三十四
長い事、一真は暗闇の中を漂っていた。悪夢の中にいるかのよう。目を開けているのか閉じているのか、上はどこで下はどこか、足は地についているのか。
それすらも彼にはわからない。ただ、ここがどこなのかはわかった。それも幼い頃のあるシチュエーションに似ている。
思い出の中のある場面に。
そして、外から過去の自分を眺めるのではなく、自分の視線でその記憶を追体験している夢のような感覚がした。
異常としか思えない状況だが、なぜか一真は驚く事もできなかった。夢の中だから、だろうか?
栃煌神社の中で幼き頃の一真は一人。どうやったのかは自分でもわからないが神具のしまわれている倉庫へと忍び寄っていた。
錆だらけの剣、破れ掛かってボロボロになっている護符、罅割れた鏡。その鏡の表面に一真ともう一人、誰かが映っている。
「誰だ!!」
一真は思わず叫んだ。これは記憶にはない。今の彼自身の声だった。気が付くと幼い自分の体は大きく成長していた。
喉はからからに干からび、心臓が締め付けられるように痛む。自分の言葉で自身の心を突き刺したかのような痛みだ。
鏡の中の人物が口を開き、紡がれる言葉。
「私はお前の心の鏡……お前の心に棲みつく者よ。怒りあるいは恐怖、あるいは――」
鋭い音と共に鏡が割れて飛び散り、影の声が消える。ハッと一真は我に返った。
傍にあった剣で叩き割っていた事に気づいて思わずたじろいだのも束の間。目の前の光景が暗闇の中に消え去り、気が付くと一真は一面灰色の世界の中にいた。
その中に黒髪の少女が一人。狩衣を着込み、自分の身長程もある太刀を正面に構えて、何かを待つように瞳を閉じている。静かな世界の中で微睡んでいるようにもみえた。
ここは陰の界に似ている。そう、これも過去の思い出のひとつなのだろう。思い出の中で月は一真に向かってそっと呟いた。
「だいじょうぶ、こわくないよ。二人いっしょに帰れるから……」
「月?」
意味などないと分かりつつも一真は話しかけていた。そして気が付いた。狩衣の袖や袴のあちらこちらが破け、白い肌には無残な傷跡がいくつもついている事に。治りきっていない傷から止め処なく血が流れ、月自身もどことなく動きがぎこちない。
「月、その傷――」口を開きかけて、一真は固まった。この先の未来。いや今からすれば、過去か。それが唐突に思い出された。
直後、地が上に持ち上がって跳ねるように揺れて真二つに割れ、その隙間から灰色の腕が這い出てくる。
続いて現れた体と顔は薄らとしていて、ともすれば見失ってしまいそうな程にか細い存在だった。空に不気味な雲のように浮かび上がり、緩急のついた動きで迫ってくる。
太刀を振り上げ、月は地を蹴った。ふわっと小さな体が宙を舞い、更に月は空を蹴る。物の怪は向かってくる月を向か入れるように両腕を広げた。
臆せず、月は更に一蹴りし、流星のように物の怪目がけて突っ込んだ。凄まじい銀の下弦の月の光と共に物の怪は一太刀で上下の半身に分かれ飛ぶ。
が、それは完全には仕留められていなかった。真っ二つになったうちの上半身が月の目の前に落ち、その腕を心臓目がけて突き立てようと手を伸ばす。
「月!!」反射的に一真は彼女を横から突き飛ばしていた。見開かれる月の瞳の前で一真の体が貫かれ、震える。
肌も筋肉もろっ骨もまるでないかのように、余りにもあっさりと物の怪の腕は一真の心臓を掴んだ。
「え……?」
一真は呆然とそうつぶやくしかなかった。痛みはない。しかし、身体の中で何か得体の知れない毒が巡るのを一真は知覚した。
おぞましい負の霊気が体の血管を駆け巡り、這い上がってくる。内臓を凍りつかせるような恐怖が。
一真は何も出来ないまま地面に倒れ伏せてもがき、口を開いたが、上げる悲鳴は声にならない。胸に爪を突き立て、中で動き回るそれを引きずり出そうともがく。
――そして、体の中で何かが産まれる
――一真!
