二
授業は全て終わり、今すぐにでも霧乃の所へと向かった一真だが、隣のクラスは既にホームルームも終わり、下校していた。霧乃は他の誰よりも早く帰ったとのこと。
――ぜってー、なんか知ってやがる、あいつ。
追いかけたいところだが、放課後には剣道場での部活がある。一真が剣道部に入ったのは、四月。元々、5才の頃からちょくちょくやっていたのと、最低でも一人は友人を作らなければという入学時にありがちな焦りから入部したのだ。
その願望自体が適ったと言えるだろう。
黒い髪のポニーテールと細くしなやかな体が魅力の未来はクラスの中でも皆より少し距離の離れた所から騒がしい連中を眺めているというクールな――悪く言えば腹黒な――性格だった。稽古の時も必要以上の言葉は掛けないし、こちらからも話し掛け辛い雰囲気をまとっている。
まだ、よちよち歩きの頃から竹刀を持っていたという経歴以外は一切不明だが、決して冷たいわけでもなく挨拶をすれば必ず返す。ただ、迫力が一般的な女の子に比べて、凄すぎるというだけで……。
「一真、さぼったら面なしで竹刀で面の刑だからね!」
未来は鞄に教科書を放り込んでいる一真の横を通り過ぎる時、釘を刺すように言った。人付き合いが悪いかと思えば、意外に真面目な所もある。なんとも掴み所が無い。
「あぁ、わかってるよ。今日こそは勝つからな」 一真のいつもの決まり文句を未来はフっと笑って流した。その顔には「できるかな?」というつわものの笑みが浮かんでいた。
「……勝てるわけないよな」
一真はふうっとため息をついた。それから鞄を肩に掛けて後に続く。剣道場と校舎までは無駄に離れていて、行く途中には道路まで通っている。今はいいが、これが体育の授業となると、生徒達はまるでマラソンのように走って渡らなければならない。
マラソン選手は時間までに走りきらないとゴールさせて貰えないが、俺達は走りきらないと成績が貰えない。そんなジョークが先輩から後輩に伝承される程だった。
「あー、しんどい。俺高校変えようかな」
一真がそうぼやいた時、肩にビシっと言う鋭く重い痛みが走った。
「へえ、やめるのかい? 沖一真?」
「げ、愛沙さん」
一真が振り向いたそこには自分とどこか似た雰囲気のある長く艶やかな黒髪をポニーテールに結んだ長身の先輩が立っていた。沖愛沙。一真の従姉にあたる人であり、この学校では先輩にあたる人でもある。長身で、肩幅が広く、黒色の長い髪は頭の天辺で団子のように丸められているが、それでも余った髪が肩にまで垂れていた。
一真が剣術で適わない人の一人でもある。というよりも、部活の中で一真は一番弱い。
「大丈夫です。一割方は冗談ですから」
「ふーん、じゃあ良かったけど」
一真の冗談を軽く受け流しつつ、愛沙は体育館へと入って行った。バスケ部等が使う体育館場が一階、その上の二階は体育教師が詰める部屋や、保健の授業を行う為の教室があった。剣道場自体は地下一階にある。
更衣室で胴着と袴を着付け、道場の出入り口の所で一礼してから、中へと入る。隅の方で正座しながら、胴と面小手を着付けているとすぐ傍に愛沙が座った。
「でさ、聞いた? 謎の転校生がうちの所に来るって話は」
「その正体に関しては、ほぼ全部の生徒が知っているのですから、別に謎でもなんでもないんじゃないですか?」
面紐を頭の後ろでしっかりと結び、引っ張る。固定されたことを確認して一真は立ち上がった。愛沙は既に完了していたが、振った話題についてまだ考えているようだった。
と言っても別に何か深刻な事を考えているわけでもない。この従姉は一真と、とある少女の淡い過去話を知る数少ない人間の一人だ。
「またまた、とぼけっちゃって。ま、未来ちゃんもいるからねぇ、君の為に黙っておくけどさ」
傍で着付けを行う未来には聞こえないよう小声で一真に言い、ウィンクした。直後、未来がこちらを見た。
「聞こえてますよ。一真は、転校生についてなんか知ってんの?」
