三十二
「私だけで十分だから!」
「おい! 放せよ!! てか、行くのか、行かないのかはっきりしろよ!」
一真の叫びにようやく月は手を放した。たたらを踏むように一真はふらついたが、すぐにバランスを戻した。振り向いた時には月はもう、一真を見ていない。その姿は消えていた。
「あいつ……!」
月がいた場所に手を当ててみたが、何の反応も無かった。制服の胸元から折鶴を出しても見たが、やはり何も起こらない。
「月……」
日向がぽつりとつぶやいた。一真は怪訝に彼女の方を見やった。
「お前、なんで?」
「月ったら勢いのまま、飛び込んで行ってしまったから“うっかり”置いていかれてしまったよー! えーん」
泣く真似をしながら日向が片方の瞳を閉じ、舌を突き出した。一真は驚きを感じながら、首を振った。
「お前は……でも、いいのか? 主人に逆らったりして」
「私達は主従関係じゃない!! って月が依然、私に言ってくれた事があってね。だからいいの。私は私の意志で彼女に力を貸すし、貸したくなかったら貸さない。で、今の所、月の恋敵……じゃ、なくて、一真君の友達に危機が及んでいて、それを助けようとしてる君に力を貸そうと思ってます。うん」
「力?」
「うん、と言っても、未来ちゃんのいる場所に君を運んであげるだけだけどね。そこまでしか私は出来ない」
後は自分でやれということらしい。だが、それだけでも、何も出来ない一真にとっては感謝しなければならない。わかったというように一真が頷くと、日向は微笑んだ。
途端、日向は昨日見せた時と同じ、燦々と輝く光を発し始めた。赤い髪がふわっと浮かび、髪の紅色に燃え上がり、天に昇る。その中で微笑みだけがくっきりと浮かびあがる。人間だった影。その背に二対の翼が生まれた。日向の髪と同じ赤く燃える太陽のような翼だ。
光が消えるとそこにいたのは、人の姿に翼を生やした天使だった。いや、そうとしか表現のしようがない。
「天使!?」
「いや、あんまり人の姿を崩すと一真君が驚くかなぁと思ってこうしたけど……完全な鳥になった方がよかった?」
そういう問題ではないと、一真は思ったが口には出さなかった。どういう問題? と返されても答えようがなかったから。
「我、陽の鬼神にして、物の怪を厭ち、怪異を払う者なり。この翼、不滅の翼なり。ひとたび振れば、何の心癒せん、何の雨雲引き、わが身を護り何れの鬼をも撃退せしむ。わが身を決して見るべからず」
ぱっと、真紅の翼が広がり、日向はしゃがんで、一真の方を見、にっこりと笑った。「乗れ」ということらしい。躊躇いながらも、肩に手を当てる。人肌とも違う、太陽の穏やかな光のような温もりがそこにはあった。日向は地を蹴った。途端、一真の体はふわっと浮き上がった。
飛行機が離陸する時には後ろに思いっきり引っ張られる感覚がするが、それとは全く違う。例えるなら、風船が手を離れて空に浮き上がっていくような感覚。
空を飛ぶのではなく、風に乗って蒼い空を泳ぐ。雲と戯れ、地上の景色は川の流れのように通り過ぎていく。空高い所にいるにも関わらず、一真が感じたのは恐怖よりも感動だった。
「へへー、これで月とあいこだねー!」
「何の話だ」
「月は昔、一真君をおんぶしたらしいけど、今私もおんぶしてる。ふふ」
不気味な笑みだったので、それ以上の追及はしなかった。地上を見回してみても、人の姿は粒のようで、どんな表情を浮かべているかも分からない。地上から見ると自分達はどう見えるのだろう? この疑問を読み取ったかのように日向は言う。
「大丈夫。術を掛けたから、地上の人々は私達の姿を見る事は出来ない」
「地上は? あ、でも空は?」
「ハハハ、心配性だなぁ。空を飛ぶ人間なんていない……」
遠い遠い空の向こうにヘリコプターが一機見えた。なぜだか、分からないがそのヘリはふらふらとした飛び方で、操縦士がよっぽど下手か、それとも――
「日、向さん?」
「う、だ、大丈夫。すぐに忘れる筈。あ! ほら、未来ちゃんの家!」
日向は話題を逸らすように指差した。一真は慌てて地上に視線を戻した。
