十三
この怪訝が一真の顔に書いてあったのか、月はこの質問の裏にある疑問にも答えた。
「一真がいたあの陰の界は物の怪の世界であって、負の気が集まる場所なんだけれども、物の怪の勢力が強くなるとその影響力が表の陽の界――つまりは、私達のいる世界に物の怪や物の怪が起こす怪異が具現するようになってしまうの」
あの恐怖が現実の世界にも運ばれてくる?
消えた筈の冷血な視線が、不吉の権化のようなあの影とそれを照らす暗黒の炎が、一真の脳裏に亡霊のようにとり憑く。
一真はそれを振り払うように頭を振った。あれはそんな単純に邪悪だとか、おぞましい物に分類すべき物ではない。むしろその方が恐ろしい事、冷酷な事ではないか?
そもそも、あの少女がどういう経緯であのような憎しみと悲しみを抱いたのか、一真は具体的に知らないのだからあの少女に邪悪という表現が適切なのかもわからない。
「勿論、普通はそうなる前に、陰陽師が解決するのだけどね。陰陽師の手の行き届かない所も……沢山、あるし」
月の喋りは急に歯切れが悪くなった。顔に影が差しぼんやりとしていた瞳が苦悶で細まる。
舞香が慌てて――いるように一真には見えた――彼女の話を引き継いで言う。
「いわゆる神隠しだとか、妖怪、置物の人形の首が何もしていないのに落っこちるだとか、そーゆー怪異は物の怪の仕業で引き起こされるのが殆どなんだ」
いまいちそれの具体的なイメージがつかず一真は首を傾げた。ピンと張りつめていた背が緩む。テレビでよく見るような神隠し、幽霊、怪奇現象。そう言った類の物は所詮、人の恐怖によって生み出された虚実に過ぎない。そんな感覚が一真の中にある。あったのだが。
「神隠しってのは、物の怪が陽の世界の人間を陰の界に引きずり込む行為で、ホラー番組とかでよくある、何もしてないのに置物が落ちたり壊れたりすんのは、物の怪がこっちの世界に来る予兆みたいなもんだな。もっと具体的な所業となると、体や精神に危害を加えられたりするのだが、それは物の怪が深くこの界に入り浸っている証拠でかなり稀なケースだな。昔流行った口裂け女だとかはこのケースの物の怪だね」
舞香が法螺話や冗談っ気のまるでない、世間話でもするかのように話しているのを見ると人の命は無限ではなくいつか費える時が来るのだと改めて聞かされるようなそんな静かな恐怖がある。
「勿論、そんな事はさせない」
月が再び口を開いた。実際に一真を物の怪の死の手から救い出してくれた少女。その声は清らかで澄んだ黒い目は鬱蒼と茂った森林のようにどこまでも深い。
威厳とも違う言葉には出来ない安心感を与えてくれた。この少女と共にあればどんな事が起きても助かるという根拠のない安心感だ。
「それに一真と一真の周りの世界は私が守って見せる。この思い出の場所を」
そう言うと月はこの十年間のどこかに置き忘れていた無邪気さを思い出したように瞳と口を和らげて笑った。
不意打ちのように向けられたその笑顔に、一真の顔は鬼灯のように橙赤色に燃え上がった。同時にこの笑顔を壊させたくないという激情に駆られる。ふと横を見ると舞香が気持ちの悪い笑顔を浮かべて、口元を袖で覆っている。一真は慌てて、居ずまいを正した。
「俺はどうしたらいいんだ?」
――だから、これを聞いたところで、お前に何が出来るんだ?
