二十二
「あぁ、頼んだ」
「へへへー、任せなって!!」
式神の少女は胸を勢いよく叩き、咽込んだ。大丈夫だろうか。
一真は寝間着を箪笥から出すとわざわざ、日向から見えないように、服をしまう場所としては少し大きすぎるロッカーに隠れて着替えた。日向を外に出せば済みそうではあるが、花音とばったり出くわしても色々と面倒だ。
それから、一真はロッカーから出てきて、窓のカーテンに手を掛けた。外は細い雨が降り霧のヴェールのようになっていた。雲に隠れ月は見えない。ここからだとずっと向こうの神社が朧げにだが、見える。
彼女は今どうしているだろう。夜はちゃんと寝ているのだろうか。それとも、またあの化け物と?
「あいやー、月はもう寝ているみたいだね」
ぬうっと首を突出し、頭の前で手を掲げた日向が言い、一真はびくっと肩を震わせた。少女の胸がその鼓動を感じられる程に近い。本人は果たしてそれを自覚しているのかしていないのか。すっと日向は身体を引っ込めた。
「心配ないって。月は朝晩物の怪と戦っているわけじゃない。月だって人間なんだし」
「ま、まぁそうかな」
どうにも心を見透かされていたようだ。それとも式神としての変な能力が彼女にはあるのか。一真にはどっちなのかわかる由もない。
「月とは一体いつから一緒にいる?」
「そうだねー、九年と三か月と二日、七刻くらいに京都でかな」
「そんなに細かく答えなくていい」
つまり。大体十年程前。彼女が引っ越した後の事か。それまでは式神を使役するだけの力も無かったのだろう。多分。
「その前はお前はどこにいたんだ?」
「教えてもいいけど、頭が破裂するかもよ? 理解できずに」
「じゃあ、いい」
「なんだよー。そこで、なぜ、もっと聞こうと思わない!」
「……お前と月の外見がそっくりな事については聞いてもいいか?」一真は妹と会話している時の疲れにも通じる物を感じながら、ベッドに腰を下ろした。
日向は窓際に座った。雨を背景にした少女の画のようなイメージを人に抱かせる、幻想的な光景に見えた。
「式神にも色々いるけどね、私は元々は霊鳥だったんだけど、物の怪との戦いでドジしちゃってね、形のない、吹けば消える蝋燭の灯火のような存在にまで貶められたの。月はそんな私の為に自分の髪の毛をくれた。私はそれを核とし、自分の体を作る事が出来た。髪と目の色以外の外見がそっくりなのはそのせいよ」
紅の目を細めて微笑む式神はやはり、どこか非人間的だ。しかし、それでいて人間的な感情が見え隠れする。そう思えるのはやはり、月の体の一部を使ったせいなのだろうか。
好奇心に駆られて一真は口を開いた。
「あのもう一つの世界は……」
「陰の界」
「それだ。あれは一体なんなんだ? 物の怪と戦う為の異時空間みたいにしか見えないけど」
「それは、陰陽師の都合上、そうなっているだけだよ。あそこは元々そんな所ではない。確かに物の怪が生まれる巣穴ではある。だけど、その物の怪を作りだしているのは人の負の感情。だけど、人の心が悪ーい感情だけで成り立っているわけではないのと同じようにあそこにも、様々な気が流れている」
「そう、なのか? その負の気? 悪い感情だけが集まっているように感じたけど」
あそこで感じた事を思い出そうとしたが、まるで夢の中で経験した事のように曖昧だ。だが、少なくともいい夢でなかったのは確かだ。それに殺されかけたし……。
「そうだね。憎しみ、嫉妬、悲しみ、そういう暗黒の感情は最も顕著に現れる物だからね。だけどね、そういう感情を曝け出せるあの空間その物が、正の感情によって成り立っている。……て言えばわかるかな?」
「わからないけど……少なくとも月よりは説明上手だと思う」
くすりと笑い、日向は続ける。
「つまり例えるなら、あの世界そのものが、全てを受け入れてくれる巨大な母みたいな物、そこにいる物の怪は駄々をこねる子供みたいな物かな。悪い感情を受け入れる為に良い感情が創り出した空間なのよ、あそこは」
「だけど、それでいいのか? 物の怪は強くなりすぎると暴れて人を傷つけるんだろう? 現に今の『巫女殺し』だって」
「そうだね。育ちすぎた子が殻を破るように、或いは母親の手の温もりでは収まりきらない子のように、外の世界へ……物の怪は境界を突き破ろうとする。でも、それを許さないのが陰陽師」
怜悧に言い放ったその言葉に一真は思わずたじろいだ。あの世界で見た物の怪の少女の言葉と表情を思い出したせいかもしれない。殺されかけたという現実と対峙した時の恐怖は忘れようもないが、彼女が負の感情に囚われあの世界を彷徨いこんでしまった被害者である事も変わりようはない。それを人間側の都合で排除していいものなのだろうか……?
