三十六
「お……」
地面に倒れ伏せたまま一真は声を上げた。腕が震える。膝の筋力はここではないどこかに用事でもあるのか、まるで従おうとしない。上がる声は嗚咽にも似ている。
その視線を感じた物の怪がゆっくりと一真の方に振り向く。
「悪いけど、あんたに私は興味ないのよ。美味しいお菓子のオマケでしかないというか」
地を這う虫を叩き潰すかのような感覚で、物の怪は再生し終わった右腕を振り挙げた。その身体が不意にがくっと揺れる。物の怪は冷ややかな視線を下に向けた。倒れ伏せた月が腕だけを伸ばし、物の怪の足を掴んでいた。
「させない」
身を傷つけられ、心を蝕まれてなお、月は戦おうとしていた。自分を大切に思う存在の為に。そして自分にとって大切だと思っている存在に。物の怪は月の腕を振り払おうと蹴りを入れた。月の掌目がけて。何度も何度も。その手が放れるまで。
何かが砕けるような嫌な音と少女の叫びが木霊する。
「ぉぉおおおおおおおっ!!」
肚の底から絞り出すような叫びが咽喉から獣の咆哮のように放たれる。熾烈な感情に手足が動いた。心の闇と熱が血管を駆け抜け、それに身体を乗っ取られたかのように、一真は走っていた。
物の怪はそれを嘲るように黒い霧を数本の剣に変じた。先程、月を攻撃した時と同じ鋸のような突起が刃に並ぶ剣だ。
それが上下左右からバラバラの感覚で打たれる。高速で放たれるそれらをかわせたのは、あまりにも動きが単調だったからだ。
振りかぶる、振り下ろすあるいは払う。予備動作が必ずあり、それから実際に攻撃が飛んでくる。だが、それがこの物の怪の欠点というわけではなさそうだった。
――遊んでやがる
一真は思わず舌打ちした。そう、この物の怪は一真が必死に攻撃を避けるその様を愉しんでいる。
猫が鼠を仕留める前に甚振って楽しむように。
避け損ねた刃が制服を引き裂き、肌を鮮血の線が引き、一拍遅れて噴き出す。それを見ていた月の双眸が恐怖に見開かれる。
間近に振り下ろされた刃の衝撃で身体が宙に浮く。続いて落ちる。受け身を取って一真は地面を転がった。
体操選手か軽業師のような動きで手をついて立ち上がり、更に走る。自分でも驚くような動きは、必死さが生んだ物で、殆ど奇跡に近い。
そして、このこと。物の怪が遊んでくれていることも幸いだった。この気まぐれが彼の命を数十秒間、ひょっとしたらもっと長い間の時間を延ばしてくれた。一真としては、腹正しい事この上ないが。そこに付け入らせてもらおう。
「おやおや? 逃げてばかり。気の利いた気障な台詞もなし? あらまぁ」
物の怪の言葉に返す余裕もない。気障な台詞など及びではない。地を這いまわるように動くような奴にヒーロー等似合うわけがないじゃないか。一真は心内で反論しつつ、腕を伸ばした。
先の地面に。そこに突き刺さっている太刀に向かって。
「な!? 貴様っ!!」
ようやく一真の意図に気が付いて物の怪が全ての腕を一真に集中させる。
「させないと言った!」月が叫び符を放った。
「数多の怪を討ち祓う!」
符が空中で爆散し、その破片が散弾のように物の怪の腕をまとめて粉々に砕いた。その破片が舞う中で一真は護身の太刀・黒陰月影を握っていた。
古きより陰陽師と共にあり、物の怪の怪異から人々を護って来た太刀が。
それを握った途端、何か体の中を電流のように走り抜けるような感覚がした。続いて頭に直接響くような声。
「おいおい、なーんか、また未熟で半端な使い手に掴まれたもんだ」
「うわ!?」
その飄々とした口調の言葉に一真は思わず驚き、叫んだ。同時にその声がどこから聞こえるのかがはっきりと分かる。熱いやかんにそうとは知らずに触ったみたいな感覚だ。しかし奇妙な事にこの声に何故かなつかしすさすら一真は感じられていた。
「いちいち驚くな。半端もん。全く、月の奴が万全じゃないとはいえ、こんな仕打ち……」
「どういうことだ? それは」
護身の太刀の含むような言いように一真は思わず問い返した。他人が傍から見ていたらとても奇妙だと思ったことだろう。そんな常識人がこの陰の界にいるのならばだが。
月が物の怪の存在を感知した時に話していた相手はこいつだったのかと、一真はどこか呑気に思った。
「うっさい。全く少しは成長したかと思えば」
「やっぱ、俺達ってどこかで」
出会っていたのかと問いかけるよりも前に、物の怪の剣が襲ってきていた。殆ど反射的に一真は太刀を振っていた。
物の怪の剣が刃に弾かれて明後日の方向に飛んでいく。その結果に呆然とする一真に護身の太刀が叫んだ。
「おい、何の為に俺を握ったんだ!?」
ハッと一真は物の怪に意識を戻した。物の怪の右手が月の長く麗しい髪を引っ張り上げていた。
「大切に思い、思ってくれる存在を護る為」
一真は呟き、構えも何もなく物の怪目がけて突っ込んで行った。雄叫びを上げ、地を蹴る。先程とは動きが全然違う。
目に捉える事すら出来なかった物の怪の動きが読める。
無造作に横なぎに振るわれた物の怪の攻撃を跳躍でかわし、そのままの勢いで剣を振り下ろす。
月の母親の顔をしたそれが真っ二つに砕けた。




