三十八
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陰の界の帳を剣閃の光が駆け抜けた。
物の怪の身体が引き裂かれ、空に投げ出される。一真は舌打ちした。物の怪の引き裂かれた顔は笑っていた。あれで仕留められないとは。
月は地面の上で倒れ伏している。浅く上下する肩が彼女がまだ生きてはいても、決して楽観視できる状況ではない事を示す。
物の怪は再びあの薄く黒い霧に変化し、空中のある一点で収束した。その中心に現れたのは月の母とも違う女の顔だった。長く霧と同化するように流れる黒髪と病的なまでに白く濁ったような肌。目尻が高くその先が血のように真っ赤な化粧に彩られている。小さな瞳孔が一真を捉えて、口が左右に裂けるように嗤う。
「お前、月の母さん以外にも……?」
激昂する一真の前で女は甲高い氷のような奇声じみた笑い声を上げた。黒い霧を衣のように揺らしながら物の怪は霧のなかから腕を差し出し指を一真に向ける。
「この顔こそ、私の物だ。放すもなにもない。尤も」
と、物の怪は腕を自分の霧の中に突っ込んだ。ぞぶりと溝沼に手を突っ込んだかのような不気味な音を立て、手探りで何かを探し、物の怪は腕を引き抜いた。その手に握られているのは黒く長い人間の髪、続いて人間の顔が現れた。月の母親の顔だった。
腸が煮えくり返るどころか、灼熱が上がる程の怒りが一真の四肢に駆け巡った。それでいて、どこか頭の脳は冷たく冴えきっていた。
「おい、一真。やめろ!」
護身の太刀・月影が頭の中で警鐘を鳴らす。同時に胸が熱く疼いた。見ると金色の折鶴を入れてあるポケットが金色に輝いていた。月の存在を常に思い出させてくれたそれが。
「怒りのままに行動しようとするな! あいつが、そんな事を望むと思っているのか?!」
あいつ。月を。彼女を悲しませる事になる。踏み込もうとした一真の足が止まる。腕の中で護身の太刀がほっと安堵するような声を出した。
歯ぎしりしながら見上げる一真を満足げに見下ろし物の怪は壊れた人形を掲げるように、掴んだ顔を前に引っ張る。
「こいつは放さないよ。こいつには強力な霊力がある。枯れ果てるまで吸い尽くしてやるさ――
突然、物の怪は言葉を途切れさせた。その余裕綽綽とした顔が緊張に支配されていく。辺りに漂っていた霧が渦巻いて一本の腕へと変化した。白い肌の代わりにそれはどす黒い鱗に覆われていた。武将が付けるような無粋な籠手を思わせるそれが、爪を広げた。
刹那、闇を劈くような鋭く響く音と閃光が物の怪の腕と激突する。
それが自分達を助ける物なのかどうかもわからないまま、一真は呆然とそれを見つめていた。聴覚が麻痺しているのか、物の怪が上げているであろう声も聞こえない。
横手から放たれた攻撃と物の怪の腕は拮抗しているかのように見えた。が、物の怪の腕の半ばに罅が入り、その罅に激突した光が侵食して、広げていく。折れるのではなく、粉々に砕け散る。
「いぎぃいあああ!!」
身の毛もよだつような声が、聴力が次第に戻ってきた一真の耳にも届く。叫びながら物の怪は身体全体を呑まれる前に腕を切り離して逃げ出した。腕の残った破片が引く肉片が霧へと還る。
霧が晴れた先には折り重なるようにして倒れた人間の姿があった。全員女性だ。一瞬茫然となった一真だが、すぐに我に返る。
「くそっ!」
――逃がすか。
昂る気持ちのまま後を追おうとした一真の目の前に何かが降り立った。それは、狩衣を着込んだ長身の男だった。顎と口元に髭を蓄え、右手には諸刃の剣。刃には何か筆で描かれた文字が漆黒に輝いていた。
春日刀真。
その顔は無表情で何を考えているのか、怒っているのか、驚いているのか、それらのうちのどれかを心に抱いているのだとしても、一真にはわからなかった。
何か言いかけた一真の脳天を突然衝撃が襲った。身体が地面に倒れ、唇が切れて口の中に鉄の味が広がる。拳を振るった男は倒れる一真を見下ろしたまま、表情一つ変えずに言う。
「関わるな。近づくなとはっきり言った方が良かったかね?」
その声は一真に向けられた視線と同じく冷徹だった。