そんな一真の疑問に気付いているのか、いないのか、日向は話し続ける。
「さっき、物の怪は負の気つまり悪い気で構成されているって言ったけど、気にも色々あってね。この世のありとあらゆる事物は大きく分けると陰と陽の二つ。陽は動的な要素を示し、陰は静的な要素。因みに物の怪の負の気の殆どは陰に当たる。この陰の気の中でも陰の陰とか色々あるけど理解出来ないだろうから置いておくとして。元々陰陽師はこの陰陽の理を解明するための学者みたいな事をする職業だったんだ」
月の戦う姿を見て以来、映画やアニメにあるような妖怪ハンター的なイメージを陰陽師に対して抱いていた一真だが、結局はそこが原点であるのは確かなようだ。
年表を作ったり、星の動きを観察して吉凶を占ったりと、昔風の天文学者が、本来の陰陽師としての姿だった。
「彼らが物の怪という存在の正体について知るにはそう時間を要さなかった。負の気が集まりて、物の怪と為す。そして、その物の怪の巣堀たる陰の界を見つけしは、春日家の陰陽少女葵」
「少女? 春日って……」
驚きで息を詰まらせた一真に、日向はふっとどことなく無気力な溜息をついた。
「春日家は千年も前から続く由緒正しい陰陽師の家系なんだけどね。陰の界が見つけ出されたのは円融天皇の御代、平安時代の頃の話なのだけどその頃春日家にはおのこが産まれなかった。だけど葵は、その家の中でも一際強い霊力に恵まれていたから」
「霊力?」耳慣れない言葉が出てきて一真は思わず聞き返した。
「陰陽師が物の怪と戦う時に使う気の力の事ね。その霊力を込めた技を方術とか道術という――で、葵は陰陽寮には認められ無かったけど、非公式の陰陽師として当主である父親に従い働いた。陰陽寮というのは、陰陽師の組織の事ね。天智天皇の御代からあって、明治の時代に廃止された」
陰陽寮という言葉にぴんと来ていない一真の為に、日向は補足した。そういえばそんなのがあったけと一真はこれまた、何かの授業で余談として聞いた事を思い出していた。さっきから分からない単語に戸惑ってばかりで、どうも話の流れを乱している気がし、一真は結論だけを繰り返す。
「そうか。月の祖先が発見したんだな」そう思うと不思議な感覚がした。友達の祖先に歴史上の有名人がいると聞かされた時のような――歴史の教科書には載っていないが―。
勿論、あんな神社にいるのだから祖先に有名な陰陽師の一人や二人はいるのだろうと想像は出来るが、こうしてその実績を聞かされるとまた感慨深い物がある。ただ、やった事の現実味が無さ過ぎて正史として載せられてもいなさそうだが。
「うん、事実はそう。だけど、公式な記録では誰が発見したかは不明となってるね」
「不明?」一真はオウム返しにそう聞き、だが何となくその訳は分かった。その葵という人物についての先程の説明を思い返してみればわかる。春日家には男がいなかった。本来なら陰陽師は男しかなれないとかいう男尊女卑な仕来りでもあったのだろう。
だが葵自身の力も捨てられない陰陽寮は彼女を非公式の陰陽師として使った。彼女がどれ程の功績を上げようが、名もない不明者の名誉として扱われる。なんともひどい話だ。
「ま、それが人間の世界なんだなと私は思っていたけど、最近では男でも女でも陰陽師になれるね。だんじょびょーどーってやつのおかげで。ま、陰陽寮その物が廃止されてるってのもあるけどね」
まるで、その実態を見ていたかのような話しぶりに一真は眉を潜めた。
この式神は一体いつから生きているのだろう。月によって召喚されたのではないのか? 疑問に感じたが話題から逸れるのであえて聞かなかった。
「で、その頃からかな。陰陽師はその職業の質を大きく変えた。物の怪を倒す呪術師の印象がついたのもこのころ。人の怨みが怪物となって襲ってくる。その事実を知った貴族の周章狼狽ぶりといったら、それはもう滑稽だったよ」
「なあ、お前一体年いくつだよ」思わず口走ってしまった。見る見るうちに日向の顔が不機嫌な色に染まっていく。
「む、失礼な。おばあちゃんだとでも言いたいわけ? 式神としてはまだ若いほうだからね、私」
むうっと頬を膨らます日向のしぐさは月そっくりだった。
