十七
神社を出る頃にはもう夜中の八時となっていた。いつも以上に運動したせいか、身体の節々の関節やアキレス健が悲鳴を上げていた。こんなに運動するのは冬の寒稽古の時くらいなものだ。
「一真、かずま」
鳥居の外まで見送りに来た月が後ろから近づきながら呼びかけた。五才の時に聞いた声と響きが似ていた。一真が振り向くと無邪気な笑みが月の口元に浮かんでいた。思わず微笑み返したくなったが、道場での試合を思い出すと一真の顔は暗くなった。月はそれを察してか、慌てて手をパタパタと振った。
「さっきの仕合の事は気にしなくていいから。明日一真の通う学校に行くから。その、色々……えっと」
月はそれがいつもの癖なのか、口ごもり、袖を合わせながら日向の顔を見た。日向も日向で慣れているらしく、冷たく突き放すように言う。
「ほらー、ちゃんと自分で言ってよね。私の顔を見ても言いたい事は書いてないから」
「色々と、その……」
「あぁ、わかってる。わからない事があったら俺に言ってくれ」
一真が答えると月は屈託ない笑みを浮かべて頷いた。それは幼い頃に見た笑みと同じ雰囲気だったが、どこか違う……これは、年相応の落着きがもたらしたものだろうか? それとも物の怪との戦いで月自身も精神がすり減っているのだろうか? その疑問の答えは少なくとも月の顔には書いてなかった。
「じゃあ、また明日な」
「うん、またあした」
そう言って別れ、ふと夜空を眺めた。そこにも月があった。
そうだ。明日がある。これから何日、何週間と一緒にいられるのだ。前とは違う。
これから長い時間を掛けて月の事を知ればいい。そして、助けになる事があれば支える。何も、戦いで助ける必要はないのだから。友達として助ければいい。
その時間はたっぷりあるのだから。
夜空に浮かぶ朧月が風に流されてきた雲に覆われるのを一真はいつまでも眺めていた。
†††
袖から内側は漆黒、袖は純白という奇妙な色合いの狩衣を纏い、月は幻想とも言える空間の中を飛んでいた。いや、跳んでいた。駆けるように足を後ろに蹴り、その度に彼女の少なくとも見た目には小柄で華奢な身体が、宙を白銀の尾を踵から引きながら跳ぶ。
沖一真と別れてからすぐさま、彼女は父親の元へと向かうべく、陰の界とよばれるこの世の裏側にある世界に入り込んだ彼女の表情には先程のあどけなさも無邪気さもない。今はただ、使命を果たすという単純な決意が彼女の心を支配していた。
月が生まれるよりも前から物の怪と相対してきた父が既に出向いているが、それでは目立った成果が上がらないであろうことは、月にはわかっていた。今回の怪異「巫女殺し」を引き起こしている物の怪はあくまでも、女を標的としている。女性の傍にいる男が被害にあうという事はあるかもしれないが、男だけでいてもその物の怪は危害を加えようとはしない。
月がこうして姿をあからさまに見せながら跳びまわっているのは、物の怪に発見してもらう為。自らを餌としているのだ。
物の怪の特徴はわかっている。こちらの躯に取り憑き、心の奥底に眠らせているトラウマを蘇らせ心理的に追い詰める戦法だ。心の負の気から生まれた物の怪においては、珍しくもない戦法だが、今回の物の怪は女性の心を乱す事を得意としている。陰陽師である月ですら、その例外には当てはまらない。
理論上からの警戒ではない。この怪異が「巫女殺し」と名付けられた事を考えればすぐにわかることだが、この怪異の最初の標的は巫女だった。それも、物の怪との戦いを既に何度も経験してきた使い手だ。
月はその事を思い、太刀「月影」を握る手に力を込めた。と、視線の端で何かが閃いた。
それは巨大な木の枝だった。一本一本が槍のように鋭く、丸太のように野太い。何十本とあるそれが、月の体を串刺しにしようと空気を貫く。月は慌てなかった。