「くっ」そのあまりの恐ろしさと力の差。誰も見ていないここであれば、相手は自分にどんな事でも出来る。そんな恐怖にたじろぎ、反射的に出た言葉だった。
だが、続いて出た言葉は怒りに燻った激情に任せた叫びだった。理性の楔から解き放たれた獣のような。
「だったらなんだって言うんです!? 俺がいなかったら月はあいつに取り込まれていた! お前の妻と同じように!!」
言い過ぎた等と後悔するには遅かった。無表情を装う刀真に対し、一真は言葉の刃をぶつけ続ける。
「月を! あいつを一人で戦わせておいて!! あんたは一体どこにいたんだよ!?」
胸が灼熱で焼き付き、骨と肉と肌を通り越して燃え上がるような感覚がした。なぜ、自分がこれ程に怒っているのかもわからない。
だが、一真は対峙していた物の怪以上の憎しみをこの男にぶつけていた。
一真が熱ならば、刀真は冷気だった。どれほど熱しても消えない冷たさ。彫刻のように微動だにしないその表情で刀真は問うた。
「で、言いたい事はそれだけかね?」
歯と歯の間から出された唸り声と共に一真の拳が振るわれ、刀真の頬を叩いた。
その印象に反してその肌にあっさりと拳がめり込む。肌の温もりと切れた口から流れる血が拳を伝うその感覚が、この男が人間である事を一真に伝えてくる。
そっと刀真が一真の腕を掴んで放した。その表情にはやはり変化がない。
「護身の太刀・黒陰月影が君の身体に霊力を貸しただけに過ぎない。自惚れるなよ、少年」
無造作に、だが静かな所作で一真の腕から護身の太刀をもぎ取った。それは刀真の腕の中で小さな懐剣へと姿を変える。刀真はその事に驚き一つ示さずに、月が倒れている場所まで歩いて行く。膝をつき、娘を抱き起すと再び、一真に向き直った。
「それと、護身の太刀の力だけではないな? 君には――」
刀真は言いかけて口を閉じた。知らない者が見たら、二人が戦いあう為に対峙しているかのように――まるっきり間違いでもない――見えただろう。
二人の間に割って入るようにして赤髪、紅白の巫女装束に身を包んだ式神、日向が降り立った。白い肌のあちらこちらに黒い火傷の痕が目立った。
「それ以上は言わないでくれるかなぁ。月もそれを望んでない」日向が命令するかのように刀真に告げた。
流石の刀真も虚を突かれたように呆然と娘の式髪を見つめた。それを認めて日向は悪戯を成功させた童のように、にやっと笑った。ただその表情は童よりも悪鬼と呼んだ方がしっくりとくる。
「式神が私に意見するとはな」
「私は月の式神であって、あなたとは何の関係もありませんから」
そのやり取りを聞きながら、一真は掌を閉じては開いた。太刀を掴んでいた時の感覚がまだ残っている。
日向が割り込んでくれたおかげで今、一真は自分がどこに立ち、何をしたのかが実感出来た。酷く自分が愚かでいかに自制が出来ていないかを考えて一真は赤くなった。
「すみません、刀真さん」
自分の短気さを悔いて一真は謝った。刀真はちらっと彼を見た。何か言いたげそうな表情、先程言いかけた続きを伝えるべきか否か迷っているようにも見えた。
「刀真さんが言いたい事。俺、なんとなくわかります。俺、思い出しましたから。あの時の記憶」
日向が息を呑み、刀真は彫刻のような顔に皺を刻んだ。対照的に一真は無気力にも似た感覚を覚える。
月と初めて会ったときの記憶、神社に忍び込んだ時の記憶。そして――それをきっかけとして起きた――ある事件を思い起こして一真は、震えた。
胸を貫かれ、身体の中に何か得体の知れない毒が流れ込み駆け巡るあの感覚。その毒は今は胸の中で大人しく眠っている。一真が強い怒りに駆られた時にそれは動く。
月との剣道の仕合で。先程の物の怪との戦いで。今、刀真の目の前でその片鱗を見せつけた。
これまでの生活でも何度か怒りに駆られた事で、凄まじい力を発揮した事があった。
そう丁度、先日月と剣道の仕合をした時のように。その時の一真はまるで自分ではない何かに身体を乗っ取られたかのようで、怒りが収まった後に自分の力が引き起こした状況に戸惑い、時に怯えた事もあった。それが何なのか彼にはわからなかった。化け物か何かか?
