三十
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学校の坂道は急いでいる時には得に苦になる。いつもよりも自分の足が重く、時の経つのは苛立つ程に、早く過ぎ去る気がする。実際にはいつもと時の経ち方はなんら変わらないのだとは理解していても――。
ようやく校舎にたどり着いた一真は、階段を二段越しに飛び越えていき、三階にある自分の教室へと走った。あと半階、踊り場の所まで来て一真は立ち止まった。
息切れした事もあったが、何より上の階から何やら笑い声と歓声が聞こえたからだ。月は上にいる。そして、またその口下手な性格で戸惑っているに違いない。助けないといけないのはわかるのだが、正面から入室するわけにもいかない。
残りの階段と廊下を忍び足で歩き、教室の後ろにあるドアから入ろうとする。窓から顔が見えないよう姿勢を低くしながら。
が、開かない。一真は力を入れたが、ドアはガタガタと空しく揺れるだけだ。
「誰だ。閉めたのは……」
一真は毒づいた。鍵が掛かっている。はぁっと溜息をつき一真は仕方なく前のドアから入室する事にした。
前のドアに付いている窓は外からも内側からも見えないようになっているが、それでも黒板の前に小さな影が佇んでいるのは見える。向こうもこちらを確認しているだろう。そのまま、自己紹介の話を続けてくれればいいものを、向こう側は静かにこちらの入室を待っている。
ドアをさっと開けた。そこにはなぜか、赤くなりながら狼狽えている月がいた。
「あ、か、かずま来ちゃった」
「来ちゃ――」いけないのかよ、そう言おうとして、一真はクラスを見回した。何故か全員が笑いを堪えるように口元を抑えている。未来の席が空いている事をもっと気にするべきだと頭では思っても、やはり気になった。……嫌な予感がしてきた。
「想い人登場!!」
クラスでもお調子者で名が通っている男子がそう騒いだ。それに同調する連中が連呼するように「想い人―!」「ひゅう!!」などと声を挙げている。
「月」一真はなぜこんな状況になっているのかわからない。が、原因がこの少女にある事くらいはわかっている。
「あの、これはね、彼氏いるかいないかって聞かれて」
「俺はお前の彼氏になった覚えはねーぞ」
幼い頃のあの思い出はあくまでも幼馴染としての付き合いだった。いや、そうだと一真は思いたい。あんなものに恋愛の「れ」の字も与えるつもりはない。
「いないって答えた!」
月は一真の言葉を必死で否定するように叫んだ。が、それから萎んだ声で付け加える。
「でも、想い人ならいるって答えた……京都引っ越す前に出会ったって。で、それは誰だって質問責めにされて。この学校の人間かと聞かれて……」
「言い逃れできねーぞ! 一真くーん? 幼馴染だと? そんなおいしいシチュエーションをお前が持っているとはな!」
お調子者のそいつがニタニタと笑って言った。いつもはまるで興味を持ってこない癖に、なぜ今日に限ってこんなに絡んでくるのだろうと一真は頭を抱えたくなる。それを言うなら他の生徒達もそうだが。
「ほらほら、もうそこまで」
担任の秋原が見かねてか、そう声を掛けて静まらせた。が、明らかにこの状況を楽しんでいるのか、顔がにやついている。
あれは絶対、職員室で話題にする顔だ。
「授業が始まる。準備して」
その言葉が合図だったかのように朝会終了の鐘が鳴った。生徒達はまだ口々に――まるで根拠もない噂話も含めて――一真と月の関係を話し合いながら次の授業の準備を始める。一真はどうしたらいいのか立ちすくみ、その間に月は他の面倒見のいい女子生徒にその手を引かれて行った。
転校生というのは、その物珍しさに反して学校生活では目立たない物だ。学校では固定の友達は一人もいない状態で、本人も何をどうしたらいいのか右も左もわからない状態なのだから。その意味では月も普通の転校生だった。ただ、彼女には転校生である以上に目立ってしまう要素がいくつもあった。
