五十六
「へぇ」
地面が震えるような暴力的な音が、二人の注意を元に戻した。白髪の少女の周りをどす黒い煙が渦巻いていた。その中心にいる少女の瞳が赤い血のような色に染まっていた。
「そこの小娘の邪気が欲しくて、あんたを利用してやろうとおもったが、これはとんだけんとー違いね――これ、いちおうほめことばよ」
手を真上に掲げる少女に、一真は身構えた。が、何かに気が付いたのか今まで呆然と地面に座っていた未来がはっと息を呑み、それよりも先に月が一真の襟首を掴んだ。
「うげ」乱暴に後ろに下がらされて変な声が咽喉から出る。
アスファルトの地面に尻餅をついて転がる。
「だ、だいじょうぶ?」
未来が上擦った声で聞いたが、一真には答える余裕が無かった。視線がある一点に釘付けにされて動かない。
「あらぁ」地面から聞こえたのは女の声だった。アスファルトの地面がぐにゃりと歪み、泥水のように液状化する。
その中から病的なまでに白い手が伸びた。続いて現れたのは人間の頭。長く黒い髪が水死体のようにその顔に張り付いている。
「お前は!」
月が睨むその先で影女が不気味に口を左右に裂けさせる。その顔が月の母親、蒼へと変化していく。
「沙夜、さっさとそいつの霊気を吸い尽くしてしまいな。ととめは私が仕留める」
沙夜と言うのか。一真が向ける視線の先で沙夜は口の端を歪めた。
「わたしに流れてくるのは邪気のみ。今のかの女はこれまでにない程に満たされているからね、ムリ」
影女は軽く舌打ちし、細い蒼の指を宙に絵を描くように動かした。黒い霧が集まり、次の瞬間彼女の手には赤い錆の入った刀が握られていた。
「だったら、二人掛かりで押し切るんだね」
一真は再び立ち上がり、未来も半ば彼の腕に縋る形で腰を上げた。どうやら抜けてはいないようだ。その胆力には改めて驚かされる。
だが、顔がいまだ青ざめていた。彼女にとって、今までのやり取りは理解の出来ない物だったに違いない。今すぐにでも彼女をここから逃がしてやらないと。
「月! ここはまだ、陽の界なんだよな?」
「え? うん、そうだけど、なんでそんなこと。あ、そうか」
月の視線が未来に向けられ、理解が追いつく。一真の言いたい事がそれでわかったらしく、袖から一枚の符を抜き放ち地面に置いた。
「先ず、便門の玉女において者申す、続いて万物の霊気よ、我が命に従え! 我はこれ、世の理を乱す物の怪を討つ者なり、門を開けよ!」
符を中心にして銀色の円が広がっていく。物の怪達はそれを避けようとはせず、むしろ自分達から中へと飛び込んで行った。同時に辺りを覆っていた霧もその中に続き、辺りは再び明るい朝の平和な光を取り戻していた。
月がその後に続こうとして、身体を止め一真を振り返る。
その瞳にはいまだ迷いが浮かんでいた。一人で、行って扉を閉じてしまえば一真には陰の界に入り込む術はない。
だが、一真は月が一人で行ってしまうとは疑いもしなかった。気軽な調子で頼む。
「あ、ごめん。ちょっと待ってくれ」
未来の方を向き一真は月の答えを待たずに言う。そして、月も結局、一真の信頼を裏切ることは出来なかった。
「ごめん、俺行かないと。一人で大丈夫か?」
「え、あ、うん……私は大丈夫だけどさ。あんたは? あんたは大丈夫なの?」
少し意外な言葉に一真は面喰ったが、それでも笑顔を返す。
「大丈夫だ。ちゃんとまた、帰ってくるからさ」
「私、何が出来るか分からないけど、何か手伝えるなら――」
「いや、ごめん」
一真は言いながら苦笑した。全く、つい一昨日まで月に「何もしなくていい」と言われて怒っていたのに、自分がそれを言う事になるとは。それに自分と未来に何の違いがあるだろう。破敵之剣があるか、ないかの違いでしかない。
「後で、な」一真は言うと月に頷いた。二人は開いた扉へと飛び込んだ。未来が続こうとしたが、力を持たない彼女はそこを通る事は出来なかった。
一面が灰色、この世のもう一つの世界、形無き物が存在する世界――陰の界
その地に一真と月は足を下した。その目の前には二体の物の怪。だが、それだけでは無かった。
「やぁやぁ、これは画になる景色じゃんかぁ」