「おほん。で、陰陽師が物の怪を退治するようになったのは皇族や貴族から依頼されたからってのもあるんだけど、それ以上に彼らは物の怪に対して危機感を抱いていたの」
「危機感?」聞き返すと日向はこくりと頷いた。
しかし、何を今更と一真は怪訝に思ったが、物の怪には人を襲う以上に何かとんでもない事を引き起こすのだろうか。
「言ったよね。陰陽師は元々学者だって。物の怪の事も当然退治するだけでなく、研究もしたの。で、わかった事が一つあるんだけど。一真くん。物の怪が陰の界を飛び出してこっちの界に来る理由ってなんでだかわかる?」
「それは……その世界に満足出来なかったから、とかかな?」一真の声には自信が無かったが、日向は静かに頷いた。その瞳の奥がきらりと光った。
「まあ、そんなもんだね。陰の界は物の怪のいられる唯一の場所でもあるけど、物の怪をそこに縛り付ける牢獄でもあるわけ。で、物の怪の中でも自分の生きている環境に対して反感に目覚めるやつがいてね。そんなやつがこっちの世界に来るともう大変なんだ。元々、物の怪は強い怨念から生み出された物だから」
「まだ、いまいちお前が何を言いたいのかが、わからないな……」忍耐も既になく、更に眠気までが襲ってきて一真は先を促した。
「うむ、眠そうだね。結論から言うとだね、物の怪はこの陽の界を自分の気で染め上げようとするんだ。人や物のに取り憑く事でね。簡単に言うと祟りかな?」
「たた……り」
そこで一真の意識が眠りについたことに日向は気が付き、ふうっと呆れの溜息をついた。すっと立ち上がり、一真の顔の前で手を振ったりもしたが、起きる気配はまるでない。
「ここからが大事な話なのになぁ。少し長すぎたかな。うむうむ、私もまだまだ修行不足かぁ」
「……いや、ごめん。なんか、どうもそれ以上は頭に入りそうもない」
「わかったわかった。じゃあ、簡単に月の事について聞くね。沖一真くん」
窓枠から降り、ベッドの傍まで近づいてきた日向に、一真はゆっくりと体を起こした。
「君は彼女の支えになりたいと本気で思っている?」
そっと歩み寄った日向の手が一真の手を包んだ。柔らかいこの感触は紛れもなく人間の物と同じ肌だ。
だが、何とも言えない違和感があった。温かみはあるがその性質は人の肌というよりも、太陽が発する光から感じる温もりに近く肌がちりちりと仄かに焼かれる感覚すら覚える。
「私では彼女を支えるには限界があるの。ほら、私は人間じゃないから」
その儚げな苦笑に一真は何か言い知れない圧迫感を感じた。そんなことはないよなどという軽い言葉で返せないほどの。一体京都に行っている間に何があったのだろう。
しかし、一真はそれをあえて聞かなかった。彼女達から話す気になるまで待つべきだと、そう判断したからだ。
しばしの沈黙の後、彼は薄い意識のまま、答えた。
「俺はあいつが傷つく姿を見たくない。助けになるなら……もしも、俺が必要ならばだけど。俺がやった事が逆にあいつを危機に追い込むような事になって欲しくもない」
「私は彼女の支えになりたいかどうかを聞いたんだよ。その気持ちがあるかどうか」
深刻に考え込む一真に日向は幾分か和らいだ笑みを浮かべた。もっと率直な気持ちをぶつければ良かったのか。一真は正直な所の思いを告げようとしたが、そこで躊躇した。この十年間、彼女を支え続けたのは日向だ。少なくともその一人である事に変わりはない。
再会して一日も経っていない自分が軽々しく支えたい等と言っていいのだろうか。
「俺は日向、お前がこれまであいつを支えてきたその年月とその思いを知らない。それはお前にしかわからない切実な物だと思うから……」
我ながらくどいと思ったが、日向は黙ってその続きを待っている。
「だけど、俺も月の事を大切に思っている。支えてやりたい」
日向はふっと笑って、人差し指と薬指を一真の目の前に突き出した。パタンという音と共に一真は布団に顔を埋めていた。部屋には静かな寝息が微かに響いた。
「人間て本当に不思議」
日向は再び窓枠に腰かけ、遠くの神社を見つめ一人ごちた。夜の帳の中で輝く紅い瞳は楽しんでいるようにも悲しんでいるようにも見える。放った言葉は一真に対してなのか、それとも神社にいる者達に対して言ったのかもしれない。
「忘れているようで、全然忘れてない。誓った約束を守ろうとするんだから」




