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陰陽少女  作者: 瞬々
清風明月
36/234

三十五

 物の怪から一真を守り、手負いとなった月の姿が。


 自分が傷つく事も厭わず、正面の敵を見据える。


 影の中から再び現れたのはまた別の女の顔だった。どこか月に似た面影を持つ黒髪の女性。


 月の肩が振るえ、カッと怒りに瞳を見開き、眉間には深い皺が刻まれる。髪が風もなくゾン!! っと浮かび、白い燐光が彼女の体を包む。


――霊力だ。


 一真は息を呑んでそう思った。だが日向が、今朝に、そして先ほど見せた力とは雰囲気が違う。力の差ではない。一言で表現するならば雰囲気の違い。


月の霊力は凶暴で魂魄の底から湧き上がる焔のようだ。


 それを見据えて物の怪女はにやりと嗤った。


 物の怪が月の怒りを笑うのを一真は見た。


――怪物め


 しかし、その怪物は人間の感情によって出来ている。つまり、人の心、人は怪物なのか? こうして、怒る事それ自体が、月が目の前の物の怪を滅しようとしているその行為が邪悪な事なのだろうか? 

「その顔で」


 震える月の声が、押し込められた感情が漏れ出す。




「母さまの顔で笑うな――!!」




 爆発する感情に押されるように月は跳躍し、電光石火の速さで太刀を振り下ろす。女の顔が霧状に溶けて消え、月が踏み込んだ地面が大きく皿状に凹んで砂塵が空しく舞う。


「月の母さん……?」


 一真は混乱したまま呟いた。月の母親の顔を一真は殆ど見たことがない。しかし、もしもあの顔が月の母なのだとしたら。


 月があれ程に取り乱す理由は。


 再び集まって一つとなった霧が月の母親の顔と体となる。静かな声に嗜虐的な調子を含ませて彼女は月を誘う。


「母親の所に来たいだろう? ならば此方へこい」


「黙れ! 母様を返せっ!!」


 護身の太刀月影が煌めいて、銀の光矢が物の怪目がけて穿たれる。


 弾けるような音と共に、影の物の怪が光に呑まれた。斬り飛ばしてバラバラにするわけでも爆散させるでもない。


 そんな事をしてもすぐに再生してしまう。だから、破片も残さずに消滅させる。


 物の怪について知識がない一真にもそれは有効な手段なように思えた。


 光が晴れたそこには何人もの女性が倒れていた。


 女子高生、主婦、教師、巫女。年齢も職業もバラバラだ。これが物の怪に囚われていた人達か?


「母様!」


 月が倒れている巫女の傍で膝をついた。抱き起され月の腕の中で呻くその顔の肌は白く、黒く長い髪が一層それを引き立てていた。端整な顔立ちで、幼さが残る月とはその一点だけが対照的と言えた。