「部長は今日休みですか?」
逃れるように話題をそらす一真。だが、愛沙も意地が悪い。
「あー、そうなんだよ。ガールフレンドってやつでね? ちょっと面白い話なんだなぁ、これが!」
「え!? 聞きたいですね、是非」
「おい、こら。やめろい! てか、活動時間はもう始まってますよ?」
まず最初に二人一組――結局、もう一人の先輩は欠席した為、一人余るが――となって、切り返しと呼ばれる練習と様々な技の打ち込み練習。
体が慣れてきた頃合に自稽古と呼ばれるひたすらに相手と打ち合う練習を行った。
一真は愛沙と当たった。
二本の竹刀と二人の体はぶつかっては離れ、離れてはぶつかった。愛沙の竹刀は素早い動きで一真の守りの薄い箇所へ磁石で吸い寄せられるように打つ。
出鼻を挫く戦い方が得意な藍沙に対して、一真は、相手の攻撃を防御してから打つカウンター的な戦いを好んでいた。
風を切り、唸りを発しながら飛んでくる竹刀は常に一真の一手先をいっている。
力強く、ぶれもないしっかりとした動線。打たれるかもしれない事への躊躇はまるでない。仕合中であるにも関わらず、一真はこの先輩に対する尊敬を改めて感じた。
一層熾烈な感情に身を委ねて攻撃を掛ける。アドレナリンを含んだ気合の叫びが喉から迸る。
そのおかげか、愛沙の面を一度、小手を二度、胴を一度打つことが出来た。だが、そこまでだった。勢いよく打ち込んだ面を防がれ、気勢を削がれる。
一歩下がろうと思ったその時にはもう全てが遅い。数合戦っただけで、一真は彼女の方が自分よりも腕が立つ事を、まだ彼女には適わないことを悟った。
面を防いだと思ったら小手を打たれ、小手を防いだと思ったら逆小手を打たれる。何度か攻撃を完全に防ぐ事も出来たが半分が幸運か、今までの彼女の癖から学んだに過ぎない。
弧を描いた竹刀が頭に思いっきり振り下ろした後、ようやく藍沙は止めの合図を出した。
一真が下がり、未来が竹刀を抜きながら勢いよく踊り込んでいく。全身から気魄を感じられる。彼女は相手が男性だろうが、どれだけ年上だろうが、怯まない。相手が優れていれば優れている程、気魄を高めるという驚嘆に値する胆力を持っていた。しかも、それは単なる蛮勇には終わらない。
愛沙がすっと進み出て未来に迫った。すかさず未来も前に出ると同時に、その空いている小手を打った。が、竹刀の峰で防がれる。すかさず攻撃に転じた愛沙の突きを避け、未来は面を打とうとしたが、よけられる。一旦通り過ぎた愛沙はぱっと回転し、未来の胴を狙った。
乾いた音が道場に響く。途端、未来の動きが止まった。
「ほらほら!」
「はぁあああっ!!」
愛沙の掛け声に我に返った未来が再び打ちかかっていく。戦いはその後、しばらく続いた。一真の事なんて忘れて……ではなく、一真が時間を見ず「止め」の合図を出さなかったためだった。華麗で、互いを認め合う素晴らしい戦いに嫉妬し、また見惚れたせいだった。
「うーん、今日はあれだね。三人しかいないし、早めに終わろうか」
「自分が飽きただけじゃないですか?」
ぼそっと独り言のように一真は尋ねた。
「顧問の先生は今日いないしさ。それとも、後三時間休みなしの鬼畜訓練やる?」
「あんなのは寒稽古の時だけで十分。お腹いっぱいですよ」
雪が舞い散る極寒の冬に行ったあの訓練は今でも体が覚えている。余りの疲労に体のバランス感覚が狂い、関節のあらゆる部分は砂塵が詰まったかのように動くなり――。
思い出して、一真はぶるりと体を震わせた。
「ま、いいんじゃないですか? 俺も友達に用があるんで」
「へえ、それは一大事だね」
こちらが用あるだけで、かなり一方的な押しかけになってしまうでしょうが――という言葉は呑みこんだ。
「んじゃ、早いところ黙想して帰ろうっか! 全員集合!」大声を出すまでもなく残り二人は集まった。正座し、短い黙想を捧げた後、三人はあっという間に道場から出て行った。