一真の背後から浴びせられるその声。しゅうしゅうという蛇の威嚇するような鳴き声と共に聞こえるそれは、一真のよく知る物だ。続いて聞こえたのは金属同士をぶつけ震わせたかのような音。何かの術を発動させたのだろう事が分かった。そのまま、こちらへ歩いてくる。
「ちっ、あいつ、あのオッサンの所に俺を届けた奴じゃねぇか。一体何がどうなってやがる」
天が一真の手元で混乱したように一人ごちる。一真の横で月が、目の前の二人からも気を抜かないようにしつつ、後ろの霧乃に視線をやった。
「あなた、私たちを裏切ったって本当?」
そうして、いきなり疑問をぶつける。霧乃の足音が途絶えた。
†††
永田未来は一人取り残され、アスファルトの地面に座ったまま呆然としていた。どうにか脳を回転させて理解しようとしたが、思考が空回りするばかりで無駄だった。どうにかわかったのは月が陰陽師であることと、一真が彼女と共にまた行ってしまったということ。そう、また、だ。恐らくはとんでもなく、おそろしい場所へと一真は行ってしまった。
なんでそうするのか。一真は言っていた。「一緒にいたい」あの少女と共にいたいから。本当にその気持ちだけで、勇気など出るのだろうか。一真と一緒にいたいという気持ちは未来にもある。だけど……。そして、未来はふとある事に気が付いた。
――一緒にいたいと思う。だからどんな危機にも飛び込んでくる? じゃあ、昨日の時も?
未来が物の怪に襲われた時――思い出すだけでも身震いする――その時、一真は助けに来てくれた。あの時だけじゃない。初めてあの怪物に襲われた時も未来を置いて行かずに一緒に逃げてくれた。
――私と一緒にいたいから? だから?
自分がもしも、あの時逆の立場だったら同じ事が出来ただろうか? 自信はない。だけど、何にせよ一真のおかげで何度も何度も助かっている事も事実だ。
――あの馬鹿はまた、誰かを助ける為に行ってしまった。その馬鹿を私は助けたい。
「助けられるよ」
不意に聞こえた声に未来はびくっと肩を震わせた。振り向いたその先にいたのはあの赤毛ボブショートの少女だった。赤単色の巫女装束が翼のように風ではためいている。
あの時、助けてくれた少女だ。助けてくれただけでなく、パニックになったままの未来を落ち着かせ、物の怪そして陰陽師の事についても説明してくれた式神の少女だ。もしも、あの時一人何の説明もなく取り残される事になったら、未来は自分の足で外を歩けるようになれたか、自信がない。
「助けられる? わたしが?」未来は驚きながら聞き返した。しかし、日向は昨日助けてくれた時と同じ。どれだけ近寄られても安心できる妙な抱擁感のある笑顔で言う。
「ま、それは一真君次第だけどねー。陽の界と陰の界の説明覚えてる?」
「え? あー、陰の界というのがもうひとつのせかいでめにはみえないかんじょうとかきりょくがぐげんかーするところだっけ?」
「……聞いたまんまを意味考えずにそのまんま言ってる感じがするけど、そう。でね、こっちの世界とあっちの世界は根本的には同じ物なの。だから、通信も出来るし、向こうにらぢおとか持っていってもちゃんと聞こえるの。だから」
未来は思い出した。初めて物の怪と遭遇し、逃げた時に警察に電話してきちんと通じた事があった。
「らぢおじゃなくて、ラジオね。つまり、携帯で私が電話したらあっちの馬鹿にも通じるって?」
「馬鹿って誰だかわかんないけど、うんそう!」
わかっているくせに。未来は思ったが言わないでおいた。
「だけど、こっちはあっちの事が分からないのよ? もし、電話してタイミングが悪かったら」
「それなら大丈夫。あっちの状態は私にはぜーんぶ分かるから」
「全部?」
「と言っても範囲は限られてるけどねー」
日向の笑顔に未来は眉を寄せて愚問かなと思いつつ聞く。
「どうしてそんな事が出来るの?」
「式神だから!」
日向は満面の笑みで「どうだ!」と言わんばかりの自信溢れるコメントをくれた。
†††
「気が付いたのは刀真さんだね。いやはや、流石は策士だ」
あっさりと茶化すように霧乃は答えた。まるで他人事のように。そのことに一真は頭がカッと熱くなる。私服姿の霧乃は上はカジュアルなシャツで下はジーパン。いつだか一緒に遊びに行った時と同じ姿だ。それが余計に一真の気持ちを逆撫でする。