「月?」目をゆっくりと開いた月の母が娘の名を呼ぶ。


 その時、一真は見た。


「やっと会えた」


 月には見えない。涙を抑える為に目を閉じた彼女は見ていなかった。


「月、何故あなたは泣いているの?」


 月の母は、不思議そうな顔で娘の顔を覗き込んだ。ふっと笑って抱き寄せる。


「月!!」一真は叫んだが月が目を覚ます事はない。


「怖がりね。あなたは昔からそう。でも、もう、大丈夫だから」


 温かく包み込むような声は、しかし人間から放たれたものではない。笑みは裂け、背筋からは悪魔の翼のようにどす黒い霧が立ち、月の体を包んでいく。


「止めろぉおお――!!」


 構えも何もなく突っ込んだ一真だが、何かに足を掴まれて転んだ。足元から黒い腕の影が生え出ている。地獄から蘇った悪霊にも似たそれらが一真の体を抑え込む。


 月の顔がハッと一真の方に向いたが、母親の白い腕がその頬に触れて戻した。娘と母親の視線が交差する。


「もう、戦わなくてもいいのよ」


 優しい瞳に吸い込まれるように、月の肩から力が抜けていく。彼女の心が闇に沈む。一真にはそれを止める術はない。


――このまま、指を咥えて見てろってのか


 ふざけるなと一真は思った。月とその母親に何があったかは正確にはわからない。


 たったひとつ、物の怪は彼女らの絆すらも武器にして、月を取り込もうとしているのはわかった。彼女はもはや、一真の顔を見てもいない。


 恐らく何を叫んでも声は聞こえないだろう。効果があるとすれば、あの物の怪の手から無理やりにでも月を引き剥がす事くらい。だが、彼にはそんな力はない。


 剣道では、部活内で一番弱く、月みたいな陰陽師には足元にも及ばない。


――霧乃はどこだ。日向は? あいつの父親は?! 誰でもいいから、あいつを助けろよ

 

 一真の憤りはこの深い絶望を増長させることしかできない。

 渾身の力を振り絞っても体は動かない。一度月に助けてもらったのにも関わらず、何も出来ないまま捕まる。これほどの屈辱はない。


 いや、屈辱だけならいい。そんなものは幾らでも受け入れられる。これまでの短い人生では悔しい事ばかりだった。だが、それはいつも自分の欲求が満たされないだけで済んだ。


――勝てなくてもいい。あいつとここから抜け出すきっかけさえあればいい


 それを探そうと血走った目で辺りを見回し、ある一点で止まった。


 それは空中にぽっかりと空いた黒い穴だった。


 そこから符がいくつもばら撒かれるように流れ落ちてくる。それはよくよく見ると赤く光る糸のような物が結び付けられていた。


 そして、それに続いて現れたのはピンク色の箱だった。


「……は?」


 一真は目を疑った。赤い符に護られるように降りてくるそれは、月の弁当箱だ。卵焼きが敷き詰められている。それが月の母の目の前に置かれた。罠のようには見えない。


 月の母親の顔をした物の怪は、それを見下して鼻で笑い、それを足で蹴り飛ばそうとした。


「ン? な、に?」


 その足が動かない。


 踏絵を拒むキリスト教徒のように、彼女の足が震えている。まるで、一つの体で二つの人格が争いを始めたかのようにその顔が奇妙に歪んでいく。


「こいつ、いまだ自我を保っているだと?!」


 顔に刻まれた醜い皺が一本ずつ消えていき、驚愕に見開かれた瞳は凛とした落着きのある物へと変わっていく。物の怪に囚われたその顔が、偽りの仮面が解かれ本来の姿を取り戻していく。


 同時に月を覆っていた黒い霧が引いた。代わりに彼女の躯を支えたのは二本の白く触れるだけで散ってしまいそうな桜の花びらを思わせる腕だ。


 その顔が浮かべる表情は先ほどの余裕たっぷりの妖艶な笑みではない。本当に娘を大切に思っている母親はあんな笑みを浮かべたりしない。と、一真は無意識に思った。


「月、こいつの言う事を聞いては駄目」


 月の身を真に案じた言葉。人形のように宙を見るままだった月の瞳に生気が戻り、母親を見た。その手が自分を支えてくれている母の手を包んだ。



「こいつは月の心を弄んでいるだけ。多くの人間にやってきたように。どんなに優しい甘言も、あなたを傷つける為のものでしかないのよ」


「あ……う」月の声が嗚咽に変わる。堰き止めていた何かが、あふれ出るように。


「でも、じゃあ、私はどうすれば……」


 驚いた事に母の視線は月を通り越して、何故か一真に向けられているようだった。




 無様に倒れている男に。


 蹲ることしかできぬ男に。


 何の力も持たない男に。




「自分を大切に思ってくれる存在。それをどうか忘れないで。そして……」


 母の表情が苦悶に歪み、何かを喉に詰まらせたように言葉が止まった。


「私はここから抜け出す事は出来ないけれども……それでも、私は月を大切に思っているから。だから――」


 びくっと震えて月の母は、瞳を閉じた。次の瞬間、見開かれたのは物の怪の瞳。腕に纏わりついた黒い霧が鋭い刃物へと転じる。刃の上に小さく細やかな刃がびっしりとこびりついた鋸のような刃へと。出すと同時にそれは月の首を狙った。