闇の中で声が響いた。そう思った瞬間、彼は意識を取り戻していた。
彼の生きる世界へと。
目を開けるとそこには昨夜見た時と同じ。静寂の世界。この世のうちの一真が生きる世界とは逆のもう一つの世界があった。
目では見えない物が具現する世界。ここはもう一真の思い出の中の世界ではない。
一真は、身体を動かそうとして顔をしかめた。腕と足に黒いあの影の腕が絡みつき、動かそうとすると、きつく締め上げた。月の姿を探して一真は辺りを見回した。
「起きたかい。これは愉快」あの物の怪の女の声が辺りに響いた。様々な人間の声の入り混じった耳障りなあの声。その主を、同じく捕えられている筈の月の姿を求めて一真は首を振った。そして見つけた。
真上。黒く渦巻く霧の中に大人の女性の顔が浮かび上がっていた。それよりも少し下の方で月の顔と太刀を握った腕が浮かんでいる。
「お前ぇ! 月をどうするつもりだ!!」
「どうするも何も一緒になるのさ。そうする事でこの娘は呪縛のように手足を縛る使命から解き放たれて自由になれる」
女は能面のような笑みを浮かべ、白い首を伸ばして一真の目の前に降りてきた。
「私を目にする者は皆同じ。つかれた、やすみたい、じゆうになりたい。そんな甘い幻想を抱いているかわいそうな者達。私は彼らの思念の力を得る。彼らは痛哭の籠から解放される。ほら、誰もが幸せじゃないの」
そののっぺりとした蛇のような顔に一真は怒りが、心臓の奥底から黒い煙のように湧き上がるのを感じた。その煙はどんな悪夢よりも冷たい。
「おや、ようやく自分の中に何がいるか掴めたみたいだねぇ」
「月を返せ。今すぐに、だ」
その声が自分の物であると一真は思えなかった。肚の底から響くような低い声。今までに感じた怒りとも違うもっと別の感情が咽喉まで出かかっていた。
まるで心に巣食う怪物が彼の声を借りて話しているかのようだ。
影の女はそこで初めて演技ではなく、本当にたじろいだ。が、それを相手に悟られたくはない。彼女としては幸いな事に一真の手足を縛っている枷は未だその効果を発揮し、壊れる気配もない。
「あの娘が取り込まれるのを指を咥えて見ているがいいさ。あと少しで」
「させない」
月の口元が動いて静かに呟いた。ぎょっと女は首を蛇のように曲げて、彼女を見た。身体の半分以上の自由を奪われつつも月は、毅然とした態度で物の怪を見下ろしていた。
深い霧から引きずり出すように左腕を出したそこには、折り紙が握られていた。狩衣を模って折られた白と黒の。
それを人差し指と中指で掴み、素早く九字を斬った。
僅かな間を一気に詰めてきた女物の怪は息を呑んで動きを止める。そこには捕え生贄にした筈の少女はいない。物の怪の頭を何かが突き抜けた。
瞬間、驚いた表情の顔が左右に真っ二つに引き千切れて、地面に向かって落ちていく。
遅れて白と黒の狩衣に身を包んだ月が一真の前に舞い降り一太刀で一真の手足を掴んでいる枷が弾け飛ぶ。
「一真、大丈夫?」月の声はどこか弱弱しく、顔は白さを通り越して蒼白で色を失った唇が震えていた。ショックで言葉を失っていた一真に、月は答えを聞かぬまま頷いた。
「うん……大丈夫、みたいだね。あいつ、まだ生きてるみたい。下がっていて」
どう、声を掛けたらいいのかわからない。大丈夫ではないのは一目瞭然。熾烈な戦いに臨むどころか、ベッドで横になっているべきだ。にも拘わらず、月は太刀を正眼に構えボコボコと音を立てる物の怪の残骸を、再び襲ってくるであろう物の怪を厳しい顔で見下ろしている。
それが、先程の光景と重なる。