日向が一気に高度を降ろし、未来の家が大きく近づいてくる。日向はベランダに鳥のような滑らかさで着地した。まだ、完全に降りないうちに一真はベランダに降りて、窓を見、目を見開いた。
彼女の部屋を実際に見た事は一度もない。だが、それでもこの中の様子が明らかに異常だという事はわかる。
床には本と置物の破片が飛び散り、ベッドの上では布団とマットが引っ繰り返り、その中にいる者を何かから守るようにバリケードのようになっている。そのベッドの隅に独りの少女の姿があった。頭を抱え込み、何かぶつぶつ呟いている。
「未来!」
一真は叫んで、窓を開け放った。鍵は掛かっていない。空けた拍子に大きな音が立ち、未来の肩がびくっと震えた。
「嫌ぁああっ!! 来ないでー!!」
一真はその叫びに怯んだ。この状況、誰かが見たら一真が未来を襲っているかのように見えるかもしれない。が、すぐにそんな事を思う自分の臆病さを叱咤する。
――そんな事ばかり、考えているからいつまで経っても俺は強くなれないんだ。
部屋に入り、未来へと駆け寄る。床に散らばった破片が足の裏を傷つけ、一真は顔をしかめた。それでも、ベッドへと進む。
「未来、俺だ!!」
「嫌! もう、騙されないからぁ!!」
マットを引き離そうとする一真の腕を未来が物凄い力で突き飛ばす。虚を突かれて一真は後ろへと転がった。いつも剣道では負けるが、力自体は一真の方が上の筈なのに。
「未来、俺だって!! もう、安心していい!」
「止めて、来ないで!!」
さっきよりも強い力で未来を、その腕を抑えて顔を近づける。未来の顔は恐怖で引き攣り、瞳は見開かれていた。視線は一真を通り越して、別の場所を見つめていた。
どうにかして落ち着かせる必要があった。恐怖に無力に怯える少女。一真は前にもこんな事があったような気がした。
奇妙な事にそれは月との思い出だった。
思い出の中の月は泣いていた。どうしてなのかは分からない。いつも毅然に戦う彼女がどうして、泣いていたのかは。何を恐れていたのかも。だけど、一真はその時――
「大丈夫だから。俺がいる。俺がいるから、だから大丈夫。独りじゃないから!」
一真は未来の肩を抱いてそっと耳元で呟いた。尋常ではない力を抑えている為、まるで余裕がなく、一真の顔に浮かんでいるのは苦悶の表情だ。
だが、それでも暴れる腕が少しずつ大人しくなっていく。ふと、未来は一真を見た。まるで今、初めて彼の存在に気が付いたかのように、そっと震える声で確認する。
「え? 一真? 本当に?」
「何、言ってんだよ、こんな間抜け面は俺以外にいないだろ」自虐じみた冗談で一真は笑いかけた。が、直後思いっきりベッドに押し倒された。
「一真! 良かったぁ!!」
「え? え?」
一真は驚いて助けを求めるように日向を見たが、彼女はにやにや笑ったまま動かない。さっきのやり取りでも、助けてくれればいい物を、まるで動いてくれなかった。
仕方なく、一真は未来の降ろされた長く黒い髪を撫でた。幼子を落ち着かせるように。安心させるように。それから気まずそうに言った。
「あの、俺の体から降りてくれない、かな?」
「へ?」そこで初めて未来は今の状況を把握したようだった。ぱっと反射的に一真から離れ、顔を耳まで、まるで日向の髪のように真っ赤に染めて下がる。
「いや、これはその……」
「お二人さーん。いちゃついてる所悪いのだけど」日向が冗談めかして言った。未来がびっくりしてそちらを見る。一真も窘めようとそちらに顔を向ける。
が、日向は口で冗談を言いつつも顔はまるで笑っていなかった。部屋の一角を凝視している。日が当たらず陰となっている部分だ。一真は一瞬、なぜ日向がそちらを見ているのが分からなかったが、未来は肩を震わせ怯えた声を上げた。
「あ、あいつよ」
そこで初めて気が付いた。暗い陰の中で何かが蠢いている。それは粘々とした柔らかく溶けかけた液体と固体の間のようだった。元は人間だったかのような姿。例えるなら生きる屍。体が腐ってもなお動き続ける怪物……。
瞳の無い瞳孔が未来を見通し、歯のない口が微笑み、爛れて定まった形のない腕が抱くように広がる。ゆっくりとそれは立ち上がって女性を模り始めた。