 だが、月の姿は既にそこにはない。一真にはその動きの軌道すら追えなかったが、物の怪はふと上を見た。肩に担ぐように刀を振り挙げる月の姿がそこにあった。物の怪は笑って叫んだ。


「首を落として一瞬で死ぬのは嫌いなのかい?!」


 物の怪が凶器を上に向けて迎撃しようとする。凶器と変じた右腕がばっくりと鰐の咢のようにぱっくりと開いた。その口の中にもびっしりと刃がついている。


「なら、手足引き千切って最後に首……」


 興奮のまま言いかけて、物の怪はふと自分の得物を見つめた。そうしてようやく気が付いた。月が離れる前に貼りつけた一枚の符を。そこに筆で書かれた文字を。


――鬼惡厭


「悪鬼を厭ち、払い、除き去る。其が名は雷神の怒号。数多の邪を駆逐せん」


 月が静かに呟いたその途端、銀色の稲妻が符より迸った。凄まじい音と暴力的な光が一真の聴覚と視覚を一瞬、奪い去る。


「ぎぃいいあああ!!!?」


 まともにそれを受けた物の怪の腕が焦げた肉の匂いを発して炭となり、地面に落ち、月の母親の顔が真っ黒に燃え上がる。


 空にふわりと浮かびながら上空から太刀を振り下ろそうとする月の目じりに涙が浮かぶのを一真は見た気がした。



 大粒の涙が光跡のように後に尾を引く。


 太刀の一閃が触れる一瞬前、物の怪はどうにか身体を動かして、それを文字通り紙一重で避けた。


 そこへ更に踏み込むように月は一歩。下段から逆袈裟斬りで、再生途中の物の怪の腕を切り上げた。たまらず後ろに下がる物の怪の首を月は返す手で狙うが、物の怪は無事な方の左腕に例の黒い霧をまとわりつかせて巨大な籠手に変化。



 太刀の向かう先へと割り込んでくる。変化するのとほぼ同時に左腕は太刀が激突した。勢いに押され、物の怪は身体の態勢を崩し、膝をついていた。


――勝てる。


 確信し、高揚しかける一真の目の前で、月は逆に敵に追い詰められているかのような顔をしていた。敵に追い詰められているわけではない。彼女は自分の心に追い詰められている。


 目と鼻の先にある――髪の香りを感じられる程に近い――母の顔を見、月は躊躇っていた。


 本物の母の声を聞いてどうにか自我は取り戻せたものの、彼女はまだこの物の怪、自分の母親の顔をした物の怪と戦うだけの強さを持っていない。


 一真を縛っていた枷は既に無い。だが、立って月の傍まで駆けるだけの力が身体には無かった。行ったところで足手まといにしかなりようがない事が分かっていたこともある。


 月の母は、自分を大切に思う存在を忘れないようにと月に言っていた。あれは一真自身の事を指しているかのようだった。だが、それがこの状況にどれ程の意味がある? 


「百の邪を斬断し、百の魔を滅せん」


 月は己の迷いを断ち切るようにそっと呟いた。太刀の輪郭が再び眩しい銀に染まる。その切っ先を物の怪に向かって水平に構え、足に力を入れた。


 間違いなく、迷いなく敵を刺し殺せるように。


 物の怪は迫りくる、自身を浄化せんと迫る太刀を一瞥し、俯いた。死を受け入れるかのように。敗北を認めたかのように。


 黒い霧が左腕から引いて背筋に引っ込み閉じていく。物の怪が口を開いた。


「月、止めて、お願い」


 踏み込みかけた月の足が痙攣するように震えて止まった。

 

 一瞬だけ彼女の反応が遅れた。


 一瞬。だが、致命的な一瞬。


 横殴りに襲いかかってきたのは物の怪の背筋から噴き出した黒い霧が変化して出来た巨大な腕だった。


 構えも受け身も取れずに少女の華奢な身体が飛び、地面を転がり、太刀が力の抜けた手から抜けて地面に刺さった。

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