十四
その問いが何を意味しているのか、一真には一瞬で分かった。アドレナリンが沸騰し、抑えても噴き出るその興奮が彼に囁きかける。
――これこそ、待ち望んでいたチャンスじゃないか? 月に俺自身の力を見せて、認めてもらう絶好の……
その挑戦に舞香は慌てた。畳を踏み抜きかねない程の勢いで立ち上がり、間に立ち、二人の間に留まった緊張の気を払いのけるように手をぶんぶんと鳥の羽ばたきのように振った。
「あのね、一真よ! 言っておくが、月は関西でも有名な示現道場で大人と混じって壮絶な修練を積んだ本物の……戦国や幕末にいるような剣豪と言ってもさしつかえない位の凄腕なんよ!?」
「え?」
冷水を顔にぶっ掛けられたように一真はあんぐり口と目を開いた。示現道場。その発端は、戦国時代にまで遡る。
ふつうの剣道は勿論、古流剣術、居合、杖術薙刀等ありとあらゆる武術が学べる。学べると言っても誰でも気軽にというわけではない。入門するには師範が認めるような実力が無ければいけないし、その後の修行も比喩や物の例えなどではない、血反吐の出るような物だと一真は聞いている。
剣道の稽古では、竹刀を三本まとめて百素振りという古流剣術の訓練に基づいた独特の――異常と言ってもいい――鍛錬を行っている。
中学時代にその道場の鍛錬法の噂を聞いた一真は、安直な気持ちでそれを実践しようとしたが、素振りする事二十回目でくたびれ、持っていた竹刀を全部床にぶちまけてしまった。なんの運動もしていない人間だったら、五回ともたないだろう、二十回でもたいしたもんだと、そんな都合のいい事は考えなかった。
百回等、常軌を逸しているとしか思えなかった思い出がある。
「三本勝負」
月の言葉が凍りついた心を穿った。我に返った一真は、一瞬でも怯えた自分自身に腹が立った。相変わらず涼しい月の表情はどこか余裕ある実力者の嘲笑にすら見えてくる。
「いいだろう。受けて立つ」
「先に二本入れた方の勝ち。負けた側は勝った側の言う事を大人しく聞く。それで、いい?」
「あぁ」
一真は言うと同時に立ち上がった。月はその戦意溢れる顔に初めて顔を背けた。
「私は戦いたくないけど」
その言葉は酷く一真の心を揺さぶった。
――一体、どうして俺はこんなに……何に怒っているのだろう? 大人しく月の言うとおりにするべきではないのか?
自分の発した言葉とこれからしようとしている無謀な事を考えると、一真は満足に月の顔を見つめられなくなっていた。
「道場が宿坊の横にあるから。胴着は持ってる? 持ってなかったら……」
「ある。今日は部活だったからな」
燐光の費えた鬼火のように、一真の口調は勢いを失くしていた。止めるべきかどうかと悩む舞香の肩を後ろで立ち上がった月が掴んだ。
「大丈夫だから。審判できる?」
小柄な巫女は最後まで止めるべきかと悩んだが、結局は折れた。諦めを溜息にしてその空気に向かって吐き出す。
「いいよー。だけどどうなっても知らないよ。私は」
口を尖らせる舞香に月は儚い微笑みで返した。その光景に一真は戸惑いを感じた。確かに実力では雲泥の差がある。まあ、少なくとも月が話通りの猛者ならば。たかがと言ってしまうと、戦いを受けて立った身として情けないが、剣道の試合だ。余程の事がない限りは大怪我等負わない筈。
「確認するが」なるべく怯えは出さないように悟られないよう、一真は聞いた。
「得物は竹刀。私は陰陽師としての力は一切使わない。生の力のみで真っ向勝負。一真が心配しているような事はしない」
ホッと安堵すべきなのだろうか。手心を加えられているという事実に一真は、ぐっと拳を握った。万に一つ勝てたとしても、彼女にはまだ、届かない。そこまで考えて一真は奇妙な気持ちになった。深くは踏み入るまいと先刻まで考えていたのが、嘘のようではないか。
三人は宿坊の隣にある小さな道場へと向かった。一本の廊下を渡ったすぐ向こう、神社の丁度裏側に当たる。戦っている最中に神主や他の人に気付かれないかと一真は危惧したが、元々この時間帯は月の独自の稽古時間との事で、多少騒いでも誰も来はしないという。
