四
そこには何もいなかった。
いや、そこにいる物が「何」であるかと認識できなかった。
未来の指差した所では二メートルくらいある黒い炎が地面から数センチの所で浮かんでいた。一体何なのか見当もつかなかったが、それはとても不気味で人を酷く不安にさせた。
一真は瞬きした。これは幻覚なのか?
未来が掠れた声を喉から搾り出した。
「あ、あれ」
「見えてる。なんだろうな? 陽炎の一種?」
「あんたは一体どこをみてるの?」
え? と一真は黒い炎に目を戻した。その顔を未来はものすごい勢いで掴んで斜め下に向かせた。火の燃えている元の所というのか。そこに何かがいた。焦げて髪の無くなった頭と地面を這うように伸ばされた二本の手。
その顔にある二つの眼窩が一真を見た。そこにはある筈の瞳が無い。
その光景が、『本能的に刻まれていた恐怖』を呼び覚ます。
古いビデオテープの荒い動画のように、脳裏でカタカタと音を立てながら――だが、それが一体どんな記憶だったかを彼は思い出せない。
「一真!!」
「あ……」
人が燃えている。にも関わらず、一真の頭に浮かんだのは助けなくてはではなく、逃げなくてはという言葉だった。もう少しで口から出る所だったが、一真は呑み込み着ていたブレザーを脱いだ。
「未来、救急車を! 急げ!!」
呼んだ所で助からないという気はしたが、一真はそう叫ぶしかなかった。黒い炎はオイルか何かか。倒れている人間――恐らく子供だ――の意識はまだ微かにあるようだった。
「大丈夫か!?くそ! 今、消すから!!」
一真が呼びかけると、その人間がすっと立ち上がった。一真の手からブレザーが落ちた。
今度こそ間違いない。あれは人間じゃない。何も考えられず、一真は来た道を助けようと駆け寄った時よりも素早い動きで逃げた。呆然とする未来の腕を掴み、走る。ともかく人のいる場所に逃げて助けを求めよう。あれが何なのかは知りたくもない。
「あ、あれ、何なの?!」
「後ろのやつに聞いてやれよ!!」
恐怖を紛らわす為に叫んだつもりだが、声はかすれていて自分で何を言っているのかも理解がつかなかった。二人とも後ろなど振り向ける筈が無かった。しかし、道路の角のバックミラーにはちゃんと写っていた。
黒い炎に焼かれながら宙を這うように近づいてくる子供の姿が。一真の肩のすぐ上に焼け焦げて墨のように真っ黒となった手を伸ばす。
「ひっ」
一真は足をもつれさせて転んだ。道路が落ちてくる。が、実際には違う。ただ、一真が顔を道路に打ち付けただけだ。手を繋いでいた未来も連鎖的に転んだ。一真は頭を起こした。あの人間はすぐ横に立っていた。表情の無い上下の瞼が焼け爛れて張りついた目がはっきりと見えた。
「置いていったな」
潰れた喉から出たのは、酷くしゃがれた、異物が混じっているような声だった。
「一真!」
声のした方を見ると未来が道路とマンションを分断している塀に上がって手を伸ばしていた。一真は自分でも驚くほどの反射神経で立ち上がり、その手を掴んだ。足元に何か熱い物を感じた。次の瞬間、一真と未来の二人は宙に放り出されていた。
一瞬、塀が黒い炎に包まれているのが見えた。
地面に叩きつけられ、肺から一気に空気が吐き出される。だが、ゆっくりと呼吸を整える間はない。未来の腕を引っ張り、一真は再び走った。
そこは駐車場のようだった。階段を駆け上がり、廊下の真ん中まで行き、振り向くとそこには何もいなかった。
「もう、わけがわからない……」
未来は止めていた息を吐き出した。一真は誰も追ってこないのを確認し、ほっと落ち着いた。自分の心臓がたった今動き始めたかのような感覚に囚われる。
「こんだけ大騒ぎしているんだから誰か来るだろ。それとも電話するか?」
「そうする……消防の電話番号ってなんだっけ?」
「この場合、警察を呼んだ方がいいんじゃないか?」
未来は携帯を取り出して、おぼつかない手つきでボタンを押していく。果たして、警察が出たところでこの状況を説明できるのだろうか?
一真は状況を整理して、未来が動揺のあまり何も言えなかった場合に備えた。だが、なんと言えばいい? そもそも、あれが何なのか一真にはわからない。
化け物が現れたの一言で警察が動くのか? 電話は中々掛からない。もしかしたら、ここは電話が通じない場所なのではないか? 自分達はどこか恐ろしい世界に入り込んだのではないか?
マンションの怖気すら感じさせる静寂ぶりに一真はそう思った。その恐怖を未来が破った。
「掛かった!」




