六十四
月が一歩前に踏み出した。構えを解いていた。
「影女、もう母様を返して?」
驚いた事に影女はその言葉にたじろいだ。強力なバックを持ち、好きなだけ力を振るう筈の彼女が、だ。恐れている。それを覆い隠すように笑む。
「嫌だね。こいつの身体からも霊力を貰っているんだ。私が存在を保つ為に必要な身体さ」
存在……その言葉が強調されている事に一真は気が付いた。どういう事だろう。まるでそのことに強力な執着を抱いているかのようだ。
「影女、か。この名前嫌いだが、確かにその通りさ。私は元は影。誰かの影であり、誰かを取り込まなければ実体すら得られない。私には他の者が持つ“自分”という存在がない。自分の記憶が無く、自分の意志と言えば誰かに取り憑いて身体を得なければという恐怖観念しかない」
すっと影女は指を上げた。黒い霧がその指を軸として渦を巻く。それは回転を増すごとに膨らみ、彼女を護る球と化す。
「私はあんた達が羨ましかったのさ」
――羨ましい?
一真は目の前の現象に警戒するように剣を構えつつも、そう思った。物の怪が人を羨む? そんな事があるのか?
元は人の負の感情だった異形の者達にそんな感情が芽生えるのか? だが、そこで一真は思い出す。先日、月と再会した日に襲ってきた物の怪の少女の事を。彼女が最後に見せたのは、悲しみの表情。
決して元には戻らない、戻すには遅すぎる過去。そこから引き上げてやりたくて一真は咄嗟に手を伸ばしたのではないのか。
「だから、母様を取り込んだと?」
「あんたの大事な母様だけではないよ。心に闇を抱いた者達を。闇しか見えない者達を取り込んでやった」
せせら笑う影女の声は冷たくどこか物悲しい。その声が嘲笑ったのは月なのか、それとも自分自身か。どちらにせよ。
「もう、止せよ。月が悲しむ」
嘲笑の声は怒号へと瞬く間に変わった。
「は! 何を言い出すかと思えば、またそこの小娘の事か!! そうだねぇ、あんたの頭にはその事しかないって事を忘れる所だったよ!!」
――だったら、なんだって言うんだ? 自分の事を少しは気にかけてくれってか?
その言葉に一真の心に棲みつく黒い部分が吼えた。しかし、これは彼の本当の気持ちではない。そう、影女の悲痛な叫びに応えてやりたいと思う自分も中にいる。
「お前がどんな気持ちだったのかは分かった。だけど、それでもお前をそのままにしておくわけにはいかないんだ。お前が自分の身体として借りているその顔は月にとってかけがえのない家族なんだ!」
影女はフッと笑んだ。何もかもを諦めるような。しかし、最後の最後にあがこうとする猛獣のように。
「だったら、力ずくで奪い返しに来な」
一真は溜息をつき、破敵之剣を持った手を広げ、足を踏みしめる。
「仕方ないな――月!」
「うん……!」
一真は確信を得た顔で月を見、月もまた信頼の目で返す。いや、僅かにだが不安の色が見えた。一体何をするつもりなのか。一真に危険は無いのか。そんな心配だった。成功するか失敗するか、ではなく。だから答える。
「大丈夫だ。あいつを倒す。ただ、それだけだ」
「あら? おはなしそれだけ? 私もいる事もお忘れなく」
沙夜が無邪気で破壊的な笑みを浮かべて大太刀を構えた。月はさっと日向の方を向いた。先程の表情は日向には無かった。呼びかける必要すら無かったかもしれない。だが、月は信頼する者の名を叫んだ。
「日向!」
「はいな!」
軽妙な掛け声と共に日向は前へと跳んだ。その赤い衣と緋色の袴が風を受けてはためく。
その両手にはいつの間に握ったのか、夕日の色に染まった扇が握られていた。ひらりひらりと揺れる度に、水晶の欠片のように光が振り撒かれる。それを炎の神目がけて振り下ろした。
一瞬遅れて、巨人の頭が爆炎に包まれて、後退る。入れ替わるようにして沙夜が大太刀を手に飛び出した。振りかぶりながら躊躇いも無く日向の頭を狙う。
その小さな顔に無粋な鉄の塊が薙ぎ払う直前、左の扇を横に広げながら振って攻撃を受け止める。続けて流れるような動作で、腰を捻りもう片方の扇を沙夜の首目掛けて放つ。それを沙夜は首を屈めてかわし、後ろへと下がってやり過ごした。
一つ一つの動きに無駄な迷いというものが日向には一切ない。自分の戦いをするだけだと、一真は言い聞かせるが、それでもやはり不安はある。出来るのか。こんな事が出来るのか、と。
しかし、それは月が掛けた言葉によって霧散した。
「大丈夫、私は信じてる」
「ありがとう」
一真は微笑み、そして跳躍した。影女目がけて。その前に壁のように立ちふさがる霧目がけて。突然、その壁が動いた。一点に集中し、槍の先のように鋭くなり向かってくる人間の心臓を突き刺すように伸びる。