学校に備えられている物よりも小さな更衣室で未だ汗の匂いの張り付いた胴着に着替え、借りた面小手胴を手際よく付けていく。
学校での先輩達との打ち合いで出来た打身とたこの出来た指が小手を通した時に傷みの悲鳴をあげた。これでは竹刀を満足に振るえるかも怪しい。
一真はその事に顔をしかめた。全く俺は何をしているのだろう。
それから彼は長い溜息をつき、手術台にでも向うかのような気持ちで更衣室を後にする。
道場に一礼してから、日の差し込む窓際とは逆の入り口側の端にすっと流れ込むように座った。その足さばきと身のこなしは一目で武道経験者と分かるものだが、だからどうしたと一真は思う。そんな物は一度身で覚えてしまえば誰にでも出来る。重要なのはその先だ。相手を打てるかどうか。勝つか負けるか。
相手に見下されぬよう、竹刀の振り方を一から教えてくれた先生の前では特にだが、一真は少しでも上手くなろうと必死に練習を続けてきた。
どれ程練習しても未来や先輩に届きはしないという恐れと戦いながら。時にはその恐れの感情をも糧に変えて打ちかかった事がある。
稽古前に稽古者達が礼を捧げる神棚には一枚の掛け軸があった。あみだのような図に臨兵闘者 皆陳列在前の文字がそれぞれの線の先に書かれており、その横に奇妙な恰好の手の形が描かれていた。
陰陽道の神様の儀式か何かか? いや違う、陰陽師が切る九字護身法だ。これを覚えれば自分でも物の怪と戦えるだろうか? そんな安直な事を思う一真の心を暗いもう一つの影が水を差す。
――見よう見まねで出来るなら、今まで苦労することなどなかっただろうに
肉刺の上に肉刺の出来た拳が竹刀を砕きかねない程の強さでその刀身を握った。あまり握り続けていると本当に折れかねない。仕方なく一真は茶色いその哀れな相棒を床に置いた。
竹刀は学校の授業で使われるような緑色のカーボン製ではなく、本当の竹を使った物だ。カーボン製と比べて折れやすい。一真の竹刀は長い間酷使しすぎたせいか、あちらこちらに傷やへこみが目立つ。そろそろ買い替え時だろうと何度も思ったがしなかった。両親に言えばそれだけの金は出してもらえる。これは聞いてみるまでもなく、わかる。父も母もあまり家にいない事を気にかけてか、金銭面においてはかなり甘い所があるからだ。
その事が余計に一真の心を苛立たせた。ただただ機械的に渡される紙屑を破り捨てたい衝動と何度と戦ったことか。更衣室の木造りの扉が音もなく静かに開いた。中から現れた月は髪を頭の天辺まで結い上げて手拭で覆っていた。
その身には雪のように白く汚れ一つない道着と袴を折り目も崩さずに穿いている。その身なりが狩衣と同じ神秘的な雰囲気をかもしだしていた。
その上に黒漆の胴と腰よりも少し上の位置に胴垂れを着込んでいた。両手に抱えた面の面鉄には青漆が塗られている。京都では激しい稽古をしていただろうにも関わらず汚れひとつがなく、見事な着付けである事に一真は軽く嫉妬した。一体どういう工夫をすればそうなるのか。涼しい顔をした月の表情は少しも奢るふうでもなく、気取っている風でもなかった。
「準備は出来たみたいだな」
てきぱきと流れるような挙措で面と小手を装着した月に一真は、心で思ったことは億尾にも出さずにそう告げて、竹刀を手に立ち上がった。
「うん。舞香お願い」
「うーん、どうなっても知らないからなぁ。私は判定するだけ。判定するだけだ」
舞香は手の中で赤と白の旗を手品師のように回しながら言った。彼女は一体何を恐れているのだろう? 月が力一杯殴って一真の頭を粉砕してしまうことをか?
「はーい、じゃあ礼して三歩前でろー」
気合の入らない掛け声に合わせて一真は視線を月の瞳から離さないまま礼をした。面の奥底から少女も見返す。そのまま摺り足の大股で三歩近づき、竹刀が触れるか触れない位置で蹲踞し合図を待つ。来ない。
一真はちらっと舞華を見た。舞華も完全に忘れているのか、ぽかんとしたまま二人の様子を眺めている。脚が痺れてきて、踵の位置がずれ、倒れそうになるのを必死に持ち直す。
月はというと、まるで苦も無くその姿勢を維持し、竹刀をピンと伸ばしていた。
「舞華」月が小さく呟いた。
「へ? あぁ、合図か! じゃ、はじめー」