心の中の声が再び問いかける。それを振り払うように、一真は月の瞳をじっと見た。
「何も」
月は、またあの落着きはらった静かな口調にいつの間にか戻って言った。
「一真は自分と自分の周りの人の身が危険になったら、そこから逃げ出せばいい。私が助けるから」
「いや、それは分かってるけど……俺はお前の助けになるような事をしたいんだ」
それこそ、何の考えもない無意味で、無責任、無才な人間の言う現実味のない言葉だと一真は言葉に出してから思い後悔した。
――ありがとう、でも何もしなくてもいいよ。あなたは守られる側なんだから
そんな言葉が今にも飛び出してくる気がして、顔をそらし畳の床に視線を逃がした。
「じゃあ、一真も物の怪と戦う?」
意外な一言に一真は頭を上げた。がその誘いは本気ではない。そこにあった表情を見て一真は、思わず息を呑んだ。
黒い瞳にはこの世の千辛万苦、四苦八苦が凝縮されて詰め込まれているようだった。重圧のような沈黙が二人の間の空気で留まる。安易な同情や共感で言葉を撥ね付ける見えない結界がそこにはあった。
「物の怪は身体よりも精神の傷を抉ってくる。心に少しでも付け入る隙があれば、あっという間に憑かれてしまう。そして、精神の根幹まで食い尽くされてしまう……その恐ろしさを一真は知らない」
「知っているさ。覚えてもいる」一真は反発するように返した。月は黙ったまま、その言葉の続きを待った。
「いや、具体的に何があったか覚えているわけじゃない。だけど、お前と一緒に物の怪に立ち向かった。それだけは覚えている……てか、思い出しつつある」
「そのせいで、大変なことになったのに」
「え?」
怪訝に眉を寄せる一真に、月は何でもないというように首を振った。長く艶のある漆黒の髪が動きに合わせて揺れる。
「ともかく、私はあなたの助けは要らない。それよりも話を戻すけど、今この町で怪異を起こしている物の怪には一つ大きな特徴があるの」
「物の怪は既に現実の世界まで出てきてるのか?」
月は小さく顎を引いてうなづいた。
「その物の怪は特定の実体を伴わない煙のような存在で、人間の心の負の領域を突いてくるの」
「自分が一番怖いと思っている物にこの物の怪は変化するんだ」よくわからないという顔をしている一真に舞香が補足するように言った。
「名前みたいなのはないのか? そいつ」
物の怪という呼称だけでは不便なような気がして、一真は聞いた。
「まあ、今の所私達は『影』という呼称で呼んでるけどね」舞香が言った。
「で、俺はそれで、どうしろと? それを一方的に聞かせておいて」
風もないのに部屋の温度が一気に下がった。夜の冷えとも花冷えとも違う。月の表情もまるで変わらず、冷然としていた。それが何故だか自分でも分からないが、一真を苛立たせた。心臓の中で炎が燃え上がっているようだった。燃えれば燃える程心を冷やす怒りの業火。
こんな感覚になったのはこれが初めて……ではない。これまでの人生で何度か感じて来た物だ。初めに感じたのはいつだったか。そう、まだ幼い小学生の頃。大好きだった父親が仕事で何日も家に帰ってこなかった時。帰ってきた時。剣道の稽古を付けてくれる筈だったのに、仕事が再びある日までほったらかしにされた時。仕事の疲労のせいだと、幼いながらにわかっていながらも、どこか父親が自分を避けているような気がしてならなかった。
剣道の稽古の時、怒りは一真の血管を駆け巡り竹刀へと宿った。そんな時はいつもとはまるで違うとてつもない力を発揮出来、普段は勝てないような練習相手を打ち破る事が出来た。
小学生の高学年から中学生に入ると頻繁にそれは嚇灼し、時に爆発した。
友人だと思っていた部活の仲間に嘘をつかれ裏切られた時。
自分よりも年下の後輩に見下された時。
支えて欲しい時に傍に誰もいなかった時。
相談したカウンセラー教師に「それは思春期にはよくある一時的な感情。勉強に集中しさえすればそんな感情はおのずと抑えられる」と独り善がりのアドバイスを受けた時。
高校に入ってからはそれが自分勝手な怒りだと――完全には納得できないが――直すべき欠点だと自分に言い聞かせて、怒りを抑えるように努めた。無理に友人を作ろうとしなかった理由の一つでもある。
一真は恐ろしかった。何か、衝動に任せてとんでもない事を起こすのでは、と。が、今は違う。むしろこの感情に乗っかって自身の限界を見せ付けてやろうという気持ちがあった。
「その事実をただ聞かされて? その化け物どもの影に怯えながら暮らして行けと。そういうわけか? 後は任せろ。強い強いお前が守ってくれるってか?」
「か、一真―! 誰もそんな事は……」
舞香が慌てて諌めるように言い、月の顔をちらっと伺った。月は狼狽える事も無ければ、声を詰まらせることも、まして表情を一ミリたりとも変えることは無かった。
「わかった」
「何?」
「一真、剣道できたよね? 確か。今でも続いてる?」