その横にはあの金色の蛇勾陣がいた。ただし、最初に会った時よりも数十倍は大きい。人間など一撃で引き千切ってしまいそうな程に巨大な牙が口から覗いている。
「それじゃあ、やっぱりお前は裏切り者なのか」
「俺はね、こういう事があるからお前には無関係でいて貰いたかったんだよ。首を突っ込まなければまだ友人でいられたのに」
霧乃の飄々とした口調に憂いがちらっとよぎる。そんな事で怯むとでも思っているのか。
一真は口を噤んだまま、一歩前に出た。月を守るように。それを認めて軽く溜息をつき霧乃は、懐から一枚の符を繰り出した。
複雑に折り重なるそれは何かの服のようにも見えた。それを指に挟んだまま九字を切る。途端、霧乃の身体が眩い光に包まれた。
「俺を相手にしようって? 剣すらまともに使えないというのに」
「その剣を手配してくれたのはお前なんだよな。なんで、そんな事をした」
「あの剣を追う者は多い。奪われるという危険も多いが、彼にさえ渡せば少なくとも栃煌の陰陽師連中に渡る事だけは無い筈と思ったのさ。あの時はそれが一番だと思った。まさか、お前に渡るとは」
なぜ、そう思った? 一真は少し疑問に思った。確かに叔父が一真に破敵之剣を見せる事はあっても、渡す確率は極めて低い。
叔父自身がこの剣をかなり価値のある物と認めていたからだ。だが、何かの拍子で渡すかもしれない事をどうして霧乃は考慮しなかった?
一真に渡れば後々、この剣が陰陽師側に渡ってしまうかもしれないのに?
その思考を遮るように勾陣が動いた。月を守る一真のように、霧乃を守るように前へと動く。
「何にせよ、全て遅い。殺すなよ、勾陣。人質としてあいつの心を揺さぶるくらいの役には立つ」
「はいはい、御意御意と」
軽い口調で勾陣は答えつつ近づいてくる。同時に影女と沙夜の二人が動いていた。そちらに月が向き直る。
「一真!」
「大丈夫だ! おまえはやることがあるだろうが!」
叫び返す一真に月は躊躇うような視線を向ける。が、一真は知っている。彼女が助けを求めている事を。決して物の怪と同化しているわけではないことを。物の怪の体の中からこちらを見ていることを。
「蒼さんは、お前の母さんは、ずっとお前の事を見ている。お前の助けを求めている!! こっちは俺に任せろ!」
「……わかった!」
弾かれたようにうなづく月。とはいえ、決して容易ではない。
影女は月の母である蒼を取り込んでいる。どこからか、霊力を供給しているため、どれ程の攻撃を受けても回復してしまう。
そして、沙夜の方は――
「ねぇ、一体何の為にあなたはそんなに苦しい思いをするの? 成し遂げた所で虚しい思いしか残らないのに?」
沙夜の周りを渦巻いていた霧が空中で分岐し、地上に降り注ぐ。立ち上がったそれらは一本の角と二本の巨大な牙を持つ鬼だった。それらが月を威嚇するように口を開け吼える。口の中は細かく小さな歯がびっしりと生えていた。
それだけではない。沙夜の両腕に黒い霧が絡みつき、巨大な鉤爪を持つ巨大な腕へと変化する。粘液のまとわりつくそれは皮膚らしき物が見当たらず、間近でみると肉塊が脈打っているようにも見える。
黒い霧は更に沙夜の足にもまとわりつき、身体を上っていく。
「そこにいる男なんて殺そうと思えば百回だってころすことができる。そして、あなたは何度も何度も失う度にくるしむのよ。それから、陰陽寮の愚かどもに使い捨てにされてしぬの。物の怪を寄せる血と身体を贄と捧げて。あなたはそんな事の為に生まれてきたの?」
陰陽師の側にいる事を、人の身を捨てない事を嘲笑うように、沙夜の顔が歪んでいく。
「私といっしょにいこう? 同じ血を持つ女どうし。失うことはけっしてなくなるわ。物の怪を有無を言わせずに斬り倒すのではなく、彼らと同じ側へ」
闇の奥深くにまで誘う甘い声。
それを正面から受け止めた月の瞳には迷いは無かった。
「一真がいる」
「わからない娘ね、ころしてしまえば」
「一緒にいたいって言った」
――そう、そして一緒にいたいと月も返した。
「だから、私は絶対に一人にはならない。一真が傍にいてくれるから」
――だから、絶対に一人にはさせない。




