄の中で異色を放つ存在を。
それは禍々しい赤紫色の光を放っていた。まるで毒気を吸った炎。じっと見つめていると思わず引き込まれてしまう魅力すら持っている危険な色。
――あれだ。あれが、影女に力を送っている。
刃が剣の霊気と一真の霊気で光り輝いて刃に巻き付く。纏わりつく黒い靄が吹き飛び、胸を圧迫るような香りが消え、その先にある赤紫色の炎が今、はっきりと見えた。
「放てよ! 破壊の大渦ヲ!!」
光が生を帯びたかのように咆哮を発し刃から解き放たれる。未だしぶとく残り漂っていた黒い邪気を呑み込み、炎にぶつかった。人の叫びと鈴の音を混ぜ合わせたかのような甲高い音が生まれ、悲痛の叫びとなって広がる。
「う、うぅう」
広がって、広がって、頭に広がり、覆い尽くす――。
「うああああ――」
「一真!!」
誰かに肩を掴まれ後ろに引き倒された。世界が一転して突然元に戻る五感。
聞こえたのは自分の荒々しい息遣い。心臓が確かに胸の中で動いているという実感。背中が地面に接しているという触感。近くで激しい攻防を繰り広げている日向と沙夜達が視界の端に映る。しかし、何よりもまず――。
「あんたは、あんたって人はどうして、そこまで……」
荒々しい息遣いに混じって聞こえる少女の啜り泣き、心臓が確かに動いているという実感を与えてくれる胸の上に感じる肌の温もり、地面に接した背中は身体の上に少女一人分の重さが加わった事で少し重く、痛い。そして、視界の端ではなく、視界のほぼ全てを覆っている少女の姿。
「未来」
「どうしてそこまで出来るのよ? 私は、私は何かしたくても、怖くて何も出来ないのに、どうしてあんたは出来るの、私は……」
最後の言葉は恐怖の為なのか、安堵の為なのか、嗚咽にかき消された。何もできない? 剣道では負けを知らず、自分よりも強い相手に立ち向かっていく未来が? こうして二度も助けてくれたのに?
「ありがとう、未来」
「な、何もでないわよ。褒めたって!!」
泣き顔のまま、未来は叫び、一真はその頭をぎこちない手つきで撫でた。それを月が傍で見ていた。日向が敵に掛かりきり出なかったらからかっていただろう複雑な表情を浮かべて。
「一真、まだ終わってない」
月はばつの悪そうな顔で、すっと指差す。未来が息を呑んで、一真の身体からどいた。三人の視線の先には影女が倒れていた。いや、違う。そこにいるのは、一人の女性。黒い光沢を放つ長い髪、白く嫋やかな肌。青紫の狩衣に身を包んでいるのは、月の母だ。その周りをあの影女が出した霧が覆っている。
その身体の上に影女がいた。しかし、その存在は余りにも希薄で頼りなくはっきりと掴めない。まるで形のない陽炎のようにぼんやりとした姿を浮かばせている。
「お前、まだ……」一真が立ち上がるのを月が片手で制する。
「まだ、終わってないけど。もう終わる」
「そう、終わるさ。私は所詮影。誰でも無い。存在など最初から無かったのさ」
その声には自嘲の響きすら残されていない。こちらが意識を向けなければ、幻聴として過ぎ去ってしまいそうな程に力も弱い。
「だが、物の怪は皆そんなものだろう? 元が人間の邪気なんだ。それが寄り集まった物に、記憶などあるはずもないだろ? だが。だからこそ、それを求めた。人間を取り込むことで満たされようとした」
ゆらりと揺らめくその陽炎の中で、彼女が浮かべたのは、微笑みとも泣き顔とも取れた。
「私をその護身の太刀で浄化してくれな。そうすれば、蒼は解放される」
「言われなくても、そうする」
月はそう言って太刀をゆっくりと振りかぶった。言葉とは裏腹に、その表情は様々な感情が渦巻いていた。だが、最後には影女の言葉を受け入れた。
「ごめん」
「何を謝っているんだか? これで、あんたの母親は戻るんだよ」
護身の太刀が放つ銀白の光がその声を絶った。
「母様!」霧の呪縛が解けると同時に月は駆け寄り、母親の身体を抱き起した。こうして見ると、まるで鏡のようだ。一真は思った。
月の腕の中で、蒼は薄らと目を開いた。長い間、物の怪の身体に囚われていた筈なのに唇には血の色が戻り、青ざめていた肌がすぐさま熱を取り戻していく。
「月……それに、あなたは」
蒼の瞳を受けて、一真は返事に窮した。実を言うと思い出の中には月の姿はあるのだが、彼女の父や母の事は殆ど覚えていない。恥ずかしい。蒼はまるでその心内がわかっているかのように、ふっと笑んだ。
「一真君。月が小さい時に遊んでくれた子ね。闇の中であなたと月の声がした」
一真の代わりに月がしっかりと頷いた。
「一真が助けてくれた」
一真が何か言いかけたその時、爆音がアスファルトの地面を震わせた。その元は振り返るとすぐに見つかった。爆炎から日向が飛び出、月のすぐ目の前に着地した。
優雅さを保つだけの余裕もないようで、地につけた足が摩擦で煙を上げる。赤い衣と袴に黒い焦げの痕が生々しく残っていた。しかし、その声は相変わらず軽妙で不敵さを感じさせる。
「お話の最中、ごめんねー。ちょっと本気出さないとまずそうだよ、月」
爆炎の中からゆっくりと尊大さすら感じさせる動作で歩いてきたのは、闇の中に浮き出るかのような存在、真白き髪、夜を沙つ筈の者、闇を僕とし、武器とし、糧とし、復讐の為だけに存在し続けた少女。その後ろの宙を炎で身を固めた神――迦具土が浮いている。身体の底から響くような唸り声を上げながら。
「あら、影おんなの奴、あんだけ大口たたいてた割にはあっけなかったわね。あら? お母様とはちゃんと、再会できたのね。それはよかった」