宙を蹴り、その攻撃の届かない範囲まで一気に駆け抜けた。月のいた場所を空しく突いたその木の槍の群だが、途中で軌道を変え、吸い寄せられるように、地面に降り立った月に向かう。
月は地を蹴った。木の槍に向かってではない。そこに向かったのでは意味がない事は一瞬の観察でわかっていた。
「根本は……そこっ!!」
月が咆え、月影が哮け(たけ)り立つような音と共に煌めく。その先にいる手足から木の枝を無造作に生やしていた物の怪が驚いたような表情のまま、叫びを上げる間もなく、胴を真二つに切り裂かれた。
「クソォ!!」
勢いの余り宙に飛んだ物の怪の上半身にくっついている顔が悪態をつき、腕から木の槍の群を飛ばす。その先にいる月を貫く事が出来るように。月は避けようともしなかった。
「陰の界の塵と成り果てろ」
月影の輪郭が星の爆発のように明るい白銀色に輝く。腰を捻って右腕を扇を広げるように振るった。
物の怪の攻撃は弾かれ、その先にいる物の怪本体が太刀の起こした衝撃波によって焼き尽くされ、月が宣言した通り、破片どころか、上げる煙すら光に呑みつくされ、一瞬にして陰の世界の塵と化す。
「ふう」
その光が消えるのを見届けてから月は息を一つついた。「巫女殺し」の主犯である物の怪ではなかった。奴は――彼女はこんなに弱くはない。たやすく済む相手ではない。とはいえ、物の怪の行動が目に見えて活発になってきているという事実は残る。
物の怪というのはその殆どが、陰陽師の存在から隠れるようにして、人の負の気を糧に生き続ける禿鷹のような存在だ。こそこそと隠れて力を蓄えて大きな怪異を起こす。物の怪の力の成長には個体差があるし、生まれる時期もまちまちであるから、怪異自体は物の怪の数程、頻繁に起こるわけではない。
それに物の怪達自体それぞれが、人間の負の気が集まって出来た物だから、協調性などなく、他の物の怪が暴れていても手を貸すなどという事は殆どしない。なのだがここ最近は事情が違う……
「見事だな」
声が右肩の斜め上から聞こえ、月は振り向いた。漆黒の狩衣を纏った刀真が腕を組みながら月を見ていた。一体いつからそこにいたのか。月はそんな事はおくびにも表情に出さずに頭を下げた。
「父様の修行のおかげです」
「だが、まだまだだな。『影』と戦う事は出来ても打ち破る程ではない」
月の言葉など耳に届いていなかったかのように刀真は厳しい言葉をぶつける。月は唇を噛んだ。そんな事はわかっている。「影」は強い。殆どの陰陽師や法師が適う相手ではないだろう。刀真は月が倒した物の怪が最後にいた場所を眺めている。
「無論、打ち破るだけが我々の問題ではない。問題はアレがそれほどにまで強くなった原因だ。尤も原因自体は容易に察しがつくがね」
月は黙って頷いた。
「はい、父様」
刀真はちらっと月の顔に視線を向けながら尋ねた。
「あの少年は? まさか、ここにはいないだろうな?」
「居たら気配でおわかりになるでしょう」月はちくっと皮肉った。刀真は困ったような顔で微苦笑を浮かべる。自然口調も少し和らいだ。
「怒らないでくれないかな」
「怒ってません」
「いや、怒っている。だが、彼は介入しない方がいい。その前にこの怪異を終わらせるべきだ。違うか?」
月は再び頷いたが、父親の言い方に少し引っ掛かりを覚えた。
「一真は昔から変わっていなかった。優しい人です」
「わかっているとも。だが、それが問題なのだ。人を思う心は良くも悪くも人の原動力だ。彼は動き方を知っていても、止め方は知らない。ある意味では物の怪よりも恐ろしい存在かもしれない」
「父様……あれは」
「単なる竹刀の戦いであれ程の物だ。物の怪との戦いに巻き込むわけにはいかん」