そんなことを思った事もあったが、単に自制が出来ていないからだと思ってきた。とんでもない間違いだ。自制が出来ていないだけなら、どんなに良かったことか。彼は肚で怪物を飼っているも同然の存在だ。
「念の為に確認するけど、それはどんな記憶?」日向が訊ねた。
「月が俺を守りながら戦って、物の怪を真っ二つにした。だけど、それで仕留めきれなくて……俺は襲ってきた物の怪からあいつを庇おうとしたんだ。それで俺は物の怪の腕に貫かれて」
その時の記憶を思い出して一真は肩を震わせた。氷水に身体を突っ込んだかのような怖気だ。それを振り払うように首を振り、彼は日向に尋ねた。今の所、正直に話してくれるのは、彼女だけだ。
「身体を物の怪に侵される典型的な光景だね」
「俺は、俺はどうなってしまったんだ?」
日向は一瞬躊躇うようにちらっと後ろの刀真と目を向け、それから戸惑うような視線を返した。
「わからない」
「わからない?」
一真は唖然として思わず聞き返していた。
「物の怪に憑かれた人間、動物は普通、物の怪の意のままに動くの。物の怪によって力は違うけれどね。取り憑く事が出来ない程に力の弱い物の怪はそもそも、他の物の身体に長く留まることなど出来ない」
「だけど、俺は」一真は言いかけて言葉を続けられず空しく手元を見た。その先を察して日向は静かに頷く。
「そう、物の怪に憑かれたにも関わらず、一真君はもう十年以上も特に何事もなく生き続けている。こんなのは前例がないよ。物の怪と共存し続ける人間なんて、ね」
愕然として、一真はどんな言葉を返したらいいのかもわからなかった。日向はこれまでの言動から推測するに、千年以上生き続け、陰陽師と共にあった式神だ。
その彼女がわからないと言っている。お手上げだと。その後ろで無表情なまま立つ刀真は不治の病を前にして、治すのを諦めた医者のようだ。
「浄化するのが手っ取り早いのだろうけどね。とり憑いている物の怪は一真君の心と完全に一体化していてね、浄化の手段を使う事で一真君自身の命にも悪影響を与えかねない。だから、陰陽師達も手出しできずにいたの。それに、特に害も無さそうという事で最低限の監視を付けるのみで、極力接触を避けてきた。安易に接触する事で厄介な異変が起きても困るから。特に他の物の怪が怪異を起こしている……丁度今のような状況に君が巻き込まれたら、何が起きるか、わからないからね」
監視。霧乃がそれに当たるのだろうか。麻痺してまともに動かない頭でぼんやりと一真は考える。刀真が月に関わるなと言った意味がようやく理解出来た。いわば不発弾を体の中に抱えているようなものだ。それも一体どんな弾種、火薬を込めたのかも分からないようなイレギュラーだらけの爆弾。
刀真に対してある意味では共感も出来る。一真にだって妹がいる。危険が及ぶような物は何もかもその道筋から取り去ってやりたい。そう思う。
「あなたは、月に危機が及ばないように俺には関わるなと言ったんですか?」
「それだけでは無いが、それが一番の理由だとだけ言っておこうか」
「だったら!!」
一真は思わず叫んでから、はっと息を呑んだ。怒りを顕にすれば物の怪が口から飛び出しかねない。冗談ではなく、本気でそう思った。
すっと息を吸い込み怒りを鎮めるように一真は淡々と聞いた。
「だったら。なんで、彼女を一人で戦わせるような真似をしたんですか」