一つは、神社に住む陰陽師の娘だということ。ミステリアスな雰囲気といかにも巫女という感じの黒髪と嫋やかな肌の魅力は瞬く間にクラスの男どもを――一部女子も――虜にした。
そして、二つ目はかつての幼馴染で想い人である一真が転校してきたクラスにいたこと。これは一真にしてみれば不本意であった。
運がいいのか、悪いのか、彼のクラスは元々他のクラスと比べて人数が若干少なかった。だから、必然として転校生である月と同じクラスになってしまったのだ。
最後に三つ目だが。これは月自身の努力の賜物だろう。彼女は物凄く頭が良かった。特に国語が。
「あ。あの先生」
古典の時間、宿題にしてあった古文の現代語訳をクラスの誰一人としてやってこなかった事を秋原教師が説教していた時の事だった。月がおずおずとした調子で挙手したのだ。
「なんだい。月さん」苛々とした調子で秋原が聞いた。古文訳の宿題を全員がしてこなかったのは、これが初めてだったことのせいでもあるが、普段温和な彼が怒るのは相当なことだ。
「わたし、そこの所訳せます」
「えぇ? でも、ここはー……」
「まず、ここですが。あ、ここというのは、この三十ページの三行目!」と驚く秋原の前で、月は言った。ぎこちないのは説明だけで、現代語訳だけはすらすらと出た。予習でもしてきたのかと思ったが、ノートは見当たらない。流石陰陽師! というよくわからない称賛がクラス中で上がった。
国語だけでなく、歴史でも数学でも彼女は、ノートも無しに教師が出してくる質問を悉く、答え生徒達の注目を集めた。
が、なぜか四時間目の英語では全く発言が無かった。その理由は英語教師のカーチスに、指名された時に明らかになった。
「では、ここの英文読んでみてクダサイ。テンコーセーさん?」
「は、はい! えっと……あい・あい? ハブ?……」
そのしどろもどろさに、前時とのギャップにクラスの全員は黙り込んでしまった。他の教師から評判を聞いていたのか、カーチス教師も授業の終わりにはがっくりという表現がぴったりと来る程に肩を落としていた。
だが、月の注目度は下がるどころかむしろ上がった。クラスメイトの中には彼女の頭の良さに嫉妬を感じた者もいたようだが、英語でのあまりの発音の酷さを知って、彼女が完璧な人間ではない事を理解したようだった。
前時まで月の発言の良さに影口を叩いていた女子生徒が、今は月に向かって積極的に話しかけている。
一真はそれら全てをどこか他人事のように眺めていた。最初はどうなるものか、自分と同じようにクラスの輪に入れないのではと危惧していたが、そんな心配は無用のようだった。
それに、一真自身も彼女の影響のせいか、クラスの輪に無理やり入れ込まれている感じがした。月の想い人というのはまるっきりの当てつけだが、幼馴染という事で、かなりしつこく彼女の事をクラスメイトから聞かれた。
「だから、別に大した思い出はないんだって」
昼休み、普段は全く話さない男子三人が机を寄せてくるなり、月の事を聞いてきたので、一真は必死にそう弁解した。
「だけど、幼馴染だろ!? それって、ありそうで案外ない、すんげーレアな要素なんだぞ!」
クラス一のお調子者、狩野がそう言いながら、鞄から弁当を取り出した。
その視線が月の姿を探したが彼女はどこへ行ったのか教室にはいなかった。購買にでも行ったのだろうか。と思った一真だが、別の可能性……嫌な予感も感じていた。それはクラスメイトには言えないような物だが。
「あのな、幼馴染はレアかもしれない。だが、その幼馴染が幼馴染の男を好くのは、漫画とかアニメだけの話だ! 幼馴染だからって理由で恋人同士になるって方式は間違っている! 理論的に!」
一真は興奮して、捲し立てた。狩野と二人の男子生徒がダハハと噴き出して笑った。
「その理論的に! っての数学の塩谷の口癖じゃねえか」
その笑いに一真はまたしても苛立ちを感じて、口を開く。
「そんな事はどうでもいい。要はな――」
「一真! お弁当!! 私の分は買ってきた!」