刀真はきっぱりと断じた。この論争に勝ち目はない。それを知るのに相手の気を読む必要は無かった。月は黙って頭を下げた。
「勿論です。この怪異は必ず我々の手で終わらせます」
「よろしい。だが、今夜はもう奴も出ては来ないだろう。派手に暴れたからな。“反閇”終了だ。帰るぞ」
刀真の姿は月が瞬きする間に消えていた。
月はふうっと物の怪との戦いが終わった時よりも長く細い息を吐いた。刀真は決して認めない。十年前に一真が月を助けてくれたという事も。
彼が物の怪との戦いに入ってくることも。
口で言う程彼の優しさを知りもしないと月は心の中で怒った。勿論、一真を戦いに巻き込みたいわけではないが、彼が危険な存在だとは思わない。思えない。
これ以上考え続けても堂々巡りだ。月はそう思い、右腕を突き出し、胸の前で九字切った。
「乾は大いに通りて正しきによろし」
空間自体が捻じ曲がったかと思うと次の瞬間には、月は元の世界に戻っていた。と言っても見た目の風景自体には何の変わりもない。無造作に立ち並ぶビル群、所々に人工的に生やされたのだと見て取れる樹木がぽつんぽつんと立ち、空には叢雲の合間から月の木漏れ日のような光が覗いている。
視認できる変化はひとつだけ。膨大な人の気配だ。
月の来ていた狩衣は元の巫女装束に変わっていた。その手には折り紙で出来た白黒の和服が、もう片方の手には木彫りの小さな刀があった。
巫女装束ではなく、普段着にしておけば良かったと月は少し後悔する。神社自体からはさほど離れていない場所であるとはいえ、この服装は嫌でも人目につく。京都では神社や寺が多いせいか、古風な恰好をしていても軽く気配を絶つだけで、視線を避ける事が出来たものだが。
日向がいなくて良かった。月はちらっとそう思った。こんなに困っている顔をしたら、何を言われるかわかったものではない。月は意を決して、神社までの道のりを戻り始めた。陰の界で使ったような力はここでも使えなくはないが、そんなことをすれば確実に注目されてしまう。
なので、注目を浴びないぎりぎりの許す限りの速さで月は走った。道路を横切り、人の視線をかわし、石段を駆け上がるとようやく彼女は安堵した。鳥居をくぐり、真っ直ぐに宿坊へと向かう。
自分の部屋に入るやいなや、月は床に顔から倒れ込んだ。視界が途端に真っ暗になる。
「はぁああ。もう疲れた」
「月よぉ。いくら疲れたからって、巫女がそんなふしだらな寝方は駄目だぞー。ちゃんと布団を敷いてその上で寝るものだー」
「うっさい」
襖の間から覗く舞香の恐らくはにやにやとしているだろう表情に向かって言い放つ。女友達である彼女といる時は多少なりとも饒舌になれる。
「明日はがっこー。今のうちに休んでおきたい」
「準備くらいはしとけよー。出ないと、初登校時から恥をさらしかねないぞー」
そういう舞香自身は既に学校の準備は済ましてあるらしい。月の行くことになった高校とは違うが、舞香自身も私立の女子高校に通っている。
共学の学校に行かないのは父親の意向だが、舞香自身はそれになにも反発を持っていないように見えた。いつものほほんとしていて、女子校にありがちな派閥的な争いのようなドロドロとした人間関係とも無縁のようだ。
ただ、今は「巫女殺し」の情報を収集する為、遠巻きにではあるが、女子校の生徒たちを注意深く観察している。
「む、それもそうかな」
月はむっくりと犬のように起き上がり、自分の机に向かった。本棚は小奇麗に整っており、埃ひとつない。舞香が掃除をしてくれたおかげだが、月自身も整理整頓が苦手というわけではない。
明日必要な書類や授業で使うノートを取り出し、鞄に入れていく。明日一真と同じ学校に行くのだと思うと、不思議な感覚がする。
「舞香」
「ん? なんだー?」




